第三話
小夜。
特訓を終えた日向は、暁華と霧生のふたりと帰路につく。
談笑していると、霧生が異形の気配を察知して両手を広げた。
「止まれ。なにかいる」
妖刀に手をかけ、霧生が暗闇を睨む。
暁華に護られながら、日向は深閑とした暗闇に耳を傾けた。神経を尖らせて、なにが出てきてもいいように心の準備をする。鼓動が速まり、経験のない緊張に冷や汗をかいた。
「……げて」
幽かに聞こえた人の声に反応する。どこか、聞き憶えのある声だ。
ずるずると足を引きずり、血塗れになった青年が暗闇から出てくる。
「あれって」
ぼんやりと目に映る。あの青年は、あの青年は、あの――青年は。今日、神社で彼女を勇気づけてくれた彼ではないのか。
「幸介……」
「逃げて……逃げるんだ、早く――ぐぅ」
太く人間ならざる手の影が彼を暗闇に連れ去っていった。
ぶちぶち、ぐしゅり、ぐるるる……。
「喰われたか。くそっ」
「えっ……うそ」
嘘、嘘だ。これは夢、夢夢、夢夢夢。覚めて、覚めて覚めて覚めて――。
気を失いかける日向をかろうじて暁華が支えた。
――助けるはずではなかったのか。
――助けられなかった。戦いもせず、喰われるのを見ていただけ。
自責。ひたすら己を責めた。無力であることを実感し、歯軋りをする。
戦え。戦え。戦え。怯えるな、怯えるな。友の死を無駄にしてはならない。
懐から式札を手にして立ち上がった。
地を揺らしながら暗闇より現れた異形と対峙する。
「ナナシか、あれ」
顔、腕、服は夥しい量の液体を浴びている。ナナシの額には大きな角が一本、肌を貫いて伸びていた。人から鬼へと変貌する間際と言えよう。理性があるのか、虚ろな目はこちらを向いた。ずるりと変形した片腕を引きずり、近づいてくる。
荒ぶる魂よ、鎮まれ。
呪の詠唱とともに、五芒星がナナシの足元に浮かび、彼女の動きを封じた。
「日向……?」
こちらも変貌、成長する。目つきは鋭く、立ち姿は戦う乙女だ。
日向の変化にぽかんと口を開く霧生と暁華。彼女の横顔はどこか、青月に似ていた。
「霧生、私の結界なんて持って数秒なんだから、はやく妖刀を構えて」
「お、おう」
慌てふためく霧生は竹刀袋から妖刀を抜き、跳躍する。
戦闘開始。
妖刀の刃先はナナシの目玉に落下する。同時に結界が解かれ、ナナシが刃を弾き返す。大気がびりりと揺らぐほどの大声をあげ、迎撃する。
異形の腕と少年の刃が擦れ合う音が何十も響き渡った。
先に一太刀を浴びせたのは霧生だ。ナナシの腕に一撃を加える。怯んだ隙に懐へ入り、心臓部に刃を突く。だが、寸前で阻まれた。掴まれた刀ごと大空に放り投げられる。
ナナシは地面が割れるほど勢いよく飛び上がり、霧生の腹部に重い拳を落とす。
「がはっ――」
不味い。その三文字が浮かぶ。常人では劣勢になり、喰い殺される。ならば、こちらも同様の力を以てして反撃しよう。霧生は体勢を立て直し、鬼の力を呼び起こす。身体を巡る尋常ならざる力に理性を端から奪われる奇妙な感覚を無視して、己が己であるうちに敵を攻める。一直線にナナシの眼前へ迫り、刃を横一文字に振るった。ナナシの目を潰すつもりが、角を真っ二つにするだけとなった。
ふたりは間合いをとった。
霧生が地面に着地する間際だ。ナナシが目を光らせ、風を巻き込んで突進してくる。
落ちたところを狙った少女の猛烈な突進を受け止めきれなかった霧生はそのまま、後方へ吹っ飛ばされてしまう。
「あああああぁああああぁあぁあーーーー!!!!!」
理性を失ったのか、言葉を捨てたのか、少女はあらん限りに叫ぶ。
日向や暁華に目もくれず、ふたりの間を抜けて倒れている霧生へ駆ける。
呪の詠唱が間に合わない。それでも日向は試みた。だが、結界を破られた衝撃が平均的肉体の彼女を繰り返し襲った。血が噴き出しているような錯覚を起こす。浮き出た血管から視線を外したそのときだった。
動かない霧生に何度も拳をぶつけていたナナシの動きがぴたりと止まった。
なにがあった。日向はごくりと唾を飲む。
砂煙が晴れていく。目を凝らせばそこに、白く頑丈な人ならざる片腕があった。
「いってえぞ、てめえ」
ナナシの腕を掴んだまま起き上がり、霧生は少女を睨んだ。
すると、先までの覇気はどこへやら、ナナシは一歩二歩と後退していく。
結界を張ろうとした暁華と日向を霧生が制する。
「やめてくれ。今のこいつに、敵意はない。もう大丈夫だろう」
自分の数倍はある変形した片腕を引きずりながら、ナナシが逃げるように下がっていく。最後には片腕の重さに負け、ぺたんと尻餅をついた。ぼうっと虚空を見つめて、〝お兄ちゃん〟と一言残して口を噤む。
戦う気配が消えた。霧生は鬼の力を鎮めて、ナナシの前に屈みこんだ。
暁華と日向も彼女に近寄った。ふたりがきても、ナナシは無反応だった。
「ずいぶんと大人しくなったものだな」
「ああ。なんか最後、お兄ちゃんって言っていたぞ」
「兄? もしや、津雲川のことか?」
「だったらなにか、お兄ちゃんに命令されてさっきのやつを喰ったのか」
「判断しかねる。津雲川もナナシも神道会に捕まったはずだろう」
「んー、じゃあなんでこいつ、ここにいるんだ?」
ふたりが話す隣にて、日向は半ば睨むように少女を眺めていた。
恐怖は、ない。あるのは、怒り。
ふたりの友を奪った異形。今すぐに問い殺したい。
なぜ、幸介だったのか。
なぜ、律華だったのか。
なぜ、自分を喰わないのか。
どうして、大切なものを奪うのか。
答えが知りたい。その強い欲望があたまのなかで渦巻く。
「ねえ」
声が震える。
バケモノがこちらを向いた。
「答えて。なんで、私から大事なものを奪うの」
ナナシはなにも言わない。ただただ、美しいものを見る目で日向の心臓を凝視する。
我慢の限界。ナナシの胸倉を掴んで落涙しながら、溜めこんでいたものをぶつけた。
「どうして私から大切な人を奪うの!? 私が食べたいのなら私を襲いなさいよ!」
ナナシが怯えの色を見せ、暁華と霧生が慌てて日向を引き離す。
「落ち着くんだ、日向。ナナシを刺激しないほうがいい」
「放して、放してください! 私は知りたいんです。なんで律華と幸介だったのか!」
彼女が泣き叫んでいるところへ、青月と黒鋼がやってきた。
「おいおい、どうなってんだこりゃ」
「……日向」
日向は息を乱して、ナナシに鋭い視線を送る。
だが、ナナシは答えることなく、力尽きるのだった。
×
ナナシを連れて、東堂の店に戻った一行。
黒鋼と暁華が別室で結界を張り、様子を見ると言って移動した。残った青月、日向、霧生の三人は東堂の前に集まった。以前のような和気あいあいとしたあたたかな居心地はしない。張りつめた空気で息が詰まりそうだった。
東堂はすべてわかりきっていると言いたげに笑んだ。
「さて、私なにを聞きたいのかな」
「ナナシは何者なのか、話してください」
師の思惑を、とは言わなかった。あの名無しの少女を生んだのも、そのひとつだと確信があった。まずは、想像を確実なものに。
「ふむ、少し時間をもらうぞ」
「それでも構いません。あの子がどういう存在か、本当のことを教えてください」
東堂は紫煙を吐いて、消えゆくそれを眺めながら、つらつらと語り始めた。
名無しの少女はある日、神道会に保護された。その身に鬼の力を宿して、霧生と同じく成長できない身体となって。その状態に目をつけた滅鬼師たちは、少女の存在を秘匿とした。稀有な力を手中におさめるためだった。
記憶も、人間としての知性も不安定な彼女は、逃げ出さなかった。傍に、兄がいたからだ。
飛び抜けた力を持つ彼女が唯一耳を傾けたのは、たったひとりだけ。津雲川宗生だけだ。
名無しの少女を連れてきたのも、彼だった。
「お前は俺の言うことだけを聞け。ほかの連中なんぞに耳を傾けるな」
少女は頷いた。
「わかった。お兄ちゃん」
ふたりが兄妹であることを知る者は、ごくごくわずかである。
少女とはいえ、半分は鬼。腹を空かして人を喰う。そして、知らず知らずのうちに異形を増殖させていく。それが彼女の生き方だった。だが次第に、彼女から感情が消え失せていくのであった。笑うことなく、泣くことなく、怒ることなく、ただ従順に本能の赴くまま在る。
兄のいない迷い子は、腹を空かせて彷徨っていた。そこをたまたま、日向たちに目撃されて今に至るのだ。
東堂は一旦口を閉じ、青月たちのほうへ視線を投げ、再び開いた。
「ナナシが何者か、その問いに答えるならば『滅鬼師たちが保護した半人半鬼の少女』だ。別段変わったところはない。霧生ヨウスケと性別が異なるだけの半人半鬼だ。まあ今は、道を見失った迷子さんだが」
東堂が話を終えた頃には月がさらに高く昇り、雲のなかに隠れる。
ただの少女。そう、ナナシはただの半人半鬼になってしまった少女なのだ。腹を空かせたならば、腹を満たすため人を食す。そのうちの一部に、紗耶は、青月はたまたま、偶然にも選ばれた。
否、と青月は眉を寄せた。
偶然ではない。あれは必然だった。でなければ、復讐劇が始まらない。津雲川と彼が相対するよう仕向けるには、だれかがナナシに紗耶と青月を食せと命令しなければならない。憶えている限り、あの場に津雲川はいなかった。ナナシ、紗耶、自分、そして――。
「以前起きた異形の大量発生は、ナナシが空腹を満たすために人間を喰い散らかした。お前たちからすれば恐ろしいことだ。しかし、ナナシからすればあれが生き方だ。喰い殺し、飢えを満たす。それだけのことさ。――さて諸君、これからどうするね」
これからどうする。ナナシをどうするか。
「さっきも言ったが、ナナシはただ喰うことしかしない。今更人間のように生きられるはずもない。だったら、ここは楽にさせるのがいいのではないのか」
楽にさせるの意味を悟った日向がかぶりを振った。
「待ってください。そんなのダメです。あの子はなりたくて半人半鬼になったんじゃない。したくて、人を食べているわけじゃないのに、殺すなんて……せめて、津雲川さんのところへ」
「日向、ナナシは人間じゃなくなった。津雲川に預けたところで人を食すのに変わりはない」
希望を失った顔つきになって、日向はすとんとソファに座り込んだ。
青月は己が口にした言葉を心中で復唱した。人を食すのに変わりはない。
どこへ行こうと、鬼としての本能が人を求める。名無しの少女はそう、人としてではなく鬼として生きるようコントロールされてきた。同じ半人半鬼でも霧生との違いはそこだ。霧生ヨウスケは鬼の力を制御することを教わった。制御を学び、鬼の力と人を喰わぬ飢えを自分自身でコントロールしている。ゆえに、人間として在ることができた。ちなみに彼曰く、力は自由自在だけれど、飢えはそうもいかない。時たま、酷いとほぼ毎日、格闘しているとのこと。
反してナナシは制御を知らない。このまま放っておけば、犠牲者が増えるだけだ。
津雲川と決着がついた以上、ナナシを殺めることはないと思っていた。だが、そうもいかないようだ。やれと言われればやろう。ただ、ナナシを一異形ではなく、ひとりの少女としてとなるとためらいがある。さりとて、彷徨う少女を解放する方法はほかにはない。
「殺めるべき、かな」
すかさず霧生が、青月の胸倉を掴んで反論した。
「ナナシが仇だからか」
「俺の復讐は終わった。あの子はもう仇ではないよ。でも、仇ではないからと言ってあの子を放っておくつもりはない。あの子を鬼の力から解放するのなら、それ以外方法がないだろう。きみなら賛成してくれると思ったんだけどな、ヨウスケくん」
今度は日向が立ち上がって声を上げる。
「待ってください。きっとほかにも方法が」
「滅鬼師以外の人間が、異形を倒すということは人を殺めるに同じ。方法はないんだよ」
こんなことに巻き込んでしまってすまない。青月は心中にて愛娘に謝るのだった。声に出して言うことが、なぜかできなかった。
霧生が青月から離れ、続きを受け継いだ。
「そのことは鬼たちもわかっている。だから滅多に憑かない。滅鬼師がいるから、異形化しても大丈夫だなんて思うなよ。全部の人間の異形化を防ぐことは無理なんだ。滅鬼師も、すべてを救うことはできないんだ」
霧生は悲しげな目で日向を見つめる。
「本音をいうとな、日向。こういうことだから、お前に戦ってほしくなかったんだ」
救うことの難しさを痛感したのか、彼女の目が揺らぐ。絶望するすがたを見ていられなくなり、青月は視線を逸らす。
青月たちのやっていることは、異形化した人間を殺め、死によって解放することだ。一撃目に鬼の心臓を停止させ、二撃目で人の心臓を貫く。そうして初めて、異形を倒せるのだ。
滅鬼師とて、すべての人間を守ることは難しい。いつ、どこで現れるかわからない怪物たちを倒すのは、容易ではない。
「……じゃあ、ナナシを殺すしかないんですか」
重苦しい沈黙のなか、東堂が口を開いた。
「私たちのいるところは、きみが思っているよりも残酷だ。手を汚し、殺め、そして解放しているんだよ」
日向は口を塞ぎ、急に咳き込んだ。今まで目にしてきた光景の意味を悟ったようだ。優しくその背中を、青月ではなくて霧生がさすった。出かかった手を、青月は引っ込めた。
「では、ナナシをどうするか聞かせてもらおうか」
殺すか否か。決断を迫られる。選択肢はあってないような状況だ。みな、決められた選択肢を言えずに俯く。迷う弟子たちからの返事を、東堂は静かに待っていた。そこへ、話を立ち聞きしていた黒鋼が入ってくる。
「師匠、今は答えを急ぐ必要はないと思いますよ」
彼は東堂へ歩み寄ってから、ナナシの様子を報せた。
「あの子はもう、長くないでしょう。今までどうやって生かされていたのかわかりませんが、ギリギリな状態です。それに、かなり長い時間異形化していたようで……命が危ういかと」
「わかった。とりあえずそうさな、ナナシのことは一旦保留だ。様子を見よう」
ほっとした霧生と日向は顔を見合わせ、笑みを浮かべた。
一方青月は、半ば腑に落ちないものの、師の指示に従うことにした。
話に区切りがつくと、日向がナナシの眠る部屋に移った。ひとりで大丈夫かと心配する霧生に、ひとりで大丈夫と返す。ほかの面々には見えなかったのか、彼女の顔色がよろしくなかった。青月は霧生たちに黙って、娘の後をついていく。
ナナシのいる部屋には厳重に結界が張られている。なかから暁華に開けてもらうよう口を開くより先にドアが開放された。
「青月か。どうした」
「日向はいるかな」
「ああ、いるぞ。ナナシとふたりきりにしてほしいと言ってきた」
青月は暁華と入れ替わりに入室する。質素な部屋には、ベッドに仰向けで横になっているナナシ。傍には悲しげな視線を送る日向。その背中は近づき難いものだった。ドアから数歩離れたところから声をかける。
「ナナシを憎んでいるのか」
日向は首を横に振った。
「いいえ。確かにこの子は、私の友達をふたりも奪った。ですが、ナナシを責めても、憎んでも、殺しても、あのふたりは生き返らない。もう、この世界にはいない」
「さっきの泣き叫んでいたきみはどこへ行ったんだい」
「あのときは混乱していましたから。急に戦わなくちゃってなって、気持ちが落ち着いたら、あんなこと言って……ナナシはなにも知らないのに」
唇を震わせながら、日向は少女の小さな手を握った。
「せめて、教えてあげましょうよ。なにが遭ったのか、なにがいけないのか。知らないまま殺してしまうなんて、ひどすぎる」
堪え切れなくなった彼女は落涙した。小さな手に、ぽろぽろと落ちていく。
彼女のひとつひとつの言葉が、青月の胸を刺す。
――鈴。
愛娘の名を言って、抱きしめる。戸惑う彼女をさらに抱きしめ、耳元で囁く。
「泣かないでくれ。きみの涙を、俺は拭えないから」
本心をいくつか殺し、抑えているものが出ないよう歯を食いしばり、そして言えた。
偽りではない言葉を口にしたのはいつぶりだろうか。わからない。だが、紛れもない真だった。日向鈴の涙を拭えない。愛娘を捨て、復讐心に囚われた父親が彼女の涙に触れることは許されるはずが――ない。青月は心中にてそう思い、込み上げてくるものを下へ下へやる。
ふと、作られた手にあたたかな手が絡まる。
「あなたは、やっぱり」
「この世界には知らなくていい真実だってあるんだよ」
遮った。彼女がなにを言うかを悟ったからだ。
青月の意を悟ったからか、日向は一度口を噤む。それからまた開いた。
「それが幸せだというなら、ナナシはきっと幸せでしょう。なにも考えず、ただお腹がすいたらご飯を食べるように、人を喰らうだけ……ですが、そんなものは紛い物の幸せです。いつか壊れて、この子を狂わす。そのいつかが、今なんですよ」
日向は自分から青月の腕を解き、涙を拭く。そして、ナナシのあたまを撫でた。
青月はベッドの端に腰を下ろす。
「落ち着いたみたいだね」
「はい。なんとか」
やや無理はしているものの、日向はぱっと明るく笑む。
ほっとしたからか、遮った日向のやっぱりから先を聞きたいからか、自然と口がそう動く。
「きみは本当の家族のことを、どこまで?」
愛娘が驚いたのは一瞬だけ。真摯な面持ちになって、語りを始めた。
「すべて、養子として育ててくれたお母さんから聞いたことです。
私の本当の両親は、私が生まれてすぐ怪物に、異形に襲われました。残された私は、今のお母さんに預けられました。なんでも、本当の両親と養母さんは親友で、それで預かったと聞きました」
――「私、*も、宗くんも、真里も、みーんな大好き!」
とても明るくて。優しくて。人懐っこくて。
――「私がいなくなっても、あなたはひとりじゃない。私はあなたの心にいる」
透き通った声で。みなの心を穏やかにするような目で。未来を見据えるような瞳で。
「それきり会ってはいないらしいんですけど、時々似た人を見かけると言っていました」
――「どうしてですって? ふふ、なぜかそんな気がするの。私は近いうちにいなくなる。それも残酷な形であなたを置いていく。運命というのかしら、こういうの」
眩しい笑顔を絶やさない。なにを語るにしても、その口元は微笑んでいる。
――「真里は宗くんと別れたみたい。私たちも別れる? ……ふふ、冗談よ」
柔らかな唇は、嘘も真も冗談も、運命なんて大それたことも、それらを告げるために動く。
「その人が幼い私を見る目は、親が子供を見守る優しくてあたたかいものだったって。〝間違いない。あの人は私の初恋の人、紗耶が愛した人よ〟って言ってくれたんですけど、私には両親の記憶がなかったから、なにを言いたいのかさっぱりで」
――「私、あなたが好きよ」
初心な心で告白して。
――「わたし、あなたを愛しているわ、*」
運命をわかっているはずなのに、愛を告げて。
「そういえば、よく聞かされていました。私の本当の両親はとても、子供思いな人だって」
――「あの子をひとりにしないであげて。きっと、あなたに似て臆病で寂しがり屋だから」
死の間際、また柔らかな唇が動いた。彼女らしい最期の言葉だった。そして、ゆっくりと閉じていく。開かれる日は来ない。永遠に。
――「*くん、もしかしてこの子……わかった。私、育てる」
そしてひとつの尊い生命が、死者(彼女)から生者(親友)へと託された。
日向鈴の語りが、彼の眩しい光に包まれた記憶を呼び起こす。もう二度と、その日々が訪れることはない。かつての記憶、遠い過去の思い出。胸に秘めた一時。現在とは交わらない彼ら彼女らだけが知るものである。
今でも心の片隅に残る。けれど目を閉じて、呼び起こされた記憶を仕舞い込む。引き出しに入れて、鍵をしめて、開かれることのないように。
「そうなんだ。きっと良い人だったんだね」
作り笑い。初めて聞いたふりをする。
「青月さんだと思っているんです」
偽の仮面が少女の真っ直ぐな瞳によって崩された。
「今……なんて?」
「養母さんが教えてくれた人が青月さんだと、私は思うんです」
驚きが隠せない。おそるおそるどうしてかを問い質す。
「あなたと出会ったときからずっと、私の本当のお父さんじゃないかって思っていました。青月さんの背中を見ていると、まるでお父さんみたいで安心するんです。だから、もしかしてって。勘違い、かもしれませんけどね」
勘違いではない、きみの思う通りだ――とは言えなかった。わずかに震える唇の奥から嘘を吐く。思い違いだ、きみの両親はもう生きていないだろう。
「はい、そうです。顔も憶えていません。それでも、私には」
「俺はきみの父親なんかじゃない」
「あなたは生き返った!」
日向が声をあげ、ふたりは半ば睨む形で見つめ合う。
夜空に灰色の雲が垂れ込める。徐々に街を濡らしていった。
「生き返ったから、俺が父親だと言いたいのかい」
「はい。証拠はありません。でも、私にはあなたが」
青月は指を動かす。日向の両手がひとりでに動き、彼女の首を絞めた。
少しずつ心に迫られた感覚に襲われ、手が出てしまう。ゆっくりと手を下ろし、日向を糸から解放する。視線を外して、すまないと謝った。
「……あなたはなにが怖いんですか」
苦笑。表情を見せないよう顔を伏せて。
「なにも怖がってはいないよ」
「あなたは、大切なものを奪われることが怖いんじゃないですか。あなたの好きだった人はナナシに殺されてしまった。同じことを繰り返さないために、片手を犠牲にして私を守った」
「あれは余計な犠牲を出さないためにやったまでだ。きみのためなんかじゃない」
「嘘。あのときのあなたは必死だった。ただ犠牲を出したくないだけなら、片腕を犠牲にしてまで守ろうとしたのはなんだったんですか。あなたは、なにを避けているんですか」
避けていることすなわち、愛娘へ真実を告げることだ。だが彼女は、青月の隠している真実に近づいている。なにも言わなくともきっと、その手に真を掴むだろう。
「……詮索のしすぎはよくないよ。それじゃあね」
ナナシの眠る部屋を退室する。日向が最後に口を開いたけれど、ドアの閉まる音と重なって彼の耳には届かなかった。




