第五話
次の日だ。
木格子の感触に、捕まったのだと実感する。重いため息をして、木格子にもたれた。天井を仰ぎ、日向は座敷牢のなかを見渡す。脱出に使えそうなものは当然ない。助けを待つほかなかった。かぐわしい畳の香りをいっぱい吸って、吐いた。
足音がして、木格子からばっと離れた。
「お目覚めですか」
現れたのは津雲川ではなく、美少年だった。
「僕は安倍秋と言います。以後、お見知りおきを。それから」
秋の隣にいた女が微笑んだ。
「初めまして、日向鈴。私は、蜜月八羽です」
蜜月。その名に聞き覚えがあった。天炉たちを異形から助けた美人さんだ。
「は、はじめまして。あの、私になにか?」
蜜月はおもむろに袖口から鍵を取り出した。
「手をお出しになって」
言われて。木格子から手を伸ばす。鍵はその上に落とされた。
「これってもしかして」
「いつ、ここを出るかは、あなたの判断にお任せしますわ」
日向はすぐに鍵をしまう。
「それと、あなたに伝えたいことがあります」
蜜月が改まった口調になり、日向はおもわず正座する。
「この一連の騒動は、我々組織の与り知らぬこと。どうにかあやつめを罰したいのですが、確たる証拠がありません。ですから、あなたをここから出すことはできません。私にできるのは、鍵を渡すぐらい」
「それだけで十分です。あの、やっぱりこれは津雲川さんひとりがやったことなんですか」
こくりと優雅に、蜜月は頷いた。その隣で、秋が不安げな色を浮かべる。
日向は思考を巡らせた。津雲川の独壇場――裏を返せば、ひとりでやらなければいけなかったのだ。組織ぐるみでないのなら、だれかが津雲川を駆り立てたか、津雲川ひとりが己の意思で動いたか。日向は前者だと踏んだ。なぜなら、
「――あの人はきっと、悪い人なんかじゃない」
×
ガラスケースから現れた優美な容姿を持つ人形を、青月は自分の前に立たせる。彼女に酷似している人形の感触を、指先で感じ取る。愛している彼女ではないけれど、彼女を愛したいがため己が手で作り上げた人の形。抱きしめれば、彼女そのものである。
「俺と戦ってくれるかい、紗耶」
頷きはしない。
「俺ときみで、津雲川を倒す」
声はない。
「いこう」
けれど、青月の手によって、彼女は華やかな装飾がされている刀を握る。
太陽が沈み、月光降る時刻。
青月、霧生、黒鋼、暁華、東堂が神社の本殿前に顔を揃えた。みな、戦う覚悟をうちに秘めている。本殿より開かれる橋の登場を待った。
「東堂久々津の名において、眷属に声をかけよう」
二匹の鴉が両翼を広げた。
「「何用か」」
「京都滅鬼師総本山前の神社まで、橋を繋いでくれ」
「「承知した」」
本殿の扉が勢いよく開放される。奥に道が出来上がり、無数の鳥居が列をなす。
一斉に、決戦への架け橋へと歩を進めた。
鬼や異形が寄りつかないようにしてある橋の力によって、半人半鬼の霧生はふらふらでおぼつかない。ここぞとばかり黒鋼がからかう。そこに暁華の一喝が入って、ふたりがしゅんとする。戦う前だけれど、いつもの光景であることに青月は微笑ましく思うのだった。
そして、出口をくぐって京都に立つ。
青月たちは武器を構え、敵陣へと乗り込む。
勢いづく彼らの前に、巨大な門が立ちふさがった。門前には顔を札で隠した人型の式神がいる。だが、それだけでは時間稼ぎにならない。青月が操る紗耶の刃と霧生の妖刀が、背後の門扉ごと式神を切り伏せた。
破壊された門の向こうを、東堂の煙管が示す。
「さてお前たち、ここをぶち壊してしまいなさい」
それを合図に、青月たちは疾走する。
数多の式神が阻む。前後左右、屋根の上、建物の影、隙間なく化けた紙がいる。背中合わせでいる青月と霧生のふたりが呆れ顔になった。
「総動員って言うべきかな」
「ですかねえ。ま、こんな紙切れ相手に俺らが苦戦する――って、師匠?」
すると、東堂が敵陣の中心に歩んでいく。なんだと思い、青月たちは東堂の様子を伺った。
式神たちが一斉に東堂へ攻撃を開始した。東堂は片手を上げ、指先に力を集中させる。めらりと、赤い火が現れた。
「偽物に、用はないんだよ」
冷徹な声のあと、火花を散らしながら指を鳴らす。一拍子置かれたと思いきや、何の前触れもなく無数の式神が燃え上がった。一瞬にして辺り一面が赤く染まり上がる。けれどそれは少しの間だけだった。さっと炎は消え、月光が落ちる。
「すっげえ。さっすが師匠」
滅多に力を見せない東堂が、瞬く間に敵を一掃した。敵に回せばどうなるのか、青月たちは思い知った。
本部の入口にあたる建物内へ直行。施錠された扉は悉く斬られる。
「ここが本部か」暁華が言う。「広いな。どこかに日向がいるといいんだが」
「二手に別れよう。暁華と黒鋼が日向を探すんだ。青月と霧生で敵を倒せ」
東堂の言葉に、みなが頷く。暁華と黒鋼のふたりは、日向を探しに向かう。
「さってと、どこに敵さんがいるんだろうな、青月」
「探さなくてもいいみたいだよ、ほら」
青月が大広間の真ん中に目をやれば、そこに津雲川が佇んでいた。まるで青月を待ち望んでいたかのような顔色だ。
青月の闘志が燃えた。津雲川を倒し、ナナシを倒し、すべてに終止符を打つ。
いよいよ、戦いの幕が切って落とされる。
双方の手には一振りの刀があり、同時に鞘から刃を抜く。切っ先を向け合って、闘志と覇気とを示す。ここまでに繰り返し交えてきた。数えきれるわけもなく、勝敗が決することもなかった。壇上に立つ人物は同じ。ただ異なるは、観劇者に呼吸を許さない張りつめた空気。尋常ではない。そうでなければ、互いに心の蔵へと刃が届かない。
静かに刀が構えられた。
邪魔立てする隙もない。声をあげることもできない。ただふたりだけの舞台だ。
最後の戦いに言葉など不要。ただ、刃を交えて勝負を決めるのみ――。
はじまりの合図の言葉が、ふたりから発せられる。
「いくぞ」
青月操る紗耶と津雲川の初手はほぼ同時。完全、でなかったことが青月の美顔を歪ませた。わずかな遅れが隙を与えた。青月の手が遅いのではない。津雲川の強化無しの純粋な肉体での速さが上だった。紗耶の剣を薙いだ次に、空いた正面へ迫った。
そうくるとわかっていた。青月は紗耶に指示する。人形はくるりと回り、勢いそのまま刀を投擲する。
そうくるとわかっていた。踏み込んだ足を軸にして身を横へずらした津雲川。刃は通り抜けた。それが主を刺すことはなく、主の指示に従って紗耶の手元に戻った。
そうくるとわかっていたぞ。ふたりの双眸がもう一度言った。
手の内など隠さぬ。策など講じぬ。たとえ隠そうが、策を実行しようが、すべて一筋のうちに読まれる。もしも手はないかと考えた場合、相手にとてつもない隙を見せることになろう。つまりは、この戦いにおいて思考も雑念も憎悪も復讐心もあってはならない。穢れた心を見せようものなら、青月と見ず、津雲川と見ず、ただの木偶の坊として斬られるだけだ。
白刃が戦いの音を響かせて、鍔迫り合いへと移行する。
津雲川と紗耶の顔が近くなる。彼の色に変化があると、見逃さなかった青月が紗耶に刃を震わせた。隙を突かれた津雲川は後退し、舌打ちをする。
そして再び、白刃輝く戦いをはじめた。
一方で、ナナシを任された霧生は訝しげに少女をじっと見つめた。
まるで覇気が感じられない。それどころか怯えている。金属音を聞くたびびくびくと肩を上下する。とうとう、ぺたんと尻餅をついて蹲ってしまった。
そろりと距離を縮める。やはり戦う意思が見受けられない。これまでのナナシのすがたが幻のようだった。仕方なく、霧生は矛をおさめた。小さくなっている少女の隣に屈んだ。
「お前、俺と一緒だ。ずっと怖かったんだな」
つぶらな瞳が潤む。津雲川をその目におさめた。
「お……にい、ちゃん……もう、いいよ」
か細い声はだれの耳にも聞こえていなかった。ただただ、白刃の音にかき消される。
数十と交えたのち、互いの間合いから離脱する。
まだ致命傷となる一撃が放たれていない。否、ふたりともがそうさせなかった。
拮抗する力と力。もしも長期戦にでもなれば、津雲川が苦戦を強いられるだろう。白刃戦では互角だが、滅鬼師特有の妖気を操れば優勢になるかもしれない。しかし相手はただ者ではない。〝好敵手〟と称すべき青月だ。妖気のことを熟知している。下手に使えば、強引にでも力尽きるその刹那にもっていかれる。そうなれば津雲川自身の生命も危うい。最悪死を迎えるだろう。だが、津雲川も青月もそんな決着を望んではいない。正々堂々と戦い抜き、その末に勝ちをもぎとる。
己が刃で貫く。それこそ彼らがもとめる瞬間だった――。
「まだ終わらないだろう、津雲川」
「当たり前だ。わざわざ妖気を使う選択肢を捨ててやったのだ、光栄に思え」
「そう、ありがとう。思う存分やれるわけだ」
青月はぺろりと舌なめずりをする。
津雲川は笑みを絶やさずに柄を握し直した。
草木も眠る丑三つ時――ふたりの力と技が、観る者の目を覚まさせた。
×
戦いの緊迫感は、日向にも伝わっていた。蜜月からもらった鍵を握り、仲間の無事を祈るのだった。
「みんな……」
夜空を見上げたそのとき、彼女を呼ぶ声がする。暁華と黒鋼だ。
「よかった、無事のようだな」
「はい。暁華さん、これを」
暁華は鍵を受け取り、座敷牢の扉を開放する。
三人は留まることはせず、本部の入口へと戻っていった。
東堂たちと合流早々、日向は総毛立つ。
呼吸を奪われる。言葉を奪われる。思考を奪われる。目を奪われた。あまりの壮絶さに戦慄する。力んでいなければ膝が笑って立っていられなくなる。口のなかの水分がなくなり、喉がからからになった。金縛りにあったかのように、身体が微動だにしない。じっと、見開いた目にて肉眼では追いつけない凄まじい攻防戦を見届けた。
どちらが優勢なのか。どちらが劣勢なのか。判断はだれにもできない。否、勝敗も判断もすべて、彼らに委ねられた。
剣戟の響きに、日向の手から血の気が引く。その手を、霧生が優しく包んだ。
「霧生……」
「大丈夫だ。きっと、青月さんは勝つよ。今は見守っていようぜ」
「うん」
青月の背を、日向は見つめた。
必死に戦うすがたをあたまに焼きつける。
――いつか、あの勇姿になろう。
――なれなくってもいい。強くなるためにも、近づこう。
少女に新たな思いが芽生えるとともに、拮抗した戦闘が揺らぐ。
×
傀儡とて精神は人である。よって、疲労が蓄積されていく。津雲川も同じこと、生身の肉体に現実を逸した領域での対決は厳しいものがあった。だが両者ともに、限界を顔に出すことはしなかった。笑みを浮かべて、まるで楽しむかの如く刀を振るう。
その笑みを先に崩したのは、津雲川だった。
彼の反応が鈍くなっていることを見逃さなかった青月は、素早く指示を送る。
紗耶が一歩を踏み出して、一気に跳躍する。反応が遅れた津雲川の防御は甘い。刃を薙いで心臓一突きを狙う。――が、相手は〝好敵手〟だ。そうはさせてもらえなかった。
さすが。青月は自然と胸の内で称賛の言葉を呟く。
紗耶の刃は寸でのところで停止した。津雲川が妖気を操り、下から無数の蔓を生み出した。太い蔓は彼女の刃をぎりぎりのところで止めたのである。心臓は貫かれることはなかった。しかし、横腹が見事に抉られて出血する。
「おのれ貴様、この俺に一撃を与えるとはな」
「ふふ。今度はきちんと心臓を抉ってやるよ」
「ふん、ぬかせ」
青月からも笑みが消えた。紗耶が使えなくなり、大きな隙ができてしまった。それでも怯まない。まだこの身ある限り、戦える。片方の手を、突進してくる津雲川にかざして、不可視の糸を伸ばす。けれど津雲川のほうが速い。先ほどの鈍りが演技と言わせるようなスピードだ。瞬く間に青月との距離を零にする。
迫ってきた刃がからくり人形のあたまを突く。
からくり人形が作られた右腕にて防いだ。
一時的に双方がぴたりと停止する。鋭い眼光を浴びせ合ったのち、先手をとったのは津雲川だ。突いた刀をそのままに、青月の鳩尾に膝蹴りをした。回避が間に合わず、青月は直撃を受け、わずかな間息ができず、抵抗もままならない。姿勢を崩され、地面に叩きつけられた。津雲川が馬乗りになって、両脚で青月の両腕を抑えつける。
はは、と津雲川が一笑すると、ふふ、と青月が笑う。
「なかなかしぶといな、人形風情が」
「きみこそ、長期戦になるとわかって有利な手を捨てたわりに、粘るじゃないか」
津雲川の火照った吐息が青月の鼻梁にかかった。
「貴様、ずいぶんと吹っ切れたようだが、なにかあったのか」
「俺のなかにあった復讐心がなくなった。今はきみとの決着をつけたいんだ」
「……なるほどな。人は変わるということか、それがあの世にいきかけた者でも」
「そうみたいだね。――俺が解せないのは、きみの腹の内が見えてこないことだ。なぜ、なんのために戦っているんだ? 腐れ縁のよしみで聞かせてくれ」
好敵手の顔が険しくなった。
「お前からナナシを守る。俺は死ぬわけにはいかんのだ。やるべきことがある」
彼の視線がある一点に集中する。その先に立つ者は――と考えかけてはるか後方から詠唱する声を耳にする。
「切り刻め、光鉄の刃」
ひゅん、と空を切って一筋の光が津雲川の左肩を擦過して、紗耶の刃を縛る蔓を斬った。
津雲川は舌打ちをし、飛び退く。青月のほうも起き上がり、紗耶を呼び戻す。
「邪魔立てするか、東堂久々津」
長らく沈黙を保っていた東堂が口を開く。
「青月、夜が明けるまでにケリをつけろ」
東堂は津雲川を見向きもしないで青月に言った。
命を受けた青月は訝しげに師へ視線を投げたけれど、正面に向き直った。
眼前には苛立つ好敵手がいる。様子がおかしい。乱入されたからといって、あんなにも腹を立てるような男だったか。否、あれは怒り。ならばなぜ?
戦いによって冴えたあたまが働いて、津雲川と東堂の関係を熟考した。
青月と雌雄を決する背景に、津雲川が東堂に怒る原因が隠れている……。
「いや、考えるのはよそう。勝てば、わかることだ」
色白い指先にて紗耶を操り、平晴眼に構えさせた。
その構えを目にした津雲川は悟り、柄を握る手に力を込める。
これがとどめの一撃――。
静寂を切り裂くが如く、青月の不可視の糸にて紗耶が突きを行う。見えない速さではない。戦い慣れた者ならば捉えられる。この突きを防げば大きな隙が生まれる。そこを狙って反撃をすれば津雲川に軍配が上がるだろう。
しかし、青月が警戒していた隙は生まれなかった。突きは払いのけられたはずだった。その感触は青月の指先にも感じとることができた。現実は違う。紗耶の刃が血塗られて、切っ先がきれいに津雲川の右肩を貫いていた。津雲川は苦渋の色をし、刺さった刃を抜いた。辺りに血飛沫が飛び散った。
勝敗は決した。意外な展開のあまり青月は驚愕する。
先まで鏡のように刀を振り、白刃戦を繰り広げた男が、一撃のうちに倒れ伏した。
全身を巡っていた戦いの熱が抜け、青月は脱力する。紗耶を下がらせ、津雲川の前に立つ。好敵手は汗を滲ませて痛みに耐えている。
「どうしてだ。あれは防げたはずだろう」
「もちろんだとも。貴様がそうくるとわかっていた。だが、これでは払いきれなかったようだ」
貫かれた右肩とは別に、左肩の擦過した部分からも出血している。微々たる量だが、重く速い突きの衝撃に傷口が広がったようだ。突きを払いのける際、擦過傷の少しの痛みが彼の太刀筋を乱した。払い、刃を交わすことをさせなかったのだ。
「だが、いや……そうか」
「拍子抜けか? ふふん、悪人の最後など惨めなものさ」
結果に腑に落ちない青月は紗耶に、刀を鞘におさめるよう指示する。
ふと、近づいてくる人影に目をやる。ナナシだ。
「お、にい、ちゃん……」
ふるふると小刻みに震えた少女が四つん這いになって津雲川の傍にくる。
「ナナシ……」
阻むものはない。少女は小さな小さな手を伸ばす。
阻むものはない。津雲川は妹を抱きしめようと腕を広げた。
阻むものがあった。少女の足元に五芒星が浮かび、結界が張られた。
ふたりの手は弾かれてしまう。何事かと緊張が走った。
みなが警戒するなか、大きな欠伸をするひとりの男がすがたを現す。
「いや~おふたりさん、長いわ。百あたりから数えるのやめたよ」
集まる視線をもろともせず、芦木は大広間の奥から登場する。総本山にいるのだから、津雲川以外の滅鬼師が居てもおかしくはない。新たな敵がすがたを見せたのなら倒すまで――なのだが、どうやら芦木は戦いにきたわけではないらしい。武器を構えた青月たちに閉じた扇を振って、戦う意思がないことを示した。
「もう、どれだけ元気あるのさ~。私はそれとそれを回収しにきただけですよぉ」
物扱いよろしく、芦木はナナシと津雲川を扇で指す。そして、扇の先を上下させ、人型の式神を五体出現させる。式神は津雲川とナナシを拘束した。
「離せ! おい芦木、なぜお前が出てくる!? 客人の相手は俺がすると言ったはずだ」
はち切れんばかりの津雲川の怒声に、芦木はけらけらと笑った。
「それって、お師匠様にナナシを殺されちゃうから、だよね」
言葉の意味を知る者以外はみな、驚愕と疑念を懐いた。
青月は疑念を払拭するため、答えを求めてやおら東堂のほうを振り向く。日向たちも同じだった。だが件の人物は、沈黙を守っている。
それが面白かったのか、芦木が声を殺して笑い出す。
「なるほど、そういうことでしたか。ですがね、神流様はぜ~んぶお見通しなんですよ。宗生のことも、あなたのことも。もちろん、お人形さんのこともね」
お人形さん。青月のことだ。青月は芦木を睨み、問い質す。
「俺のこともだと?」
芦木がにんまりと嬉しそうに笑みを浮かべた。
「そうですよ。ナナシに大事な人を喰われた哀れなお人形さん。復讐したいのなら、結界を解いて差し上げますよ?」
青月はかぶりを振った。
「もう俺のなかに復讐心はない。津雲川との決着がついたんだ、それ以上は求めない。その子を殺めることはしないよ」
すると、津雲川とナナシが驚きの色を見せた。
「青月、お前……」
反して、芦木から笑みが消え、つまらないと言いたげな顔になった。
「ちぇ。あーあ、興醒めですね。それじゃ、退散しますか」
芦木は身を翻して来た道を戻っていった。
後を追うように式神たちが消えようとした間際、青月、と津雲川が叫んだ。
「あのお方に気を付けろ。あのお方は、お前を――」
そこで言葉が切られた。その先を聞こうにも、もう誰もいない。
戦いの熱が冷めて閑散とする大広間。
長居は無用。みな、夜が明ける前に京都を去った。
帰り道は行きよりもぎこちない。先行する東堂の背に、みなの視線が集まっていた。
だが、男は無言でいる。どんな表情なのかは定かではないけれど、青月には笑っているようだった。
今ここでなにを言っても、返答は得られないだろう。
諦めて、愛娘へ視線を移す。
隣を歩く彼女の横顔はやつれている。大丈夫かと言えば、平気です、と返ってきた。無理をしているのは明々白々。日向のひきつった笑みに、青月は胸を締めつけられた。
出口をくぐり、空を仰ぐ。
長かった復讐劇を終わらせた男の眼に曇りはない。
死の恐れは無く、忘却の恐れは無く、ただひとつの決断を胸に秘める。




