鶏鳴狗盗
多少臭うアレになってしまったが、どうやら気づかれもせず、
「ステキ!」
昭襄王の寵姫はダイドードリンコアイス狐白裘
「というわけで、ひとつ、王様に──」
「まっかせて! 王様ってば、アタシの言うことなら何でもきくんだから」
というわけで、ひとまず包囲は解かれた。
しかし昭襄王も馬鹿ではない。どころか、なかなか英明なほうである。いつまでも女にほだされたままなのを期待できない。
出国を急いだ。
まさに間一髪。
またもや気が変わった昭襄王が、すぐさま追手を差し向けたのだ。
「捕らえるに及ばぬ。追いついたら、その場で殺せ」
やや小心なところはあるが、一旦、腹を決めたらその指示は徹底していた。
かくして咸陽をスタートに、国境の関所・函谷関まで、捕まったら即死のレースになった。
函谷関は山岳地帯にあり、峻厳な峡谷をまるごと塞ぐかたちで関所となっている。周囲の山々は険しく、国境を跨ぐにはここを通るしかない。上代より幾多の戦闘が行われた要所に、孟嘗君が到着したのは夜中だった。
当然、追っ手も夜を徹して馬に鞭を入れているだろう。
「みんな、大丈夫?」
気遣いながらも、背後に追手の砂塵を見る思いの孟嘗君だが、あいにくと函谷関は閉じられていた。言うまでもなく、夜陰に乗じた密入国を防ぐためである。
孟嘗君は焦った。
「開けて! 開けてってば!」
分厚い扉を叩きまくると物見の小窓から衛兵が顔を出して、
「お嬢ちゃん、無駄だよ。朝までは開けらんねえんだ」
「急いでるの! お願い!」
「そういう決まりでな」
「ちょっとくらいサービスするから!」
決死の思いで太腿を見せたが、
「──いやいや、やっぱ駄目だ。首を刎ねられちゃ元も子もねえ。悪いな」
秦は法治の国だった。
その運用は、かつて法治国家への変革を断行して、秦台頭の立役者となった商鞅その人でさえ、法の適用を免れなかったほどに厳しい。そして関所の夜間通行を許した者は、例外なく斬首と決まっていたのだ。
「朝は? 朝はまだ?」
決死のハニートラップが空振りに終わった孟嘗君、傷心を抑えて朝を待ったが、おいそれと夜は明けてくれない。
秦の伝令よりも速く着いたので、出国を差し止める命令は来ていないようだが、朝までに手配がまわることは必至だ。そのうち追手も来るだろう。
「みんなごめん。もはや、ここまで──」
涙声でうつむく孟嘗君に、
「孟嘗君ともあろうお方が、諦めが早すぎやしませんかなナ」
馮驩が言った。
「でも秦の法は絶対だって。朝までどうやっても通れないって」
「そうとも限りますまい」
「?」
「秦の法には、なんとありましたかな」
時計がない時代、人々はそれにかわる手段でおおよその時刻を得ていたが、ここ函谷関では、もっとも原始的な方法がとられていた。
すなわち、
「秦の法に書いてあるのは『一番鶏なかずんば門を開けるべからず』ではありませんか」
「──そうみたい」
「どこに『朝にならずんば』と書いてありましょうや」
「あっ」
「みんなそう解釈して、そのように信じこんでいるだけのこと。言ったでしょう、まずはありのままに観察すべし。次に分析。これは考えるまでもないでしょう」
「あとは──」
「左様。実行あるのみ」
馮驩は姿勢を正して手を膝におき、気が満ちてくるのを待った。やがてかっと目を見開き、天空に向かい胸一杯に溜めた息を放出した。
クックドゥードゥルドゥーッ!
本物の鶏までつられて鳴きはじめる迫真の名演だったという。
「?」
門番が怪訝な顔を見合わせたのも無理もない。漆黒の夜空には星がまたたいている。どう考えても夜だった。
「どうすんべえ」
だが一言一句違えると死罪になるのが秦の法だった。考えても始まらない。一言一句違えず行動するより他はなかった。
これぞ鶏鳴狗盗の故事。かくして孟嘗君は虎口を脱したのである。