大国・秦
馮驩を幕営に加えた孟嘗ちゃん、いや孟嘗君──あるいはその影武者は、ますます声望を高めていった。
ところで当時、中国の西端に、秦という国があった。
現在の甘粛省あたりとされ、初期は辺境の蛮国と蔑まれた後進国だったが、この頃には実力をつけて他国を引き離しつつあった。
およそ八十年後に中国全土を統一して、史上初の皇帝──始皇帝を登場させるのは、この秦である。
さて当時、秦のあるじは始皇帝から三代前、通算でいうと二十八代目の君主、昭襄王だった。
ちなみに、この時代の君主は『王』を名乗っていた。皇帝という冠名は始皇帝がみずから考案したもので、この頃はまだその呼び名がない。
昭襄王は天下統一の基礎をつくった名君で、やや小心なところもあったが、その気になれば、あるいは彼の代で天下統一できていたとも言われている。
その昭襄王が、孟嘗君をスカウトした。
ヘッドハンティングされた孟嘗君は秦に赴いた。すでに首都・咸陽入りもして、あとは初出仕を待つばかりになっている。
当然、昭襄王のもとで重職についていた人々は面白くない。
「確かに孟嘗君は能力、人品ともに優れ当代一流の人材であるといえましょう」
「左様左様。まさに頭脳明晰、博覧強記、当意即妙、全知全能の完璧超人。完全無欠の超絶宰相となるは絶対確実」
「あやかりたいものですなあ。天才きたる! あー、うらやましい、ねたましい」
と、しつこく昭襄王の耳に入れた。
人間、配下になる人物があまりに優れていると、ちょっと不安にになったりもする。どうしても自分と比較して、
(俺にそいつが使いこなせるだろうか? 見下されやしないだろうか?)
と、小心な一面のある昭襄王などは、疑心暗鬼が頭をもたげてくる。もちろん性格を知り尽くしている側近が、そういう反応を狙ったのだろう。その効果を見極めてから、
「私の取り越し苦労ならばよいのですが──」
と囁くように切り出した。
このあたりの、持ち上げるだけ持ち上げて落とすやりクチは、紀元前も現代もあまりかわらない。
「彼の人は、つまるところ斉の人でございます。我が国の宰相になられたら、斉と戦争になった場合、はたして平静でいられますでしょうか──いえ、決して疑うわけではありませんが」
「ううむ」
「政は時に非情なものでございます。他に方策なくば心を鬼にして敵を殲滅──皆殺しにいたらしめ、後顧を絶つことが避けられぬ場合もございます」
「確かにそうだ」
「はたして、そのなかに親兄弟がいたとすれば、さしもの英昧も判断に毫ほどの迷いが生じることも」
「ないとはいえまい。うむ、この話はなかったことにしよう」
「さりとて、このまま帰せば斉で登用され、秦の脅威となりましょう。ひょっとしたら今回のことで我々を恨んでしまうかも」
「よし、殺せ」
ひどい話もあったものだ。
かくして孟嘗君が滞在している屋敷は秦兵に包囲された。
「どうしよう」
孟嘗君は馮驩を見上げた。
自身の安全には殊のほか勘のいい食客たちは、とっくに逃げ散ってしまっている。影武者の中年男などは、
「実は、孟嘗君の正体はですね」
などとタレ込む始末。そう、女なのです。しかもまだ子供。信じがたいでしょう、そうでしょう。しかし影武者の私が言うのですから。なんでそれが英明と評判かって? 実は下品なギャグで取り入った浮浪者が入れ知恵をしてまして。あいつ妙に小賢しいのですよ。ロリコンのくせに。
一方、孟嘗君は、
「馮驩。ごめんね、こんなことになって」
逃げ遅れた使用人と、昼寝から起きてきた馮驩だけが、孟嘗君の戦力なのだった。
「いや、そう謝られてもですナ」
「──ごめん」
「なぜ謝られるか、わかりませんので」
「え?」
「まあ、そのへんは帰ってからお聞きしましょう。というわけで、そろそろ斉に帰りましょうか」
ただ、その前に少々寄り道のお許しをば。ちと、会わねばならん人がおりますのでナ。
そう言い残すと馮驩は屋敷を抜け、どうにか包囲もくぐり抜けて、とある豪邸に忍び込んだ。
そこに昭襄王の寵姫が囲われている。一国のあるじも愛する女には弱いもの。
「心の狭い王様、キライ!」
などと泣かれると困ってしまう。英雄、色の好むというが、中国もまた長いその歴史上、この手の傾城・傾国タレントに事欠かない。
そこを突くのが馮驩の賭けだった。しかしこの寵姫、確かに美しいが、欲の皮も相当なもので、
「そうね、王様にお願いしてみてもいいんだけどぉ」
「お願い申し上げる。この通り」
「いいんだけどぉ──孟嘗君さまって、アレ、お持ちなんでしょ?」
「金子ならここにこれ、このように」
「今さら、お金なんか欲しくないのよぉ。欲しいものはみんな王様が買ってくれるんですもの。けど、王様でも手に入らないものがあるの」
「と、言われますと」
「もう、とぼけちゃってぇ。王様の持ってる財宝より、もっとずっとレアなアレよ。レ・アな、ア・レ!」
「!」
彼女は孟嘗君が所有する宝物『狐白裘』を賄賂に要求したのだった。
狐白裘とは狐の腋の白い毛だけを集めた衣で、一着に狐が一万匹ばかり必要という、きわめて希少なアイテムであった。
「よりにもよって、あれかよ」
孟嘗君はその貴重な宝物を一着だけ持っていた。しかし秦に入国する際、昭襄王に献上してしまっている。
招かれるほうが貢ぐなど、あべこべのようにも思われましょうが、とっておきの宝物を差し出すことで、二心のないところを示しなされ。食客の一人がそう進言して、
「忠誠の証しに家宝を献上しますから、陛下もお心変わりのなきように」
心が変われば、最悪の場合は殺されてしまう。というか殺されかかっている。
それにしても、
「王から盗み出すのでなければ張り合いがありませんナ」
かつて、そううそぶいた馮驩だが、まさか今をときめく大国・秦の宝物庫を狙う羽目になるとは思わなかった。
「まあ、やるしかないかね」
どうにかこうにか忍び込み、お目当ての狐白裘を見つけたまではよかったが、そのあとが惨憺たる有様。あえなく見つかり逃げ回り、物陰に隠れ見つかって、矢を射かけられてまた疾り、池に飛び込み、床下に這い込み、太い梁によじ登り──。
「くそ」
まさしく這々の態。
なんとか肥桶を乗せた荷馬車の裏側に張り付いて、ようやく脱出したのだった。