ホームレス、仁義をきる
その男は、よろめき、倒れこむようにして滕の町にあらわれた。
髪はボサボサ、髭はモジャモジャ、煤けたような目鼻のまわりや、か細く突き出た手足の色は、素焼きの土器みたいに赤茶けて、伸びきった爪であちこち掻くたび垢は落ちるわ蚤は跳ねるわ、おまけに吠えたてていた犬までが、
「キャウン」
と逃げてしまうほど、ひどい臭気を漂わせている。
おりしも滕は近隣の人々でごった返していた。現在の山東省南部にあたる滕の周囲には、なだらかな平原がひろがって、小麦などの穀物をよく産する。人々は秋になると、それらを荷車に積んで納めにくるのだ。
その人々も、
「む」
と唸ったきり道を譲った。
城門から宮城にのびる滕のメイン・ストリートには、人々と荷車がひしめき渋滞になっていたが、男の周囲だけは大河に浮かぶ中洲のように、いったん別れてまた出合う人の流れができていた。
しかし男は気にする様子もなく、よたよた宮城までやってくると、あくびをかみ殺している門番をみつけて、白い歯をみせ腰を落とした。
「お控えなすって」
門番はいやな顔をした。
(面倒なやつがきやがった)
しかし風変りな雇い主からは、身分や風体を問わず、いついかなる相手であれ、ひと通りの応対をするように仰せつかっている。
やむなく、
「そちらさんこそ、お控えなすって」
「それでは仁義が通りません。どうぞ、そちらさんから、お控えなすって」
「それでは控えさせていただきます」
「早速、お控えいただきまして、ありがとうござんす。さし向かいましたるおあにさんには、初のお目見えと存じます。手前、生国と発しまするは宋の国。宋といってもいささか広うござんす。滔々流れる淮河のほとり、草深き野を月照らす、泗水は沛沢でございます。姓を馮、名を驩。故あって親兄弟もたぬ昨今の駆け出し者、西に行きましても東に行きましても、土地土地の皆様に迷惑かけがちなる若造です。以後、万端ひきたって、よろしくお頼み申します」
窒息する思いで聞いていた門番は、仁義がしきたり通りであることを、認めないわけにいかなかった。
「ご丁寧なるお言葉、ありがとうござんす。申し遅れまして御免を蒙ります。仰せの如く、そちらさんとは初のお目見え。自分は斉の国を興隆させたる威王の庶子にして威王・宣王に仕えた田嬰の跡取り、ひと呼んで孟嘗君に従います若い者、以後、万事万端、宜しくお頼み申します」
「ありがとうござんす」
「ありがとうござんす」
互いにシャンシャン手を打って、めでたく馮驩と名乗るホームレスかそれ以下の馬の骨は、ひとかどの親分と音に聞く孟嘗君の食客になったのだった。
紀元前三〇〇年頃のことである。
紀元前三〇〇年とはどういう時代か。
まず当然だがキリスト生誕の約三百年前である。例えば当時のエジプトでは、かのアレキサンダー大遠征に従軍したプトレマイオスが独立割拠し、本国マケドニア相手にすったもんだと揉めていた。
その西には、やがてマケドニアもプトレマイオス朝も征服してしまう古代ローマが、イタリア半島に勢力を広げつつあった。地中海の覇権をかけた百年におよぶカルタゴとの死闘が始まるのは、これより少し後のことになる。
さて中国はというと、五百年以上も続いた春秋戦国もいよいよラストスパート、向こう正面の馬群を抜けて、有力馬が次々と最終コーナーをまわっていた。もっとも完走できるのは一着のみで、二着以下はもれなくリタイアというレースだが。
そんなわけで、各地の群雄は生き残りをかけて、優秀なスタッフを必死に求めていた。君主だけではない。謀略あり下克上ありの戦国時代、主従ともども、いつ寝首をかかれるか知れない物騒な時代を生き抜くために、王侯貴族から宰相大臣、軍閥、豪族、はては町の親分に至るまで、誰もが人材を掻き集めていたのだった。
孟嘗君もそんな弱肉強食を生きるリクルーターのひとりである。
行水をつかい、衣服をもらって、散髪まで世話になり、小ざっぱりとした馮驩は、晩餐の宴で孟嘗君とお目通りの運びとなった。
「馮驩どのと仰られるとか」
上座に座った恰幅のいい中年男が切り出した。彼が孟嘗君だろうか。
下座の馮驩に対して、上座にはずらりと食客が居並び、贅をこらした料理をつつきながら、給仕の少女が注いでまわる杯を傾けている。
幾度目かの乾杯のあと『孟嘗君』が訊ねた。
「馮驩どのは学問をなさいますか」
食客たちは何気ない顔で舌鼓をうちながら、耳だけは注意深くそばだてている。
弱肉強食の時代、政治思想や戦略論の類いが星の数ほど生まれ、諸氏百家と呼ばれる学者たちがオリジナルの必勝法を携えて、諸国に自分を売り込んだ。
この場に居並ぶのは三千人もいる食客のうち、一家言が認められたエリートというわけだが、貧相に見えるこの男が、万が一、市井に埋もれた兵法の大家だったりした場合、誰かの待遇が落ちるかもしれない。
だが馮驩は平然として、
「いや。私は文字が読めませんでナ」
そう答えながら、上座の食客と同じかそれ以上に飲み食いしている。
「ほう。では武芸をたしなまれますか」
「いや。剣矛を持っておりませんでナ」
面々は内心ほっと胸をなでおろした。なんだ。タダ飯にありつきたいだけの能なしか。これなら我々のポジションを脅かすようなこともあるまい。
「そうですか。それはそれは」
ふくよかな『孟嘗君』が笑顔の裏で、目前の男をどのように値踏みしているものか。しきたり通りに仁義を切ったからには、すぐに追い出すようなことはできぬはずだが──。
身分証のない時代、ことに有象無象が入り乱れる乱世では、仁義が一種の身元保証になった。ただしく切るには然るべき筋に認められ、作法を伝授されなければならない。カタリやゴマカシは論外として、ドモリやツッカエもヘタをすると半殺し程度にはなりかねなかった。
渡世も命がけなのだ。そのかわり作法通りに口上を述べた者ならば、誰であれひとかどの客人とされた。
といっても、
「では、どのような特技をお持ちですかな」
やはり乱世のリクルーター、そこはしっかりチェックが入る。一芸もない者に、いつまでもタダ飯を食わせるわけにはいかないのだ。