予告された未来
もし明日世界が終わるとしたら、何をしますか?
――大切な人と過ごす。
――好きなものをたくさん食べる。
――突然世界が終わるわけがない。
もし明日世界が終わるとしたら、あなたは何をしますか?
三月。
テレビでは桜の開花予報が流れ、そろそろ陽射しが恋しくなる頃合い。だが、冬は以前として退かず、蕾を頑なに閉ざす日が続いていた。
それでもちらほらと新緑を覗かせる街路樹を見向きもせず俯いて、上城綾乃はとぼとぼと歩いていた。
もうすぐ中学卒業が近く、授業らしい授業もない。進路も決まっていた綾乃は、残る日数をただやり過ごすだけだった。
車通りの多い道の横を、学校に向けて歩いて行く。前後には自分と似たような制服や、通勤中のサラリーマン、散歩をする老人などがちらほらと見受けられた。
いつもと同じ、代わり映えのしない景色――
と、綾乃は視界の隅に黒い影を認め、視線をそちらへ向ける。
斜め前の道路の上に、黒い男がいた。短い黒髪に全身黒ずくめ――蝙蝠のような黒い翼に、長身と引けを取らないほどの黒い大鎌。
綾乃は見開いた目を瞬かせ、思わず立ち止まった。
背中に見事な翼の生えた青年が、車の行き交う道路の上に浮いていたのだ。
一体何だというのか。あまりに当然のような佇まいに、これが正常なことなのか、異常なのか、現実感をなくして混乱する。そんな綾乃を引き戻したのは、けたたましいクラクションの音だった。
男のすぐ足元では、いつの間にか老婆がよたよたと道を渡っていた。
何かを思う間もなく、老婆は車で見えなくなり、鈍い、しかし大きな音が響き渡る。
誰かの叫び声を契機に、にわかに辺りは騒然となった。
救急車だ警察だと声高に叫ぶ人、駆け寄る人、写真を撮る人、目を覆う人、泣き出す人。しかし綾乃だけは、事故現場に降り立ち、背丈ほどある鎌を振るう様を凝視していた。
何だろう、あの人は。あれは。
「――死神」
零れるように小さく呟く。瞬間、翼の生えた青年は振り返った。鋭い黒い視線は、間違いなく綾乃を射抜いている。
びくりと身体が跳ねる。しかしそれ以上は動くことも叶わず、死神は綾乃の目の前にふわりと降り立った。
「あんた、俺が見えるの?」
異様な姿をした青年は、もの珍しそうにまじまじとこちらを見ていた。あまりに気軽に声をかけられ、ますます現実が混乱する。周囲を伺っても、皆事故現場に気を取られて綾乃に気づいた様子もない。
年齢は二十歳に届くだろうか、シャープな顔立ちの、黒いロングコートを着た青年。普通に町を歩いていそうなのに、硬そうな黒い翼と鎌が、ある種滑稽なくらい異常だった。
「死神、なの?」
ようやく絞り出した声は掠れていた。
「そ、死神。あの婆さんを迎えに来たってわけ」
青年は鋭い目つきの割に気軽な調子で、親指で彼の背後――綾乃の正面の事故現場を示す。
そうだ、事故があり、老婆が轢かれたのだ。そして、死神だと言った目の前の変わった青年は迎えに来たと言う。
ということは、お婆さんは。
いつの間にか歯がカチカチと鳴っていることに気づき、そこで恐怖を感じていることを自覚した。
「私も、殺されるの……?」
輝かない黒い刃から遠ざかるように一歩後ずさる。
「まぁ、見られたからどうってもんじゃないけど」
言いさして、ふいに死神は綾乃の顔を覗き込んだ。息のかかりそうなほど間近から目が会い、あまりの至近距離にどきりとする。
死神は顔を離すと、今度はコートの中から黒い手帳のようなものを取り出した。
今度は何なのだろうか。不安に思いながら、読んでいるかも怪しい速度でページを繰る様を眺める。やがて死神は手帳をパタンと閉じると、満足げに頷いた。
「あーそっかそっか、どおりで見たことあると思った」
「な、何なのよ」
先程とは違う意味で心臓が脈打つ。身を守るかのように、自身の手首を腕時計の上から掴んだ。死神に顔を覚えられているだなんて、ろくな事だとは思えない。
「うん……そうだな、これも神の思しめしってか? 特別に教えてやるよ。上城綾乃、アンタは明日で十五年の生涯を終えるみたいだぜ」
「――はい?」
今、何て――
綾乃の表情が半笑いで固まる。
「じゃ、明日迎えに来っから。楽しい余生を過ごせよな!」
死神はひらひらと手を挙げると、あっさりと空へと羽ばたいて消えた。
それはそれは唐突に、世界の終わりを告げられてしまった。
*****
教室に辿り着けば、学校の側で起きた交通事故の話題で持ち切りだった。
「おはよう綾乃! 学校の側で事故あったの知ってる?」
「あ、うん……」
「マジで! ねぇ見た? 私逆方向でぇ~」
いつも何となく一緒にいるクラスメイトが、ミーハーに喚き立てる。
今はそれどころの気分ではないのに。綾乃は鬱陶しく思いながら、私もすぐ来ちゃったから、と誤魔化した。
ただ居場所を確保する為だけの、意味のない集合。進学先もばらばらで、卒業してしまえばもう連絡を取り合うこともないのだろう――無事、卒業出来れば。綾乃は気づかれないように、沈鬱な思いを長く細く吐いた。
やがてホームルームが始まり、やはり事故の話題で先生が教訓めいた発言を繰り返す。綾乃はその声を聞き流し、先程の出来事を思い返した。
あれは現実だったのだろうか? 翼。鎌。空中浮遊。顔は果たしてどのようであったか。挙げ句に――明日、死ぬ。
ぞくりと身体を震わせ、両手を胸に押し付ける。
先程の出来事はあまりに現実離れしており、にわかには信じ難かった。そうだ、目の前の事故のショックで気が動転していたのだろう。頭が混乱していたのだ。あるいは受験ノイローゼのようなものだ。そうに違いない。
――そうよ、死神だなんて馬鹿馬鹿しい。そんなもの、いるはずも見えるはずもない。まさか、私が死ぬわけないじゃない。もう忘れよう。
綾乃は自分を励まそうとぎこちなく笑みを作る。しかし、どこか蟠るものは消えようとしないのだった。
腕時計の面を指でなぞりながら、時間が過ぎるのをただ待った。
「上城」
形だけの授業も午前中で終わり、早々学校を飛び出した綾乃を呼び止める声があった。
あまり耳に馴染んではいない低い声。誰かと思い道を振り返ると、クラスメイトの鏑木明が小走りに近づいてきていた。
受験が終わった為か、ぼさぼさと伸ばし放題にした頭をしている。よく身だしなみを注意されている姿を見るものの、格好つけたがりの馬鹿という雰囲気でもなく、いつも物事の外から眺めているような印象を受けている。
「何? 私何か忘れてたりした?」
何となく嫌なものを感じつつ、珍しい人物に思わず足を止めて問いかける。明は白く見える息を軽く整えると、意志の強そうな顔に、苦笑するような中途半端な笑みを作った。
「いやさ……家の方向同じだったろ。一緒に帰らないか」
えっ、と思わず言葉に詰まる。当然そこまで仲が良いわけではないし、会話を交わしたこともほとんどない。明には別クラスの幼馴染みと付き合っているなどという噂があったはずだが、まさか。
黙りこんだ綾乃の心中を察したのか、明は慌てて手を振った。
「あ、そういう意味じゃなくてだな。その、あー」
言い辛そうに頭を掻くと、明は若干声を抑えて綾乃を見据えた。
「お前、今朝死神と話してたよな」
瞬間、少女は時が止まったように一瞬動かなくなった。
「な……に、言ってんの? いるわけないじゃない……死神なんて。あれは、ちょっと事故にびっくりして、気が動転してたの。幻覚よ」
「てことは、見たんだな」
「違う! 大体何であんたが知ってるの? 誰にも言ってないのに」
「俺も見たから。あの時お前の後ろにいた」
絶句する綾乃に、ばつの悪そうな顔で明が続ける。
「俺の家系、神とか霊とか、そういう感じのもの見えるからさ」
「……そう言えば、鏑木君の家が寺だか神社だかって、噂で……」
「そう。家業が関係あるかは知らないけどな。だから、お前とあいつの会話聞こえてて……どうしようかと思ったんだけどさ」
ずしりと頭と胸が重くなる。綾乃を守っていた薄っぺらい楽観的思考が、脆く崩れ去った。
「嘘」
「本当」
「……私、死ぬの?」
頼りない声だと、まるで他人事のように自身の声を聞いていた。明は視線を彷徨わせると、逆に問い掛けてくる。
「上城は死にたくないのか?」
「決まってるでしょ!」
「何で?」
「何でって」
言葉に詰まる。何故死にたくないのか、何故生きていたいのか。死ぬのは嫌だ。そう思うのに、即答出来るほどの理由を綾乃は持ち合わせていなかった。
「夢があるとか?」
「ない」
将来の夢も目標もなく、ただ何となく日々をやり過ごしていた。
「やってみたいこととかは?」
「……ない」
高校だって、ただ学力に見合うという理由だけで選んだのだ。進学しても、何も変わらないと思っていた。
「大切な人とか、守りたいものとかは」
「……ない……私、何もない……!」
昔は好きだった両親も、いつの頃からか鬱陶しく思い邪険に扱っていた。友達も、ただ仲間外れにならないためのもので、親友と呼べる関係など誰一人としていなかった。
今にも足元に穴が開き、闇に落ちてしまう恐怖感が襲った。綾乃の立つ世界はあまりにも空虚だった。そのことに気づいてしまった――いや、気づかない振りをしていたのだ。
「私、生きている意味ないの……? だから、死神が来たの?」
年頃の娘にしては随分と色を失った綾乃の唇から、今にも消えてしまいそうな声が漏れる。それがいまだ根強い冬の寒さのせいではないことは明らかだった。何かに耐えるようにぎゅっと自身の手首を掴んでいる姿は痛々しく、しかし女子の扱い方を良く心得ていない明は忙しなく視線を彷徨わせ、言葉を捜した。
「それは違う……うん、あいつらこっちの事情とかお構いなしのはずだし。えっと、上城はさ、今までああいうの見たことあるのか?」
首を小さく横に振る。
「そっか。素質があったのか、それとも何かのきっかけで見えるようになったのかな?」
綾乃は顔を俯けて黙り込んでしまった。いくら珍しいこととはいえ、会話の内容が不適切だったと悟った明は、ぼさぼさ頭を掻き混ぜた。こんなところ学校の奴らに見られたら間違いなく誤解されるな、と片隅で考えながら、この状況をどうにか出来ないかと必死に頭を巡らせる。
「どうであれさ、上城は死にたくないんだろ?」
震えるような小さな頷きだった。それでも充分だと、安心させるように明は微笑した。
「ならさ、どんな小さなことでも良いから、とりあえず思いつくことをやってみないか? そしたら、死にたくない理由とかも、何かしら出てくるかも知れないし」
「でも……」
綾乃は不安げに明を見る。そんなことをしたところで何の意味もない、そう声に出すのは恐ろしすぎた。だが、綾乃の思いはきちんと明に伝わった。
「このまま黙って明日を待つのか?」
「……ううん」
今度はしっかりと首を振る。このまま落ち込み何もしなくても、無茶苦茶に足掻いても、明日は来てしまうのだ。それならば何かしら行動しようと思った。もしかすれば見つかるかもしれない。生きる理由も、死神を退ける方法も。
先程よりもしっかりとしたクラスメイトの様子に、明は一つ頷いた。
「よし。まぁ、発破かけたの俺だしな……やれることがあったら手伝うよ」
「ありがとう」
ささやかではあったが、ようやく綾乃の表情に笑みが戻ったのだった。
「まず何からしたい? 何でも良いぜ?」
「えっと……」
「思いつかないか?」
「ごめん、まだ動揺してて……頭が上手く回らない」
「まぁそうだよな。じゃあ、美味しい物でも食べに行くか」
「え?」
突然の提案に瞠目して明を見上げる。視線が合うと、彼はニィっと笑った。
「腹が減っては戦は出来ぬってな。うまいもん食って一息いれりゃ、何かしら思いつくだろ」
*****
綾乃は明に連れられて、駅へ続く大通りから一本外れた場所にある、小さな喫茶店に入った。
レンガ造りのレトロな雰囲気の店で、通りかかる度に目に留まっていたものの足を向けたことは無かった。
窓際の席に通されると、綾乃は新鮮な気持ちで店内を見回した。ちらほらと客はいるが、アコーディオンのカントリーミュージックがささやかに流されていて落ち着いた雰囲気である。アーチ窓から取り込まれた光が、観葉植物や木製のテーブルを温かく照らしていた。
「ここのワッフルうまいんだぜ。一番のオススメはグラタンだけど」
「そうなんだ。初めて来たけど、良い雰囲気の店だね。全然知らなかった」
「あんま知られてたら困るなー、混むしうるさくなるし」
「鏑木君はここに良く来るの?」
「まぁな」
「意外な気がする」
「そうか? 俺食べ歩くのとか好きだぜ。美味しい物食べると幸せじゃね?」
「確かにそうかも」
綾乃は口角を上げると、勧められるままにストロベリーソース掛けのワッフルと紅茶を注文した。
しかし、頭の片隅では、こんなことをしている場合かと叱咤する自身がいた。のんびり食事をしている場合ではない、時間がないと焦らせる。早く何かしらやらなければならないと思うのに、その何かが分からず、余計に焦ってしまう。
明の話も心半分でそわそわしていると、やがて注文したものが運ばれてきた。
綾乃はまだ湯気がうっすらと立つふわふわのワッフルにナイフを入れ、添えられたバターとバニラアイスを乗せて一口頬張る。苺とバターとバニラの風味がじんわりと蕩け、改めて盛り付けられたワッフルを見つめた。
「美味しい……」
「だろ。幸せじゃね?」
「うん」
素直に頷くと、明は嬉しそうに笑った。
「良かった。ようやく一息吐いたみたいだな」
言われて、つい先程まであった焦燥感が大分治まっていることに気がついた。驚きに再度頬杖をつく明を見やる。
「美味しい料理は元気の魔法だ」
自分のことのように得意げに言われ、綾乃は思わず噴き出していた。
「意外とロマンチストっていうか何ていうか……私、鏑木君ってもっと一線を置くタイプの人かと思ってたよ」
「マジで? まぁ、確かにそういうとこもあるかなぁ」
明は首を傾げながらコーヒーを口に運ぶ。
同じクラスになって一年、ほぼ関わって来なかったクラスメイトと、このようにお茶をして話す日が来るとは夢にも思わなかった。彼はこうして手を差し伸べてくれ、気が散っている相手でも会話をしてくれている。話してみると随分違うものだな、と思わず感心していた。
思い返せば、一体同級生の何人と会話をしてきたであろうか。もっと話をしてみれば良かったのかも知れない。綾乃は卒業間際の今日までに出来た親しい人間の数の少なさを改めて実感したのだった。
「私といて、幼馴染みの子は大丈夫なの?」
ふと思い出して問いかけると、明は眉を寄せて苦い顔を作った。
「俺も上城は一線を置くタイプの人間だと思ってたけど、結構噂好きなのか?」
「女子ってそういうもんよ。嫌でも耳に入ってくるし」
「あっそ……でもま、あいつとは付き合ってるわけじゃねーし」
「そうなの?」
綾乃は瞠目して声を上げた。噂に限らず、一緒にいる姿は頻繁に目撃されている。例え噂がなくても、誰でも付き合っているのだと思うはずだ。
「バレたらぎゃーぎゃーうるさそうだけどな。まぁあいつ今日休みだし。第一、放ってなんておけないだろ。死神だなんて、そう誰かに相談出来るもんじゃないし。分かるの俺くらいだよなって思ったら、追いかけてた」
「うん……助かってるよ。声掛けてくれなかったら、誰にも相談しないまま、幻覚だと思い込んで無理矢理終わらせてた」
ナイフとフォークを置いて、代わりに小花柄のティーカップを両手できゅっと包む。紅の水色に目を落とした。
「そのまま気のせいだと思っていたら、こんなに怖くなかったと思う。でも、何も出来ないまま、何もしないままで明日死んでいたかも知れないんだよね。それはそれで凄く怖いことだなって思うの」
どちらの方が良かったかなど分からないし、言える状況でもなかった。ただ綾乃の中で、何かをしなければという気持ちが高まっていた。それは先程の焦燥よりも、幾分前向きな思いだった。
「ねぇ、鏑木君は死神を退ける方法とか知らないの? お札とかさ」
再びワッフルを口に運びながら明を窺い見る。元凶である死神さえ抑えることが出来れば何とかなるのではないか。
しかし、明はぼさぼさ頭をいじり黙り込むだけだった。
「まぁ……そうだよね」
「悪い……」
「ううん。何か方法ってないのかなぁ? 逃げるとか……」
あ、と綾乃は声を上げると、
「私旅行したい!」
唐突に高くなった声に明が目を見開く。それに構わず、綾乃は興奮した様子で言葉を続けた。
「ここじゃなくて、もっともっと遠く……うん、海が見えるところが良いな」
「それが上城のやりたいこと?」
「うん」
答えてから、気恥ずかしい気分になり口を閉ざす。その程度かと笑われるかも知れない。しかし明は笑うことも無く、優しく問い掛けた。
「そっか。俺はどうすれば良いんだ? 一緒に行くか?」
綾乃は一瞬答えるのを躊躇した。今日ようやく話したような、しかも男女で旅行というのは如何なものか。しかし、他に共に行く相手も思い浮かばず、かといって一人は、特に今の綾乃には心細過ぎた。
「悪いけど、一緒に来てくれるかな……?」
恐る恐る尋ねる。お金も掛かるし、旅行など仲の良い者と行くイメージがある。いくら協力するとは言っても、彼もそこまでするのは嫌なのではないかと思った。
明は一瞬だけ黙り込むと、こくりと頷いた。
「分かった、俺で良いなら行く。ただし、親とはちゃんと話していけよ。あ、俺と行くとは言わなくて良いけど。メンドイし」
「親に言えって、先生みたい」
「大事なことだぜ」
最期になるかも知れないのだから、という言葉を呑み込んだことも知らず、綾乃は可笑しいの、と笑った。
*****
二時間後に駅に集合する約束をして、二人は一旦帰宅した。
綾乃は玄関から居間に入ると、いないはずの人影を見つけた。
「あら、おかえり。今日は早いのね」
こたつに当たりながら昼間のワイドショーを見ていた母が振り返る。綾乃の親は共働きのため、本来母はこの時間にいない。
「ただいま。いたんだ……今日休み?」
「そうよぉ」
のん気な母の声を置いて、二階の自分の部屋に向かう。扉を閉めて、一つため息を吐いた。
明には親に話せと言われたものの、綾乃は何も言わず行くつもりであった。パートの母は時折平日に休みを取っていたが、まさか今日とは誤算であった。ばれないように行かなければならない。
親と特別仲が悪いというわけではない。ただ、何にでも干渉して来、口出ししてくることがひたすらに鬱陶しかった。旅行に行くなどと言えば、恐らく場所や一緒に行く人、宿など根こそぎ聞かれるか、最初から否定されるかである。容易に想像出来た。
綾乃は気を取り直し、あまり使用しないバックパックを引っ張り出し、軽い旅行の準備を始めた。
お金は、お年玉の残りがまだあった。紙幣を何枚か取り出そうとし、思い直して全て財布の中に収めた。
――明日死ぬのなら、残しても仕方ないもの。
そう考えながら、背筋が寒くなるのを感じた。そこで、ようやく部屋に暖房を入れていないことに気がついた。エアコンのスイッチを入れながら、そんなことも忘れてしまうほど気が動転していることに苦笑する。
しかし、暖房を入れたにも関わらず、一向に寒さは消えてくれなかった。
私は本当に明日死ぬのだろうか。死神に抗えるのだろうか。生きたい理由はまだ見つからないでいる。旅行することに意味などあるのか。生き延びたらどうしよう。死んだらどうしよう。
やはり一人は駄目だと思いながら、思考はどんどん深みにはまり止まろうとしない。
怖い。怖い。怖い。悲しんでくれる人はいるのだろうか。クラスメイトは。明は。親は。
はっと気がつくと、バックパックは蓋が閉まらない程満載になっていた。大好きな本、お気に入りのぬいぐるみ、特別な時にしか着ない服、昔好きだった先生から貰ったメッセージ――全て、旅行には必要のないものだった。全て、綾乃の大切な思い出だった。
――何だ、大切なもの、こんなにあったんだ。
放心したように息を吐くと、綾乃は一つ一つ確認しながら元の場所に戻していった。
荷物を詰め直し、お気に入りのチェックのスカートとパーカーに着替える。
少々時間が掛かってしまったが、携帯電話の時計は待ち合わせにはまだ余裕があることを知らせてくれた。
必要最低限に抑えたスカスカのバックパックを背負うと、綾乃は改めて部屋を見回す。
いつも通りの自分の部屋。ここには、思っていたよりもたくさんの大切なものがあった。そして、それらは全てここに置いて行く。
「私は必ず帰ってくる」
自分に言い聞かせるように小さく呟くと、綾乃は部屋を飛び出した。
「お母さん、出かけて来るね」
「あら、珍しいわね。どこまで行くの?」
適当な場所と相手を母親に伝える。母は特に疑う様子もなく頷いた。
「もうすぐ卒業だものね。高校生になったらなかなか会えないんだから、今のうちに思い出作ってらっしゃい」
母の言葉に少し驚く。一瞬旅行に行くことがばれたのかとも思ったが、恐らく深い意味はないのだろう。いつもは鬱陶しがる綾乃だったが、今日は素直に頷いた。
「うん。今日はちょっと遅くなると思うけど、心配しないで」
「そう。気をつけてね」
「分かってる。行って来ます」
綾乃は力強く言うと、明の待つ駅へと急いだ。
*****
午後五時。小さな駅では明が既に待っていた。こちらもやはり荷物は少なかった。
二人は青春十八きっぷを手に、東京から遥か西の海を、電車を乗り継ぎながらひたすらに目指し始めた。最初の電車の中はまだ混み合う少し前の時間帯で、ぎりぎり席に座れた。
「ごめんね、こんなことにつき合わせちゃって」
電車に揺られながら、隣に座る明に話しかける。
「別に。むしろ沖縄に行けなくて悪かったな。飛行機でばびゅっと行けりゃ良いんだが……」
「ううん、どこでも良いって言ったら何だけど、とにかく遠くの海に行きたかったから。それに、親以外と旅行なんて初めて。関東から出るのもね。結構楽しみなんだ」
綾乃が少し照れながら言葉を付け足すと、明は安心したように顔を緩めた。
「親とは話したのか?」
「お母さんとね。旅行に行くとは言わなかったけど」
「まぁ、話したんならいんじゃねーの」
「思い出作って来なさいって言われたよ」
「お前、何て話したんだ?」
あからさまに怪訝な表情をした明が可笑しく、秘密、とだけ答えた。
東京から東海道本線で、ひたすらに行ける限りの西を目指す。ようやく熱海まで辿り着いた時には、既に二時間少々掛かってしまっていた。綾乃は携帯電話で時間を確認し、あまり進めていないことに少々弱気になりかける。しかし振り払うように頭を振った。
二人は更に西を目指す。しかし、そこには不思議と高揚感といったものがなく、これで良いのか、という思いが付きまとっていた。
「明日までに何処まで行けるかな……静岡までは行けると思うけど」
「うん……本当にごめんね、つき合わせて」
「気にすんなって、何度言わせんだよ」
ずっと電車に揺られている疲れからか、欠伸をしながら明が答える。そんな状態になっていることに、更に申し訳なくなってくる。
「ごめん……一人で行くって言えれば良いんだけど。一人だと色々考えちゃって」
「そりゃそうだろ」
綾乃自身、相当わがままなことを言っていると思っている。しかし、明は文句の一つも言わなかった。
「……ねぇ、鏑木君って幼馴染みの子のこと好きなんでしょ」
「はぁっ!? 何だよ急に」
「ううん、別に。凄いなって思って」
必要以上の声を上げた明の反応に、窓の外を見やりながら確信を持つ。
幼馴染みのことが好きなのだとすれば、完全なる善意で彼は綾乃に手を差し伸べてくれているのだろう。そして、そのことに尊敬と感謝の念がある一方で、胸が微かに痛んだ。いつの間にか明に惹かれていたのだと、その瞬間綾乃は気づいてしまった。
「分けわかんねー……。そういえば上城は、何で海だったんだ?」
「んー、何でだろ。ぱっと『遠くの海が見たい』って思ったんだけど……」
特に今まで、そういった思いを抱いたことは無かったと記憶している。
「旅行に行きたいって気持ちはあったけど……死神から逃げたかったのかな?」
しかし、その答えはいまいち腑に落ちなかった。明をつき合わせていて申し訳ないからというのも、確かにそうではあるのだが違うように感じた。
「部屋で準備している時にね……気づいたら荷物に思い出のものとか、いっぱい詰めてたんだ」
ぽつりと呟くと、明は興味深そうに綾乃に視線を向けた。綾乃はいつもつけている腕時計を指でなぞる。
「バッグから溢れるくらいにあった。でも最近のものが少なかった。でもそうだよね、私は正直生きていても仕方ないなって思ってた。詰まらないって。死のうとしたこともあるんだよ、一度軽い気持ちで。『無理だな』ってすぐ思ったけど」
明は黙って聞いている。綾乃も独り言を呟くように続ける。
「学校も詰まらないし、友達も形だけ。高校に行っても、それは変わらないんだと思ってた。この先ももっともっとずっと。そんなだから、大切なものもなくなってたんだろうね。でもさ、バッグに詰めたものが大切なものだったんだって、我に返ってから思い出したの。部屋にあったのにずっと忘れてた。それって、お昼に行ったお店も、鏑木君もそうだなって」
「俺?」
驚いたように自身を指差すクラスメイトに頷きかける。
「そう。もっと一線引いてる感じの人だと思ったって言ったでしょ? そこにいるのは知っているのに、何も知ろうとしてなかった。全然見てなかったんだなって」
「そんな大した人間でもねーけどな」
「何言ってんの。私大分救われてるのに。鏑木君がいなかったら気づけなかっただろうし」
居心地悪そうに頭を掻く明に首を振ってみせる。
明には、感謝の言葉がいくつあっても足りなかった。
「……ねぇ、もう一つ、わがまま言っても良いかな」
「今度は何だ?」
「東京に戻ろう」
「え?」
「海は近くでも見られるもの。横浜とか、お台場とか。その方が良い気がしたの。何となくで悪いんだけど……」
瞠目した明を恐る恐る窺い見る。本当に酷くわがままだ。振り回される明もいい加減うんざりする頃であろう。しかし理由は分からないが、彼を巻き込んでまで遠くに行くことに、意味を感じなくなっていたのだ。きっと、綾乃が求めているものはそこにはない、そんな気がした。
明はやれやれといった風にぼさぼさ頭を掻く。
「ここまで来たんだ。最後までいくらでも付き合ってやるよ」
「本当にありがとう」
明の優しさが、本当に嬉しかった。
*****
二人は途中の駅で降り、夜行バスを取った。バスの中では信じられないくらいぐっすりと眠っていた。
東京へ着いたのは朝五時。綾乃が死ぬはずの日である。
そのまま二人は台場を真っ直ぐに目指し、海風のある海沿いの道へと出た。
このような時間でもちらほらと人の姿が見られることに少々驚いた。
「寒いね」
海と陸を遮断する柵に寄りながら、綾乃は両手に白い息を吹きかける。
「もう三月なのにな。でも、今日は春らしい陽気になるってよ」
「そう、良かった」
二人はアウターの前を掻き寄せながら、海を眺めた。暗い、暗い色をしている。寒々しく揺らめき、時折飛沫を上げた。しかし空は闇色から赤く変わっており、今が夕方なのか明け方なのか、不思議な感覚に包まれた。やがて暗い海の底から、一筋の光が昇る。
「夜明けだ」
明の声に、綾乃は眩しさに目を細めながら何度も頷いた。
「綺麗……」
墨を落としたようであった海は輝き始め、空が見る見る明るくなっていく。雲は赤、紫から暖かな山吹色へのグラデーションが、とても眩しかった。
二人とも黙り込み、寒さも忘れて見つめ続ける。やがて綾乃は小さな笑い声を上げた。明が不審がって見やると、寒さで頬を赤くした綾乃が笑っていた。
「私今ね、死んでも良いって思ったの。海とか空とか、世界が凄く綺麗で……可笑しいよね、死にたくないって思ってたのに」
明は何を言うべきか迷ったのか、唇を緩く動かしてから問うた。
「満足した?」
「うん! ありがとう」
満面の笑みを浮かべた綾乃に釣られ、明も微笑んだ。
「帰ろっか」
「もう良いのか?」
「うん。何となくだけど、分かったから。もう良いの」
二人は散歩でもするように、ゆっくりと駅へと歩き出す。まだまだ朝は早いというのに、先程よりも人も車も増えて来ていた。
「私、遠くの海が見たいって言ったじゃない」
「ああ」
「そうじゃなかった。確かに、旅行はしたかったよ。でも本心では、私はここから抜け出したかったんだと思う。この詰まらない世界から」
時間を確認することはない腕時計に指で触れる。人知れず腕時計の下に残る傷。受験ノイローゼによる気の迷いとして自分の中で済ませていたが、本当に深い理由も考えもなくした行為だった。今にして思えば、空虚な自分の世界を何とか壊そうとしていたのかも知れない。
「でも昨日から、鏑木君と色々話して、出掛けたりして……自分で世界を閉ざしてたんだなって気づいたの。まだまだ知らないことばっかで、でも知っているかのように諦めてて」
明は昨夜電車の中で聞いた言葉を思い出す。『そこにいるのは知っているのに、何も知ろうとしていなかった』と。
「でもね、今は色々知りたいって思ってる。だから東京に戻ろうって思ったんだと思う。身近な所から見つめ直していきたいって。無駄に振り回しちゃってごめん」
何度目かの申し訳なさそうな表情に、明は同じように首を振った。
「そのことに気づいたんだろ。だったら意味があったし、ついて行けて良かったと思うよ」
「本当?」
綾乃は嬉しそうに笑う。良く笑うようになったな、と明は目を細めた。
「私、やりたいこといっぱい出来たよ。泊まりで出掛けたりして、親には怒られそうだけど……ちゃんと話して、学校でも友達とちゃんと話して。高校も、ちょっと楽しみになって来た」
色々思いを巡らせるだけで胸が弾む。こんな気持ち、ずっと忘れていた。
「だから、また死神が来たら言ってやるんだ。『まだやりたいことがたくさんあるから帰って』って。私はまだ死ねないわ」
駅まで、あと五分も歩けば着くであろう。そうしたらまた電車に乗り、二人はそれぞれ家へと帰って行く。最後の旅だと、綾乃は思った。
「ねぇ、鏑木君は将来の夢とかあるの?」
「唐突だな……あるよ」
「本当? どんな?」
「シェフになる。俺専門学校に行くんだ」
明は迷い無く答えた。その瞳には、絶対になるのだという強い意志が感じられた。
「『元気の魔法』?」
「良く覚えてるな……そうだよ」
明は苦笑しながら頷く。明は夢を叶えるのだろうと、漠然と感じた。
「私も食べてみたいな、鏑木君の料理」
「そうか?」
明は嬉しそうに笑う。それを見て、綾乃もにこりと微笑んだ。
「私も出来たよ、夢。生きる意味」
「俺の料理を食べる?」
「それもあるけど」
「何」
「秘密」
「何だよそれ、ずりぃ」
口を尖らせる明にくすくすと笑う。
――明日まで生き延びていたら、明に告白しよう。
もちろん玉砕は覚悟の上だ。それでも何故か気分は高揚していた。
ふいに立ち止まって、ぼさぼさ頭の後ろ姿を見つめる。隣がいなくなったことに気づいた明は、不思議そうに振り返った。
その驚いたような顔に向けて、明日に引き伸ばした想いの変わりに、心の底から伝えた。
「付き合ってくれて、本当にありがとう」
優しくなった綾乃の笑顔の横合いから、ダンプカーがすぐ傍まで迫って来ていた。
*****
明は自宅の縁側で座っていた。夜風に白い息をさらわれながら、庭に咲く梅を眺めていた。遠くからは線香の香りと、木魚の音が微かに届いてくる。
明自身も参列していたが、途中で会場を離れたのだった。
「よぉ、鏑木んちの倅。落ち込んでんの?」
ふいに声がして、夜空から闇が降り立った。黒いローブに大鎌を手にした、烏のような漆黒の翼を背に持つ十歳程度の少年――綾乃の前に姿を現した死神だった。
彼らは姿というものを持たない。性別もないと思われるので、正確には彼ではないのかも知れなかった。見る人によって姿は全然違ってくる。骸骨の姿に砂時計を持っているという人もいれば、天使だという者もいるらしい。親しい人を幻視する者も多い。綾乃は、死神をどのような姿で見ていたのだろう。
「見ての通りだよ」
明は妙に馴れ馴れしい神をつっけんどんな声で軽くあしらう。
「冷たいねー。八つ当たりは良くないぜ」
「分かってるよ。あんたは神としての仕事を全うしただけだ」
分かっていても、心の整理はつかないものだ。
死神は肩をすくめると、明の隣に座って共に梅を見上げた。満開の花弁が月に照らされて青白い。
「考えていたんだ」
明は独り言ように低い声で続ける。
「俺がやったことは正しかったのかって。あいつには何度も感謝されていたけど、正直胸が痛かった」
「どう足掻いたところで、死ぬから?」
死神の言葉にこくりと頷く。
「死は絶対だ。事情なんてお構いなしにやって来る。抗おうとしていたあいつを、俺は止めることも、嘘を吐く事も出来なかった。そもそも、死神を見たのを気のせいにしようとしていたあいつをたきつけるような事をして、良かったのか……でも、でも何もしないでいられるかよ……」
項垂れ、足元に視線を落とす。庭へと続く短い石畳は無言で明に圧力をかけてくる。
死神もばつの悪そうに唇を尖らせた。
「まー俺も、今回はちょっかい出しちまったからなー。俺が見えるのが珍しくてついさぁ。ちょっと反省」
あははは、とやたら軽い笑い声を、明は何とも言えない気分で聞き流す。まずその姿が見える人間が少ないこともあるが、死神が本人に死期を伝えるなどという行為は、そうそうあることではない。
「でもさ、あの子は最初に会った時よりも、生きてたぜ」
言葉の意味が分からず、明は鎌の先をくるくると回している隣を見やる。刃がちらちらと月光を反射して、目を細めた。
「最近は死ぬ前から死んでるような奴らが多いからなー。自分がいつ死んでもおかしくない存在なんだって思ってないせいなのかね。ぼけっとしてる奴が多いぜ。自分の死期を知っている奴の方がよっぽど元気で、仕事のしがいがある」
ぴょんと立ち上がるのを、明は呆然と目で追う。
「なぁ、死ぬって知ってる奴と知らない奴、どっちの方が幸せなんだろうな」
彼の目に映る死神は少年の姿だったが、少し大人びた、にやりとした笑みを見せていた。
言葉に詰まっている間に、死神は黒い翼を広げると、ばさりと大きく羽ばたいて闇に消えてしまった。
明はしばらく影が消えた空を眺めていたが、小さく笑みを浮かべると目を伏せた。
月が地上を柔らかく照らし、空気は凛として遠くの音を伝える。静かな夜だった。
自サイトでも公開しております。