第二章 止まった時間 part1 (追悼式)
人獣族は十五の歳に別れを知る。『選別の儀式』により優性と劣性の遺伝子判定をするからだ。そのことに例外はない。
小雨で湿った墓地を少年はなかば彷徨うようにして歩いていた。巨大な霊牌がいくつも立ち並び、多くの人獣族が跪いて同胞達を追悼している。涙している者ばかりだ。かれらの悲しみに嘆く姿を目の当たりにする度、少年は胸の奥を握り潰されるような痛みを感じていた。
その場にいる全員が同じ格好をしている。息のつまるような詰襟の服に、尾を引きづる長さの黒色の外套。履きなれない革製の固いブーツは石床になった地面を妙にかしこまった音で叩いている。それらは優性人獣族と認められた者だけが身に纏える人間学校の正式な制服であり、これから四年間の進路を確実に決定づけるものだった。優性人獣族はやがて人間社会で暮らすことになっている。そこに選択の余地はない。獣の楔石を埋め込まれて、遠くの土地に隔離された劣性人獣族たちの運命と同じように逆らうことはできないのだ。そのことに少年は苛立ち、力をこめて拳を握った。だが、ぶつける矛先は世界中のどこにも存在しない。
目的の場所にたどり着くと、見知った先客に気がついた。
「忠孝さん」
呼びかけると、金髪の凛々しい顔をした青年が静かに振り返る。
「金峰か。ずいぶん遅かったじゃないか」
そういう約束はしていないが、まるで待ちくたびれたかのように彼は言った。真昼にさしかかり、あたりが人でごった返していたのはまもなく追悼式が始まるからだ。石段の花立ては多様な色の花で彩り鮮やかに溢れ返っている。少年も手に持っていた黄色い花をそこに添えた。見上げると、黒い霊牌に白字の人名がびっしりと彫られている。
「あいかわらず嫌なものだね。ここに親しい人の名前が載るなんて」
忠孝は石版の真ん中らへんを眺めると、そう悲しんだ。少年が彼の視線を追いかけると、ある一点だけを凝視していることに気がついた。そこに『空野樹』の名前があったからだ。
「なあ、気づいていたか。妹はな、君のことをずいぶんと気に入っていたんだ」
「それは……知りませんでした」
忠孝は懐かしむような笑みを浮かべて、少年を眺めた。
「ただ、君の近くにはいつも彼女がいただろう。いじらしい樹はいつも自粛していたわけだ」
「忠孝さん。今は、やめてくれませんか」
「……すまない。悪気はないんだ。ただ妹を不憫に感じてしまってね」
言い過ぎたことに罪悪感を覚えたのだろう、忠孝は端正に整った顔をたちまちに曇らせていた。
「気にしないでください。責めるつもりでいったわけじゃないんだ。俺も忠孝さんも――だれだって悲しいのは同じですから」
それから少年は石碑の名前を順に確認していくと、やはり発見してしまった。『大神静音』の名前を――。
途端に少年は目眩がして立ちくらんだ。実のところ、少年は淡い幻想を抱いていた。本当は彼女が選ばれたことはちょっとした手違いであり、いずれ戻ってくるのではないかと。だが――彼女の名前は見間違えようがないほど、しっかりと刻印してあった。
「大丈夫か」
彼の差し伸べた手を断り、少年はかぶりを振った。こんなことで挫けてはいられない。なにをどうしたところで、もう彼女に会うことはできない。人獣族ならばだれもが受け入れている諦めであり、克服しなければいけない悲しみだ。自分も人獣族である以上、そうして強くならなければいけない。そういう決意をしていたはずだった。それなのに――少年の視界は滲むようにぼやけていた。
「こんな気分になるのは初めてだ……」
「無理もない。親しい人が選別されたんだから。それに静音のことだったら、今頃はあの藤堂先生だって悲しんでいるはずだろうし――」
「先生が……?」
「君も知っているだろ。近い将来、先生は彼女に研究を引き継ぐつもりでいたんだ。特別な期待をしていた分、そのショックは大きいはずさ」
「……だったら、どうして此処にきていないんですか」
不満そうに少年は口を尖らせた。
「選別の後処理に追われているのさ。大変なんだと思うよ。なにせ君や妹の世代は例年より劣性の数が多かったんだから」
少年は改めて霊牌を眺めた。『第三十二期 選別者たち』と記されていて、何十人もの名前が書き連ねてある。そのうち、ほとんどの名前を少年は知っている。そしてもう誰とも二度と会うことはない。
「……寂しくなるな。これから」
少年がそうひとりごちると、忠孝はきっぱりと否定した。
「ちがう。忙しくなるんだよ。ぼくたちは」
彼の涼しげにしていた青色の瞳に、決然とした意志が宿る。
「ぼくたちは彼女たちの分まで生きなくてはいけない。落ち込んでいる暇なんてないんだ。人獣族全体がより繁栄するように貢献しなくてはいけないからね」
少年は小さく瞬きをして驚いた。どこか置いてけぼりになった感覚になったのだ。
「忠孝さんは強いな。俺はまだそんな風には考えられないのに……」
「おいおい、しっかりしてくれよ。君は皆に期待されている。共生特課の推薦状がくるなんて稀なことなんだぞ」
彼の少し大仰な物言いに、少年は小さく笑った。
「自慢のつもりですか。そんなもの、俺だけじゃなくて忠孝さんだって貰っているじゃないですか」
「ぼくと君の二人だけさ。他にはいない」
ブロンドの髪を風に揺らし、忠孝は誇りに満ちた顔を浮かべている。その表情に迷いはない。おそらく彼は明確な意志を持っている。だから妹との別れも既に受け入れられているのだろう。そのことに少年はひそかに焦りを感じた。本来ならば自分もそのようにあるべきだった。彼の言葉通り、静音たちのことを本当に案じるならば、その分を懸命に生きるべきだ。それでも少年は今の気持ちを到底上手く切り替えられそうになかった。
山の頂きから楽器の演奏が静かに流れてくると、音に誘われるように山道にはたちまちに黒い参列ができていった。少年がまるで他人事のように呆然と眺めていると、意識を現実に引き戻すかのように忠孝が力強く肩を叩いた。
「ゆっくり気持ちを整理すると良い。今日の追悼式はそのためにあるんだ。君はぼくより若い分、落ち込みもずっと激しいだろうしね」
そうして忠孝が立ち去り、墓地一帯が無人になって――それでも少年はその場に残った。近くの石段に腰掛けて瞼を閉じると、少年は悲しみを内側に押し込めるように自分の世界に浸った。