第一章 新人教育 part7 (暗闇に潜んだ化物)
だが光牙の講じた策は結局のところ失敗でしかなかった。最後の咆哮の聞こえた場所には怯えたようにうずくまる小動物たちがいるだけで、肝心の目標はもうとっくに移動した跡だったからだ。しかもどうやら最悪なことに、そいつの向かった先は――
(くそっ、あのアホ園長がバイクなんて持ち出すから――!)
夜空の向こう側を睨みつけて、光牙は舌打ちした。遠くから騒々しい排気音と女の甲高い悲鳴が聞こえたからだ。それは明らかに何者かから逃げ回っているような騒音だった。ものめずらしい機械の音が獣の好奇心を惹きつけてしまったらしい。そのせいで、すっかり入れ違いになってしまったわけだ。光牙は慌てて鉄柵や檻を飛び越えて――銀色の鬣をはためかせながら――騒ぎの中心に目がけて園内を真っ直ぐに突き抜けていった。そうして密林のように密集した木々を潜り抜けてアスファルトの大通りに躍り出ると、光牙はいよいよ発見した。バイクの赤いテールランプを追い回す巨大な黒い影を――
「この――! やめねえかっ!」
緩やかな傾斜になった草の坂道を斜めに走り抜け、光牙が勢い良く飛び蹴りをお見舞いする。その衝撃に驚いたのか、巨体は走る足を休めてぴたりと立ち止まった。それから首を回すと、まるで蚊を見つめるような目つきで、ぎろっとした視線を剥く。
光牙は焦燥した。たったそれだけの効果しか得られなかったことが不服だったのだ。本当ならば、道の向こう側まで吹っ飛ばすくらい、渾身の力をこめた一撃のつもりだったのに。そんな意図とは露知らず――巨獣はほとんど平然とした様子で体にくっついた害虫を追い払おうと体を激しく揺さぶった。その振動から逃れるように光牙は埋もれたままの右足を蹴り上げて獣から跳躍し、少し離れた地面へと着地した。
「光牙!」
けたたましいエンジンの音と共に、園長がすかさず呼びかけた。彼女が機体と共に振り返ると、その切り返したヘッドライトの眩いばかりの光線が彼女らの背後に迫っていた黒い影に降り注がれた。暗闇から浮かび上がった白い姿に、園長の背中にしがみついていた琴子が目を丸くして絶句する。
「ひゃあぁぁ……なんですか、これ――」
「なっ――なんだって――」
眼前で対峙している光牙もまた立ち竦んだ。
それは獣というより化物と呼んだ方が適切だった。基本的には虎や獅子といった四肢の動物の形状をしているのだが、ところどころの局所的な部位が致命的に不気味に仕上がっている。像に匹敵するほど魁偉な体積に、全身の筋肉がでたらめな構造に発達していて皮膚の至る所は岩山のようにぼこぼことしていた。照明の明るさで鮮やかに輝く金色の毛並みは、その毛先がどれも太く、ねじれた針金のようにいびつに反り返っている。傲岸に押し開く口膣には不揃いな牙が二列から三列に渡って生え揃っていて、どろりと濁った唾液がそれらの隙間から地面に垂れていた。そしてなにより顕著な特徴は頭部に現れていた。まるで頭の上から硫酸をぶっかけた後、焼け爛れた皮膚に他の動物の皮膚を無理矢理に縫い合わせて移植したような秩序のない顔をしている。片目は深い爪痕で完全に潰れていて、化物の視界はただれた瞼の下にうっすらと見え隠れする緑色の右眼だけで支えられているようだった。
それら全体的な姿を一望して、園長は感想を述べた。
「……うちは動物の悪霊にたたられるようなことをした覚えはないんだけどねえ」
どうも園長はそれが生物であるという可能性を早々に放棄したらしい。無理もない反応である。普通、そのような生物はSF映画のような仮想世界でしか見ることはない。
「大きな怪獣さんですねえ……」
これは琴子の呑気に感嘆する声だった。やはり映画気分なのだろう。
だが光牙だけは二人とはまったく別の理由で現実的に愕然としていた。
「おまえ! 意識はあるのか! おい!」
光牙が声を荒げて必死に問いかける。彼はそのことがほとんど無駄なことだと分かっている。案の定、化物は液体の沸き立つようなおぞましい唸り声を口の中で転がすだけで、なにも言い返してはこない。そして人獣族の耳を持ってしても、そこに意志を感じ取ることはできない。それでも光牙は叫び続けた。
「なにか答えてみせろ! 俺の声が聞こえるなら!」
「光牙。アンタ、あんな化物と知り合いなのか――」
その園長の問いかけに答える余裕はなかった。それまで身じろぎしていた化物がやかましく叫ぶ光牙のことを敵視したらしく、なんの前兆もない俊敏な動きでいきなり襲いかかったからだ。園長たちから離れた場所に誘導するように光牙はすばやく傍らの平原に踊り出た。夜風を裂いて迫ってくる鎖鎌のように鋭利な鉤爪を、光牙はすんでのところで見切ってかわす。直後、その爪撃をなぞる強烈な風圧で光牙の鬣が後ろになびく。さらに化物は休む間もなく前脚を何度も振り上げては光牙を切り裂こうとした。その豪胆な爪にかすって掘り起こされた地面の土や草がばらばらと宙に舞っていく。そうして回避に専念しながら、光牙はなおも呼びかけた。
「やめろ! 俺はおまえと戦いたくないんだ!」
しかし説得はまるで意味を成さない。むしろ化物は挑発されているようにも感じたらしい。大気を震わすような雄叫びをあげると、化物はいかにも全力といったように体中に力を漲らせて、めきめきと骨を軋ませながら体を膨らませていった。本格的に光牙を狩るべき相手とみなしたようだ。
(もう手遅れだってのか――)
光牙が嘆く。今の彼に攻撃する意志はほとんどない。なぜなら光牙は気がついていたからだ。化物の額に埋め込まれた緋色の石、その『獣の楔石』に――。
「金峰光牙だ! おまえも人獣族なら聞いたことはないか!」
すがるように自分の名前を叫ぶと、化物はぴくっと痙攣したように動きを鎮めた。それから獰猛に荒ぶっていた息遣いを静かなものに落ち着け、鼻先を動かして光牙のことを舐めるような視線で観察している。ようやく落ち着きかけた相手を決して脅かさないよう、光牙はできるだけ慎重に、そして優しく問いかけた。
「俺は光牙。人獣族の金峰光牙だ。……きみにまだ意識が残っているっていうなら、なにか語りかけてみてくれないか――」
化物の様子は明らかに変わっていた。先ほどまでは殺意と怒りに満ちていたが――今ではなにやらうめき声のようなものを漏らしながら、首をあちこちにひねらせて、どこか混乱しているようだった。やがて化物は身をひるがえすと、光牙を警戒するようにその場から遠ざかっていった。そうして草原の丘だった起伏のてっぺんに到達すると――化物は急に顎を反らして遠吠えをあげた。さきほどまでの地鳴りのように聞き苦しいものでなく、あたかも夜空の壁雲を貫くように綺麗で透き通った声だった。
「なっ――――」
光牙はたちまちに驚愕した。その声には、様々な色をした紐が乱雑に絡み合ったようにたくさんの意志が篭められている。結局、先ほどと同様に言葉として理解することはできなかった。しかし、その化物の変調した美しい声色に光牙は聞き覚えがあった。それは間違えようのない、はるか昔に耳にしたものだ――――
すっかりと錯乱した光牙は、まるで金縛りにでもあったかのようにその場に固まり、身動きできなくなってしまった。たまらず園長が叫ぶ。
「光牙! なにぼうっとしてんだ!」
「まさか、静音……静音なのか――!?」
光牙が問いかけるも、化物はなにも答えずにさっと振り返ると、背後の闇へと飛び込んでいった。そのことに慌てた光牙はすぐさま追いかけたものの、動物園の内外を隔てる東エリアの石塀に飛び乗ったところで諦めざるをえなかった。視界に映る化物の姿は既に小さな粒となっていて、平たい田畑の向こう側にそびえる野山へと消えていったからだ。その俊敏な脚は光牙よりもずっと速く、このまま追いかけたところで山の密林で見失うだけだ。
それに光牙にはある疑問が胸のうちに浮かんでいた。むしろ、そのことが彼の追跡をはっきりと断念させていた。
(彼女を追いかけて……どうするっていうんだ……?)
虚空を舞う夜の風が、かつての記憶を鮮明に煽っていた。