第一章 新人教育 part6 (彼女の愛車と馬鹿二人)
(どういうことだ――?)
光牙はいぶかった。玉響動物園にいる動物の声はすべて記憶しているのに、その鳴き声の主がまるで特定できないからだ。もし南米の密林にでも入り込めば未知なる動物は山ほどいるだろうが、ここは国内であり三年も住み慣れた土地だ。近隣に住む野生動物の声だって大体は耳にしたことがある。
大気を震わす地鳴りのような咆哮がさらに響く。今度は先ほどよりも近い場所で聞こえた。どうやら声の主は園内を移動していて、西エリアから中央エリアへと向かっているようだった。
「待ちな、光牙。あたしも連れていけ」
手早くサイドポニーを結い上げながら園長が呼び止める。廊下のガラス窓の縁に足を引っかけたところで、光牙は後から続こうとしていた園長を制止した。
「ダメだ。こいつは危険すぎる――」
人獣族は動物の鳴き声から意志を汲み取る。レオのように巧みな言葉を操る者も稀にいるが、大抵は空腹とか睡眠欲などの本能的な欲求を感じ取る。そして光牙がたった今感じ取った感情は――激しい憤怒だ。その獣は野生の殺戮を求めていて、血や熟れた肉を間違いなく欲している。そんな飢えた獣のところに生身の人間を連れて行くことなどあまりに馬鹿げている。
光牙は園長に構わず裏庭に飛び出した――そして、地面にずっこけた。
「……黒い風が泣いている」
いつの間にか外に突っ立っていた琴子がそんなわけの分からない言葉を口にしていたからだ。腕を組み、黒髪を風にたなびかせて、夜闇に覆われた空をくっきりとした瞳でじっと見据えている。どうやら、この娘もまた、意気揚々と現地に駆けつける気でいるらしい。
「おい、新入り! 今回ばかりはふざけてる場合じゃねえ。馬鹿な真似はやめて、頼むから園長と一緒におとなしく部屋で待機しててくれ」
それに噛み付くように琴子が反論する。
「なにいってるんですか! 突如現れた謎の獣。それと戦おうとする人獣族のセンパイ! こんな手に汗握る展開を黙ってみていろなんて……そりゃあもう野暮ってもんですよ」
「やかましい! いいからひっこんでろ!」
光牙が叱責するも、自分の世界に浸っている琴子にはまるで聞こえていない。
「あ、センパイ。今こそヘンシンの時じゃないですか! はやくはやくぅ!」
ぽんっと頭の上に豆電球を光らせてから、そわそわとしたように琴子が熱視線を送ってくる。光牙はがくっと肩を落とした。
「た、頼むからよ。少しは危機感を持ってくれ……今は非常時なんだぞ」
「でもレオくんを足でカンタンに蹴飛ばしちゃうくらいのセンパイがいれば安心じゃないですか」
相手がライオンならば、光牙もそこまで慌てない。だが相手はおそらく得体の知れない動物だ。もしかすれば致死性の毒を持っているかもしれないし、爪や牙に厄介な病原菌を持つかもしれない。そういった危険が考えられる以上、彼女たちを連れて行くべきではない。どうしたって光牙の結論は変わりそうになかった。
「おまえらは足手まといになるっつってんだよ。ったく……」
そこで光牙は彼女がいなくなっていることに気がついた。
「あれ……園長は……?」
嫌な予感をめぐらせた直後、それは見事に当たったらしい。
彼の問いかけに答えたのは豪快な排気音。闇を切り裂くヘッドライトと共に颯爽と登場した園長の愛車XV250ビラーゴの改造エンジンの熱き鼓動が荒々しく猛っている。重厚な機械の塊にまたがるタンクトップとホットパンツの軽装は妙に馴染んでいて、その全体的に豪快な姿に琴子はうっとりとした目ですっかり見惚れている。革の指空き手袋を掲げて、園長が笑った。
「準備オーケイだ。これなら文句はないだろ? いざとなったら逃げられるし」
「ああ…………馬鹿が二人重なると本当に手に負えねえ…………」
やり場のない憤りに、光牙はわなわなと両手を震わせる。
とはいえ、もうふざけている時間はなかった。園内の動物たちのざわめく声がにわかに聞こえ始めていたからだ。部外者の気配を敏感に感じ取って夜の眠りから醒めたのだろう。檻の中の肉食獣はともかく、草原に放し飼いをしている動物たちは下手をしなくても狙われる可能性しかない。最悪の事態にならないうちに、早急な対処を試みなければならなかった。
「もういい! 勝手にしろ! 俺は先に行くぞ!」
「わっ、かっくいー!」
琴子が叫んだのは光牙がいよいよ変身をしてくれからだ。銀色の鬣に発達した爪と牙。黒い瞳は真っ青なブルーに変色している。
こうなった以上、園長たちより先に獣を発見して、さっさと事態を沈静化させておく。それが最善と考えた半獣の獅子は虚空へと跳躍して夜の闇へと消えていった。