エピローグ 1
真っ白に塗りたくった四い空間。
その病室の中心に一人の女性が眠っている――
秋の終わりを告げるような紅色をした髪。透き通った皮膚は石膏みたいに色味がなく、その小さな額には厳重に包帯が巻かれていた。閉じたまぶたはあたかも人生のすべてに幕を降ろしたように深く沈み、いくぶんか赤みの欠けた唇はぴくりとも動かずにいる。もし彼女の胸元で純白のシーツがわずかにでも揺れていなければ、それはじつに精巧にできた蝋人形と錯覚できた。
だがそれは決して作り物なんかではない。光牙がそっと傍らに移動すると、その気配を察したのか、大地の花が咲き開くように彼女はゆっくりと目を覚ました。そして、ぽつりとつぶやく。
「……だれ……?」
光牙が息を呑む。
ゆっくりと身を起こした彼女の双眸はどちらも焦点が合っていない。明後日の方向、とも呼べない見当違いの虚空を見つめていて、顔だけをなんとなく振り向かせている。気配だけをおぼろげに感じ取っているのだろう。緻密に造られた緑色の義眼は本来の彼女の瞳と似て非なる輝きを発光していた。
「本当に……意識が戻ったんだね」
「あなたは――」
「俺は……きみの昔からの知り合いさ」
「そう。あなたは知ってるのね。わたしのことを――」
彼女はゆっくりと右手を掲げると、その姿勢のままじっと静止した。
なにもしていないわけではない。光牙には分かる。おそらく意識を集中させているのだろう。しかし、そこに彼女の所望している変化は起きなかった。ただ、突き出した手の平が虚空に浮かんだままでいるだけだ。
「……でもわたしは自分のことさえ忘れてしまった。獣化すらできなくなって……よっぽど酷い事故に遭ったみたいね」
「慌てることはないさ。時間はたくさんあるんだから――」
光牙が急にその場を去ろうとすると、彼女は敏感に反応した。
「待って。もう行くの?」
「……医師の指示でね。本当はきみの姿を一目見るだけって約束だったんだ」
「どうして……?」
「へたに記憶を刺激するようなことはまだ避けたいそうだ。きみはまだ病み上がりだからね」
細い眉根をわずかに歪めて、彼女が悲観そうにうつむく。
「そう……ならあなたの名前すらも教えてもらえないの?」
「……またくるよ。べつに隠しゴトをしたいわけじゃない。許可が降りたら俺はなんでも話すつもりでいる」
「本当に……?」
「ああ。約束する」
「……ありがとう。少しだけ楽になった感じがする」
光牙はどきっと固まった。
なにも見えないはずの彼女の瞳がまっすぐとこちらを見据えている。そして彼女の発した声が昔のまま変わらないトーンだったことに――
(……君の言う通りだったな……)
心の中で思い返す。また会えるかもしれない――かつて少女の告げた言葉が現実に叶ったことを。光牙は思った。言いたいことを抱えている方が、また会えるような気がしてくると。
「それはよかった。……またくるよ」
それだけ言い残して、少年は部屋を後にした。




