第六章 獣の楔石 part1 (対峙する二人)
森に吹く夜風が、いっそうの冷たさを孕んでいた。
「藤堂……センセイ……?」
指先が震え、頭の中に不快な感情が重くのしかかる。どこか夢にまどろんでいるような感覚に陥りながら――光牙は未だに眼前の光景を受け入れられずに固まっていた。
「でかしたな。まさかここまでの隙を与えてくれるとは――」
引き抜いた槍を掲げて老人が跳躍する。身に纏った黒装束をはためかせ、そうして岸辺に向かって着地した。
魔獣は両眼を失い――まるで嵐の中心にでも放り込まれたかのように暴れ狂っていた。触手をかき乱し、四肢をばたつかせ――しかし、それらの行動に意味はなかった。いずれもむなしく空を切り、ひたすらに水面を打ちつけて、ばしゃばしゃとした水飛沫をむなしく舞い上げるだけだった。
「視力に聴力――これで狩りは随分と楽になったな……」
硬い総髪に鋭い眼差し。そして心までもが強靭な金属でできたような冷たい口調で藤堂がつぶやく。その非情さは光牙の怒りを煽った。
激昂――それはむしろ殺意にすら近い感情だったのかもしれない。ドス黒い、どろっと濁った感情が光牙の心を覆っていく――そして、無意識に身体を突き動かした。
藤堂の行く手に光牙が立ちはだかる。
「そこをどけ。わたしはトドメをささなくてはならん」
だが光牙はどかなかった。そして退くつもりもない。静かに私憤を噛み慣らし、光牙はかろうじての理性を保ちながら答えた。
「行かせるかよ……静音は魔獣になんかなっちゃいないんだからな」
「……やめておけ。そんな期待は一時の幻想に過ぎん。魔獣はすべからく凶暴に育つ。そのことに例外はない」
「そんな言葉は信用できねえよ。あんたは……いろんなことを隠し過ぎている」
藤堂は答えない。そして口を開く代わりに重槍の先端をそっと光牙に向けた。
警告――とでも言いたいのだろう。それはつまり、邪魔をするのならば力を行使するということだ。いびつに曲がった矛先――そこにくりぬいたばかりの魔獣の肉片がぶらさがっているのを見て、光牙の声にさらに感情がこもる。
「もう俺は迷わない。いくら教師だったアンタが相手でも容赦しない――」
「思わせぶりなことを……。よもや貴様は私に勝てるとでも思っているのか?」
その威圧的な問いかけは、すぐさま光牙に悪いイメージを想起させた。
つい先日、光牙は彼に手も足も出ずに圧倒されたばかりだった。さらにどれだけ昔の記憶を漁ってみても光牙が彼に勝利した思い出など一度もない。人生においてどうしようもなく絶望的な印象を覚えてしまう相手、光牙にとってはそれが藤堂総十朗だった。
(だからって――諦めるわけにはいかないだろう……)
光牙が唾を飲み込む。そして気を強く取り直す。
(……つけいる隙がないわけじゃないんだ……)
老衰。まず真っ先に思い浮かぶ活路はそれだった。それに、光牙にはひそかな自信もあった――
「それが必要なことなら……そうするだけさ……」
軽く息を吸いこみ、骨の軋みを感じながら、両腕の拳に強靭な圧力をゆっくりと籠めていく。そして力が分散しないように注意深く片足を引き、はりつめた神経のすべてを眼前の相手に注ぐ――
そして光牙は口を閉ざした。もう思考は不要だった。
沈黙が場を支配する。周囲には苦しみにのた打ち回る魔獣の悲鳴が響いているが、二人の耳には届かない。
ただ光牙よりは藤堂の方が冷静だったのかもしれない。少なくとも――相手の心情を見抜くという意味では一枚上手だった。
急に藤堂は打ち明けた。
「教えてやろう。大神静音を研究所から逃がしたのは他でもない。この私だ」




