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第五章 嘆きの森 part10 (記憶)

(まだ彼女の聴力がわずかにでも残っていれば……)

 それでもなお聞こえるほどの声量を発すれば良い。その試作にリスクはない。

 決断は早かった。光牙が細胞の刃をひっこめて、新たに意識を集中させる。細胞制御による声帯強化――喉元あたりが太い配管のように膨らむイメージを描き、ありったけの息を吸いこんでいく。そうして胸部がぐっと膨れるくらいに肺の奥まで空気を送り込み、どこかしらの皮膚の膜が破裂する感じをおぼえたところでぴたりと呼吸を止める。

 湖の水面から魔獣が半身を覗かせて――光牙はその瞬間を狙った。外顎を押し開き、一斉に空気を押し出して――

 獣となった光牙の全力の咆哮が響き渡る。

 その轟音は夜に佇む静寂を叩き起こした。眠りにふけていた生物たちが一斉に目を覚ますと呼応したように風が騒ぎ出し、沈黙していた森の枝葉が激しく揺れ動く。

 自分の意識を失いかけるほどの限りない絶叫――その反動で急激にしぼみ始めた肺がたまらず新鮮な酸素を求め出す。顔色を悪くした光牙はあわてて息継ぎをして取り急ぎ平静を取り戻した。

 手応えは十分だった。少なくとも聴力を持つ生物が聞き逃すことはありえない。そういった確信を抱きながら視線を向けると――

(……静音……?)

 たまらず光牙は狼狽した。そして眼前の様子に釘付けとなる。

 美しい光景であった――

 魔獣は湖に浸かったまま静止していた。水の重みに毛皮をびっしりと濡らし――血泥の洗い流れた表皮を月の光が照らしている。あたかも展示された彫像のように固まってしまい、あれだけ敵愾心をふりまいていた触手たちも今では使命を失ったように湖に沈んでいた。

 はたしてどれだけの時間、彼らは立ち尽くしていただろう。その間、水の雫だけがぽたぽたと滴り落ちている。

 そして先に沈黙を破ったのは魔獣だった。

 瞳を小さく揺らし、首を振り、馬のいななきのような鳴き声を発して――

(これは……?)

 一本の触手。それがゆっくりとした動きで光牙に近づいていった。殺意はない。そのことを感じ取った光牙はなにもせず、ただじっと触手の行く末を見守っている。

 そうして濡れた触手がほおに触れると、光牙はそれを無意識のうちに握り返した。表面のざらついた繊維の奥に生暖かい体温が宿っていて、血の流れる確かな鼓動を感じる。そして一本の触手をまるで糸のようにたぐりよせて、今度は岸辺に這い上がった魔獣がゆっくりと歩み寄ってくる。

 光牙が思わず見上げると、魔獣は高い首を下に傾げてそっと鼻を近づけた。そして匂いを嗅いでいる。凄惨に痛めつけられた醜い獣の顔を間近に捉えて――光牙はそれを慈しむように撫でた。

 静音の特性は豹だった。人獣族の中でもきわめて優れた嗅覚を持っており、本来ならば匂いだけで相手を認識できる。彼女にわずかにでも記憶が残っているのならば、自分のことを思い出すことは不可能ではない。

(やっぱりな……)

 だが光牙はなかば確信していた。彼女は自分のことを確実に覚えているのだと――

(そう……少し冷静に考えれば難しいことじゃない……)

 忠孝の話では――まだ人間の姿をしていた頃の静音は研究施設で琴子の存在を知ったという。しかし琴子が玉響動物園でインターンシップを開始したのはつい最近だ。さらにいえば宿直が決まったのはその当日――すでに魔獣と化していた静音がそのことを知る術はない。そんな彼女が琴子の実家を襲うならまだしも唐突に玉響動物園に現れたことはおかしいことであった。

(わかってる。俺にはわかっていた――)

 光牙の目頭に沸々と熱がこみあげてくる。まるでダムが決壊したように感情の波がとめどなく押し寄せてくると、光牙は用意していた推測を口にした。

「君は始めから琴子を狙っていたわけじゃない。ただ……俺に会いにきてくれたんだろう……?」


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