第五章 嘆きの森 part9 (確認)
「静音――聞こえていたら返事をしてくれ……!」
しかし、光牙の声は届かない。
けたたましい咆哮――それを合図にして周囲一帯に黒い触手が無数に展開していく。彼女はただ警戒していただけだった。自分を襲う外敵を排除するために――
(くそッ――本当に魔獣になっちまったっていうのか――?)
そう舌打ちして、焦燥する。
触手が暴れ回る。樹木をへし折り、岩場を砕き、泥と水飛沫を舞い上げながら破壊の痕跡を次々と生み出して――それらが津波のように押し寄せると、光牙はかろやかに跳躍を繰り返して回避を続ける。
「静音! 俺だ! 光牙だ!」
彼はなおも呼びかけた。戦うつもりはない。少なくとも自分の中での確証が取れない限り、絶対に手を下すつもりはない。
(獣化を解除してみるか――?)
敵意がないことを認識してもらうためにそんな考えを思いつくが――光牙はすぐにそれを愚策として否定した。今の彼女はお世辞にも理性があるとは言いがたい。激昂した獣を相手に武器を捨てたところで、自分がただやられてしまうだけだ。
それよりも優先するべきことは彼女の怒りを鎮めることだった。少なくとも、彼女は常に暴れているわけではないはずだった。玉響動物園で遭遇した時、彼女はまちがいなく呼びかけに反応した。記憶違いなんかではない。光牙は確かに覚えている。そして、そのことが光牙をはっとさせた。
(……なぜ静音は暴れているんだ……?)
ふと疑問に感じる。
もし悲観的に考えるなら彼女の魔獣化が進んでしまい、もはや完全に理性を失ってしまっているだけの話なのだが――
(いや、違う……もしかしたら――)
光牙に一つの閃きが生じる。そして、やるべきことも定まる。
両肘の皮膚に痛烈な破裂感を覚えながら細胞の刃を生成すると、光牙は逃げ回っていた足を止めてゆっくりと振り返った。そうして二つの刃を斜に向けて構えて――すると彼を追っていた触手の動きが突然にぴたりと静止した。そのことに光牙が喜んだように笑う。
「へぇ……まだ記憶力は残っているみたいだな」
魔獣がごろごろと息を鳴らし、その場に固まってうずくまる。岩山と見紛う巨体が上下に大きく揺れていた。おそらく先ほど触手を切り刻まれたことに警戒しているのだろう。
今度は光牙が先手を打つ。
喉の奥で唾を押し込み、意を決して大地を蹴り出してまっすぐと飛びかかる。
一呼吸遅れてから慌てたように触手が迎え撃つ。だが遅い――少なくとも光牙の身体能力を凌駕するほどではない。もしかすれば魔獣は混乱していたのかもしれない。いきなりの突撃――また触手の通じない相手をどう迎え撃つべきか――そういう迷いが反撃に精彩さを欠かせた。
迎え風に銀色の体毛を揺らし――虚空を舞った光牙が魔獣の肩にひょいと飛び移る。触手の追撃が止まったのは自分自身を傷つけないようにするためだろう。代わりに魔獣はすぐさま半身を暴れさせて振り払おうとするが――光牙はさらにまとわりつくように跳躍した。分厚いうろこがいくつも重層になった顔面に着地して、魔獣の隻眼の正面に立ちはだかる。緑色の瞳――その視線が自分に脅えたように注がれるのを確認して、光牙が自分の腕をすっと掲げる。
「すまない……静音……!」
肉を裂き、噴出する鮮血――魔獣を傷つけたわけではない。光牙が自分の肉を切り裂いたのだ。そうして流れた光牙の血があっという間に魔獣の視界を奪う。
――――――――――ッッ!!
森全体を揺らす地鳴りのような悲鳴をあげて、魔獣が激しく取り乱す。地面に降りて避難した光牙はすぐに声をかけず、彼女の背後に回ってからしばらく様子を観察していた。そして、
「こっちだ! 静音!」
そう呼びかける。だが魔獣は一向に気がつかない。光牙が居場所を伝えているにも関わらず――ただあてもなく触手を振り回して、その場で荒れ狂っているだけだ。
(やっぱり、そうか――)
疑惑が確信に変わる。
(……彼女は聴力を……)
見れば魔獣の耳は引き千切れたボロ布みたいになって腐食していた。おそらく共生特課に損傷させられたのだろう。聴覚の機能を奪い、狩りを容易にさせるために――
細胞制御は傷口を塞ぐ。だがそれだけだ。臓器や器官の外形を戻すことはできても、その喪失した機能までをそっくり元通りに回復するなんてことは極めて難しい。そこまでの緻密で正確な復元を行うには人獣族といえども人間同様に医学を必要とする。聴覚のように繊細な部位ならなおさらだ。それはいくら強い再生力を誇る魔獣といえども同様だったらしい。それならば声が聞こえないのも無理はない――
光牙は息を吸った。そうして自分の腕に意識を集中して、熱を帯びた傷口を塞いでいく。いくらか身体が鈍重なのは血の損失のせいだろう。頭も多少ふらつくが、とりあえず光牙は首を振って気を取り直しておいた。本当ならばゆっくりと休息を取りたいところだが、今は悠長な回復を望んでいる場合では決してない。じきに忠孝さんたちがやってくるのだ――
(どうする……どうすれば俺の存在を認識させられる――?)
急がなければならなかった。それなのに打開策が思い浮かばない。光牙が苛立ち、拳を握る。
そう懊悩していると、魔獣は触手を手探りのように扱って移動を始めていた。向かう先は湖――おそらく目に付着した血を洗い流し、視界を回復するためだろう。そうして黒い影がずぶずぶと湖に沈んでいく。それらの光景を眺めていて、
(まてよ……)
水面に広がるいくつもの波紋。それが光牙を惹きつけた。




