第五章 嘆きの森 part8 (湖畔)
森の枝木を掻い潜った先に、その美しい湖は存在した。
エメラルドに輝く水面にはいくつもの樹木が根付き、盛り上がった岩場の近くで幻想的な光を放つ虫が星屑のように飛び交っている。青い葉々を揺らしながら、あたりの湿気を含む夜風がゆるやかに吹くと、湖に反射する月の輝きが明るく散りばむ。
光牙は小さく息を吸った。わずかに指先が震え出す。心臓の鼓動が強くなり、全身を駆け巡る血が昂ぶっていく。興奮でも猛りでもない高揚感――肉体は熱いのに頭の奥底だけがやけに冷静でいる妙な感覚――それは同時に頼もしくもある。
(静音――)
湖のちょうど対岸にある岩山のような黒い塊――夜闇を背負って、魔獣は佇んでいた。
光牙は合図を送ると、自分の肩に止まっていた小鳥に避難を促した。そうして地上から空に向かって旋回する羽音が鳴ると――その様子を見ていたのか、魔獣が地面に埋めていた身をゆっくりと引き起こした。
月の光が注がれて――
光牙は静かに観察した。
おそらく幾度となく損傷と再生を繰り返したのだろう。先ほどの戦闘では気づけなかったが、魔獣の肉体は玉響動物園に現れた時に比べると、もはや原型を留めていない。以前はなんとか獣の外形を保っていたが、今ではより異形の姿となっている。血膿と肉片の入り混じった傷跡が全身の皮膚をほとんど食い潰しており、黄土色の毛皮はわずかにしか残っていない。
傷口はほとんど塞がっている。敵意を示すだけの獰猛さも残っている。だが失った血液まではさすがに回復できていない。動きの中に見える疲労を隠しきれていない。魔獣は引きずるように脚を動かすと、ただそれだけの動作に息を荒げていた。
ゆっくりと光牙がまぶたを下ろす。そして、
「……これで最後だ。もう温存する必要はないよな」
だれにともなくそう断りを入れて――光牙の肉体が銀色の半獅子に変貌していく。意識と肉体はまるで突然に水の中に放り出されたかのように騒ぎ出して――全身を支配する神経がより鋭敏にくまなく研ぎ澄まされていく。
光牙は再び魔獣に視線を転じた。
(どうせ今の君の姿を見ることになるのなら……あの時、無理矢理にでも連れて行くべきだったんだ……)
細い赤毛の小柄な少女――かつて連れ損なった少女の姿を思い浮かべて、光牙がなにもない虚空をぐっと握りしめる。眼前の変わり果てた魔獣の姿には昔の面影があった。どんな輝きよりも精彩な黄金色をした毛並に、美しく透き通った緑色の瞳――
そして光牙は憤慨する。どれだけ後悔したところで過去の選択は絶対に変えられないことに――
「……静音。俺の声が聞こえないか?」
魔獣は沈黙していた。鳴き声も発さず、身動きもせず――ただ光牙のことをじっと凝視していた。まるでなにかを思い出すように――




