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第五章 嘆きの森 part7 (失踪)


 ひと夏のアバンチュール――男女二人で夏の夜を連れ添っていればそんな表現でも良いはずだが――琴子ははたして自分にあてはめて良いものか首をひねった。例えるなら、自分は荷物のようでしかない。森の中をひっちゃかめっちゃかに連れ回されて、挙句の果ては空の上――

(まあ、いいんですけどね……頼まれた以上は……)

 強い風。それが髪や服を乱れさせる。そんな上空でも平然とした顔をしていられる忠孝は少し羨ましい。彼と違って、とても目を開けていられない琴子はほとんどまぶたを閉じて薄目になっている。そのわずかな隙間からそろりと地上の景色をのぞきこむと、ずいぶんと高度があった。スリルは抜群だ。

 もしも落下したら――想像して琴子がごくりと唾を飲む。そして考えを霧散させる。悪い想像は極力しないほうが良い。こんな予想が当たっても悲しいだけでしかない。それに――そんなことより心配するべきことが彼女にはある。

(センパイ……ちゃんと約束を守ってくれればいいけど……)

 そう考えていた時だった。

「……君には申し訳ないことばかりだな……」

 それまでずっと押し黙っていた忠孝が急に謝って、不意をつかれたように琴子が驚く。つい反射的に遠慮しそうになるが――よくよく考えたらそれくらいで許して良いわけはない。

「ええと……いまごろになって謝罪ですか?」

 むしろ余計に苛立ったように琴子がやっかむ。正直なところ、琴子は忠孝のことをあまり好きではなかった。

 彼は理知的で算段深い。先ほど地下の研究室で事情を説明したのは光牙に対して足止めするためだった。おそらく、彼はなにかしらの利得がない限りは無駄な施しをしない性格であり、だからこそ琴子は警戒を怠りたくなかった。

 そういう内情を見抜いてか、忠孝は嘆息混じりに言った。

「どうやらぼくはすっかり嫌われ者になったようだね」

 思わずウンと頷きかけて――さすがに失礼かと考えた琴子は少しだけ言葉を選ぶことにした。

「……ヘンに事情を隠したりするからですよ。最初から素直に話してくれたら不信感もありませんでしたけど」

「できることなら、なにごともなかったように君を元の日常に返してやりたかったんだよ」

 忠孝の弁明に、琴子はさらに機嫌を悪くした。

「なら最初から警察を通して保護すればよかったんですよ。あんなむちゃくちゃに誘拐じみた真似なんかしたら不安になるに決まってるじゃないですか。いったい、なに考えてるんです?」

「あれも仕方なかったんだ。ぼくらは金峰を巻き込みたくなかったからね。それで正体を明かさないようにしたつもりだったんだけど……まあ、あれは先生が勝手に出てきちゃったからな――」

 なにやらぶつぶつと文句をぼやき、忠孝。潔癖症な雰囲気から察するに、あまりミスを認めたくない性格なのかもしれない。

 琴子はふっと息をつくと、いつになく饒舌になっている忠孝に、ついでに聞いてみた。

「あの……やっぱりセンパイにとって、すごく大事な人だったんですか。その――静音さんって人は?」

 それまでの会話から見知った名前を口にすると、忠孝は小さくうなずいた。

「ああ……大事なんてもんじゃないさ。だから巻き込みたくなかったんだよ。アイツに酷なことは向かないんだ。……もったいない奴だよ。あいつはその気になればぼくより格段に優れた力があるのに――才能を持て余しているんだ」

「センパイが? そんな強い人だったんですか……?」

 琴子が首を傾げる。

 彼女の知る限り、忠孝と光牙は二度争った。自分を誘拐した時と屋敷の脱走時――だが、そのどちらにおいても両者の力量に顕著な差はなく、また勝負はいずれも引き分けだった。それなのに自尊心の高そうな忠孝が素直に負けを認めるのは意外だった。

 そんな琴子の疑問を察したように忠孝が答える。

「仮定の話だよ。アイツが感情を徹底してコントロールできれば、おそらく最強にだってなれる。それくらいの優れた能力を持っているからね。獅子の人獣族なんて滅多に生まれないんだ。でも……残念なことにアイツは心が弱かった。いざという時に非情になりきれないんだ」

「え……あのセンパイがですか……?」

 たまらず問答無用で動物たちを小突き回す姿を思い浮かべる。

「普段は粗暴にしてるけどね。その反面、繊細なのさ。昔から何一つ変わっていない。きみにはまだ分からないかもしれないけど――だからこそ先生だって金峰を巻き込まないように指示して――」

 そう言いかけたところで、忠孝は言葉を飲み込んだ。

「……どうしたんです? いきなり黙って――」

「……急がないといけない……」

 ぽつりとつぶやく。

「え?」

「先生はぼくなんかより金峰のことをよっぽど把握している。本当に巻き込みたくなかったなら、あんな真似はしなかったはずだ……」

「……どういうことです?」

 だが琴子の質問には答えない。答えている余裕がないのかもしれない。忠孝はさらに自己の世界にひきこもったように独り言を発し続けた。

「まさか先生は……こうなることを望んでいたっていうのか……?」

 そして自己完結したように忠孝が口を閉ざす。

「わっ……!」

 琴子が小さく悲鳴をあげたのは風の強さがさらに増したからだ。

 彼の翼が一層の音を強めて、激しく動いている。真正面から受ける風はまるで全身の皮膚を引き剥がそうとしているかのようで、もはや目を開けることさえ辛い。

 そうして二人はあっという間に洋館に到着した。

 のんびりと景色を鑑賞しているような余裕はない。荒れた庭園をざっと見渡している間に、忠孝はすぐさま半壊した玄関へと飛び込んでいた。そして琴子を降ろし、急いで屋敷の中に踏み込む――

 すぐに忠孝が立ち止まったのは、積み重なった瓦礫のそばに人がうなだれていたからだ。一人の人獣族――男は見るからに重体だった。四肢を半分ほど覆う白生地の包帯はほとんどが赤い血でぐじゅぐじゅに染まっている。半身を起こしているのもやっとなのだろう、その表情に余裕はない。

「こんなところでなにを……? 先生は?」

 男の口がぱくぱくと開く。おそらく声が出ていないのだろう。そのことに忠孝が膝をついて耳を近づける。そうして近くにいる琴子にすら聞こえないほどの繊細な声量で、忠孝がようやくに話を聞き取ると――相当に驚いたのだろう。

「なっ……先生がいなくなっただって……?」

 そう改めて繰り返した。


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