第五章 嘆きの森 part6 (取引)
小さな息吹を吐き出して、二人が同時に動きだす。琴子だけが時間の流れに置いていかれたようになって――わずか一瞬のうちに二人の姿が交錯した。
両者がともに殴り合ったわけではない。忠孝だけが明確な敵意を持っていた。光牙は彼の拳を受け止めたままの姿勢で固まり、それ以上の反撃はしない。
「よせよ。俺はアンタと争うつもりはない」
「……今は余裕がないんだ。きみのおふざけに付き合っていられるほど暇じゃないんだよ、こっちは――!」
そう意気込んで――だが忠孝は動けなかった。掴まれた腕を引けなかったのだ。拳を握りしめたまま光牙は離さない。
身体を震わせ、睨みあい――対峙した姿勢のまま光牙は続けた。
「忠孝さん。どうか冷静に考えてみてくれ。アンタは静音が隔離施設を抜け出したと言った。けど、そもそも藤堂先生がそんなミスをするか?」
「……きみも見ただろうが、先生は昔と違って老衰している。加えて大神静音は優秀だった。そういった要素を吟味すればこういうエラーが起きても不思議じゃないだろう?」
「本心でそう思うのか、忠孝さん」
そう問い詰めると、忠孝は口を閉ざした。まるで何かを回想しているようになって――
そうして一頻り沈黙してから、彼は推察した。
「まさかきみは……先生がわざと彼女を見逃したとでも言いたいのか」
「もしくは第三者が現れたか――けど、俺の知る限りではあの人を出し抜けるような知り合いはだれも思い当たらないけどな……」
「……」
忠孝が言葉に詰まるのを見て、光牙は断言した。
「先生は間違いなくなにかを隠している。あんたらは静音を追い回す前にそのことを確かめはしなかったのか?」
忠孝が拳の力を抜いたことに気がつき、光牙がすっと手を離す。彼の碧眼が小さく揺れる。
「……話をすりかえないでくれよ。もしかしたらきみの言う通り先生は怪しいかもしれない。でも……彼女は現実に魔獣になってしまっている。これは事実だ。疑いようもなくね。だから結局……理由はどうであれ、ぼくらが彼女を始末しなきゃいけないことに変わりはない」
「……果たしてそうなのか?」
「なに?」
そう話を切り返して――光牙が琴子の頭に軽く手を置く。
「四日前――静音は獣滅因子者を狙って玉響動物園に現れた。そのことは当然、あんたも知ってるよな」
「ああ……」
忠孝が頷くのを確認して、光牙は続ける。
「ヘンだと思わなかったか? あの日、静音にとっては絶好の機会だった。あんたら共生特課もいなくて邪魔になりそうだった相手は俺一人――。それなのに静音はろくに戦いもせずに立ち去ったんだ。その理由はなんだ?」
「……それは知恵のある人間の理屈だ。魔獣は野性の獣みたいなもの――そして獣は確実な狩りを望む。きみという邪魔がいたからこそ機会を改めたとも考えられる。賢い獣は無駄な争いを好まないからな」
「矛盾だな。魔獣ってのは獰猛で凶悪な存在じゃなかったのか? だったら、あの場で邪魔な俺を追い払おうとするのが道理のはずだ」
「あくまで一般論ではね。しかしながら魔獣の生態系なんてものはほとんど獣と一緒だ。つまり個体差がある。好戦的な獣もいれば狡猾な獣だっているようにね。べつに珍しいことじゃないさ」
「それだけじゃない。俺は聞いたんだ、彼女の声を。……感じたんだよ、彼女の意志を」
「……きみと静音は仲が良かったからね。そう思いたい気持ちは分かるが――それは幻聴だよ。……きみがそう信じ込みたいだけなのさ」
「アンタらこそ、そう決めつけたいんだろう。そして早急に処分したいんだ。自分達の保身のためにな」
忠孝が目を細める。
「滅多なことを口にするなよ。何度も言ってるように、彼女は間違いなく魔獣になっている。だからこそ共生特課に死人だって出たんだ」
「先にけしかけたのはアンタらなんだろう? なら自業自得じゃないか」
その言葉で、場の空気は一瞬で凍りついた。
まるで心臓を掴まれたような重苦しい静寂が漂って――およそ無関係な琴子までもがぎょっとしたように硬直している。
指先一つでも動かせば火山が噴火しかねない。そんな張り詰めた緊張感を纏いながら、忠孝がゆっくりと口を開いた。
「つまり……きみは彼女が本当は人畜無害で友好的な動物のはずだとでも主張したいのか?」
「だから、俺はそれを確かめたいと言っている」
「……このぼくがそんなことを許すと思うか?」
黒い外套をひるがえして、忠孝が両翼を勢いよく打ち鳴らす。だが、そのくらいで怯む光牙ではない。
「お願いだ。ほんの少しだけでいい……俺に静音のことを任せてくれないか?」
「きみがこれまでにどれだけの約束を守ってきた? 破ってきた回数を数えた方が早いくらいじゃないか」
「……頼む、忠孝さん……」
それ以上の説得の余地を光牙は持たない。もう他にできることは戦意を放棄することくらい――そうして光牙は琴子の背を押した。裏をかく目論見すらなく――ただ頭を下げて――
しかし、その行動は決して賢いとはいえなかった。
近くに寄ってきた琴子を抱きかかえると、忠孝はなにも答えず無言のまま翼をはためかせた。
「ま、待ってくれ!」
たまらず光牙が反射的に叫ぶ。それでも忠孝は止まらない。勢いよく羽根を動かし、虚空に向かって駆け上がっていく――
(駄目なのか……)
とっさに、そう絶望する。
そう諦めかけて――
すると突然、光牙の肩にめがけて一羽の小鳥が舞い飛んできた。
そして頭上に浮かぶ忠孝がようやく返事をした。
「きみの話はともかくとして――取引自体は悪い内容じゃない。ぼくらが態勢を整える間、きみが魔獣の注意を惹きつける。それだけのことなら断る理由もないからね……」
「忠孝さん……」
「ただし、勘違いしないでくれよ。たとえ大神静音にわずかな理性が残っていたとしても……ぼくらは魔獣になる者は必ず始末する。そのことに変わりはないし――それが劣勢人獣族の運命なんだ」
そう言い残して、彼は飛び去っていった。
(分かってるさ、そんなこと……)
風が止み、音が消え――孤独になった光牙が佇む。
はたしてどれだけの時間になるのだろう――長いこと過去を見つめてきた黒い双眸が夜の闇をまっすぐと捉えた。




