第四章 魔獣 part7 (魔獣の力)
「なんだよ……あれは――」
おぞましい光景だった。
黒い触手とでも呼んだら良いのだろうか――魔獣の肉体から無数に噴出した肉片の繊維。まるで海底を漂う生物の足みたいに空中に広がり舞うと、今度は棒に糸を巻きつけるように自身の肉体に刺さった鉄杭に一斉に絡みつく。そうしてあっという間に二重にも三重にも頑丈に巻きついていくと、いずれの鉄杭も一つ残らず外に引き抜いてしまった。すかさず皮膚の表面が波打って、細胞制御による治療が始まる。魔獣は理性を保つ必要もないためか、傷口の回復速度はやけに早い。
そのことに焦った人獣族たちが慌てて攻撃を再開すると――
「よせ!」
藤堂が叫ぶ。しかし、躍起になった者に声は届かない。
触手の先端の形がさらに細く、ほとんど刃物同然に鋭く尖ると同時――収束した火薬が爆発で拡散するようにすべての触手が飛び広がる。普段の彼らなら対応できる攻撃であったろう。だが、今の彼らはおそらく疲労していた。だから淡い期待を抱いていたのかもしれない。魔獣はもう少しで絶命するという期待が――もしくは単に油断していたのか――そうでもなければ、彼らがまともに被害を受けるはずもなかった。
魔獣に近接していた者はひとたまりもない。四肢のすべてを深々と損傷し、まるで糸繰り人形のようになって宙空を乱暴に振り回された挙句、がらくた同然に地面へと投げ捨てられた。少しばかり遠くにいた者も回避しきれておらず、それなりの損傷を被っている。
戦況はすっかりと一変していた。というよりは本当に藤堂の言葉通りだったのだろう。青々とした芝生の至る所に飛び散った鮮血。地面に両の足で立っていられる人獣族は藤堂と光牙を含めても四人しかいない。もはや誰の目にも明らかなように眼前の光景は魔獣優勢を主張している。
藤堂がぽつりと口を開く。
「まずまず常軌を逸した化物だとは思わんか。ありったけの銃弾を叩き込み、獣殺刃――いちど突き刺せば肉片を複雑に食い破る対魔獣用の刃でことごとく切り潰しているにも関わらず――それでも奴はあの驚異的な再生能力でたちまちに回復してしまう。魔獣の強さにはすべからく個体差はあるが……これほどのヤツはそう滅多に現れはせんだろうな」
ほとんど絶望的になって、光牙がうろたえる。
「あんな相手……どうやって対処しろってんだ」
「てっとりばやく心臓でも突き刺せれば話は早いのだがな……奴の皮膚はどうにも分厚く硬い。現状、最も殺傷力を誇る獣殺刃を持ってしても臓器までの殺傷には至っていない」
「なら、どうする。まさか魔獣のことを熟知するあんたがお手上げってわけじゃないんだろう?」
藤堂がうなずく。
「無論だ。そうなれば答えは一つだけ――血を奪うことだ」
「血を……?」
「たとえ魔獣といえども生物である事実は変わらない。つまり致死量の出血を狙えば良い。先ほどからやっているようにな」
黒銀の重槍に染み付いた血を示して、藤堂が答える。
「……道理で悪趣味な真似をしていたわけだ」
ようやく事態を飲み込んで、光牙。
魔獣は無感情に猛々しい鼻息を鳴らすと、残った外敵の姿を視認してから、さらに緑色の隻眼を尖らせた。
「静音には……もう本当に意識が残っていないのか?」
尋ねたわけではない。ほとんど自問みたいにつぶやいて――その声を聞き取った藤堂がいつもの冷静な声色で答えた。
「もし首を突っ込むつもりなら――おまえもいい加減に現実を受け入れて覚悟を決めろ。魔獣になった者はどのような事情があれども始末しなくてはならない。それは抗いようのない人獣族の運命なのだ」
それだけ言い残すと藤堂は魔獣の戦意に応えるかのように、前に踏み出して対峙した。
(運命――?)
それが何を意味する言葉なのか、光牙は一瞬分からなくなった。そして同時に気づいたことがあった。
(あれだけの力があるなら、彼女はどうして相手を一気に殲滅しないんだ……? それにトドメすら刺さずにいる……)
よく観察すれば――地面に昏倒している彼らにはまだ息があった。
野生の獣は外敵を無力化させれば満足する。それは完璧な殺傷にこだわるわけではなく、べつに瀕死の状態でも良い。そういった獣の気まぐれと片付けてしまえばそれまでの話かもしれないが――どうにも光牙は腑に落ちなかった。魔獣は本来、暴虐の限りをつくす獰猛な生物のはずではなかったのか――?
だが、光牙の懊悩が収束しないうちに事態は構わずに進展していく。
「……来るぞ」
藤堂の合図と同時、魔獣がゆっくりとその巨体を前進させ始めている。
(……考えてもしょうがないだろう……)
心の内側で自分を叱責して――
(今、この場において俺がやるべきことは――)
そのことだけを確認すると――銀色の半獅子はいよいよ観念したようにゆっくりと拳を構えた。




