第四章 魔獣 part4 (魔獣の狙い)
「獣滅因子者――?」
知らない単語を耳にして戸惑う光牙だったが、当の本人はそれ以上に混乱していた。
「なんです、その……じゅうめつ? わたしがそうなんですか?」
やはりというべきかまったく身に覚えがないのだろう。琴子は薄気味悪そうに眉根を寄せて萎縮している。忠孝は二人の疑問がしばらくの沈黙を生み出したことをひとしきり堪能してから、ゆっくりと口を開いた。
「……結論から話そう。大神静音が君を狙う理由は、魔獣になった彼女が獣滅因子者である君を喰らえば元に戻る可能性があるからだ。実をいえば……魔獣になった人獣族が絶対に助からないなんて話はまったくの嘘なのさ」
再び会話が止まったのは、光牙が呆然としてしまっていたからだ。それは驚きというよりは拍子抜けしたといった感じに――地下の湿潤な空気のまとわりつく中で、光牙は小さく鼻を鳴らした。
「もったいぶった顔でなにを言い出すかと思えば……。そんな童話みたいな話、信じると思ってるのか?」
だが忠孝はきわめて冷然とした表情のまま続けた。
「君は不思議に思ったことはないか。人獣族は人間達に差別される以前の時代、どのように世界に存在していたのかって」
その問いかけの意味するところが人獣族の民族史であることを察して、光牙は嘆息した。
「そんなもん、考えたってしょうがないことだろ。俺たちは奴隷としての時代があまりに長すぎたせいで、それ以前の文献が一切残っていないんだから――」
かつての人獣族たちの一生はきわめて短い。私財を持つことは決して許されず、生まれてから許される行動は労働と子作りのみ――そうして成人になる前には魔獣化対策ですべからく処刑されてしまう。人間が一世代を終える時、人獣族は三世代も入れ替わっていたという。そんなサイクルが十世紀以上も繰り返された種族である人獣族はかろうじて知性を残すことはできてもろくに学を身につけることはできなかった。つまり、自分達の生涯について記録することが一切できなかったのである。そのため人獣族の歴史は今もなお研究を進める学者たちの間で様々な憶測が飛び交っているが、結局のところは確たる証拠がないために水掛け論にしかなっていないのが現状である。
そういった一般的な常識を思い返していると――忠孝は発案めいたように言った。
「そこで、こう考えることはできないか? ぼくら人獣族は奴隷としての扱いを受けるようになったと同時、それまでの歴史を人間たちの手によって都合よく抹消されてしまった――って」
「……本気でいってるのか? そんな考え」
光牙が喉を鳴らすと――オイルランプの暖色の揺らめきが忠孝の表情を怪しく光らせた。
「ぼくらはおそらく大昔において人間との戦争に敗北した種族なんだよ」
「そんなトンデモ話、カンタンに信じられるかよ。そもそも科学だってろくに発達していない時代だったら……俺たち人獣族が人間相手に負けるはずがないだろ」
「君の言い分は分かる。ぼくらはこれだけ優れた肉体を持っているからね。でも、そうだとしたら、どうして人獣族は人間たちの奴隷でいることに甘んじたんだと思う?」
「……さあな。昔のことなんて見当もつかねえよ」
「敗因は数だよ。ぼくらは彼らに比べて今も昔も圧倒的に希少種で数が少ない。それゆえに負けたのさ。そして奴隷となり歴史を失ったわけだ」
光牙は眉をひそめた。
「仮にそうだとしても……そのでっちあげみたいな話が魔獣の件とどう関係があるってんだ?」
「大いにある。つまり、ぼくの言いたいことはだ……人間たちは「魔獣になった人獣族が人間を喰らえば元に戻る」という真実を隠したかったんだよ」
「なっ――」
「かつて魔獣は人間を大量殺戮していた。でも実はそれは単なる破壊衝動によるものでなく――彼らが本能的に元の姿に戻ろうとするためだった。そしてもちろん被害者側になる人間はこのことに黙っちゃいなかった。だから自然と争いになった。そして争いに勝利した人間は人獣族を自分達に都合の良い労働力とするための奴隷制度を作り上げたわけだ。こう考えれば人獣族の空白の歴史にもそれなりに説明がつく」
「……証拠はあるのかよ。そもそも魔獣が元の姿に戻るなんて話の」
忠孝は自分の着ている詰襟の外套を示すようにして告げた。
「このことを知る人獣族は限りなく少ない。共生特課にいる一部の人間と……それらの事実を調べあげた偉大なる科学者――いや、英雄の一人だけだ」
該当する人物はすぐさま頭に思い浮かんだ。
「突き止めたのは藤堂先生ってわけか……」
「君も知っている通り、若い頃の先生は労働施設を脱走した後、人獣族の人権を獲得するため魔獣化について独自に調べていた。そうして研究を進めているうちに魔獣に対する唯一のワクチンとなる獣滅因子者の存在も知ることになったわけだ」
その時、琴子がびくりと肩を震わせたのは、隣に座る光牙が机をおもいきり叩きつけたからだった。
「それなら……どうしてアンタらはその話を同胞にまで隠しているんだ? 皆……皆が失望しているんだぞ! 劣性に生まれたことの宿命に! 少しでも希望があるなら教えてやるべきだろう!」
叫ぶ光牙を咎めるように、忠孝がぎろりと眼光を鋭くした。
「あいかわらず早計なヤツだな、君は。そのためなら人間が犠牲になっても良いっていうのか?」
「それは……」
言葉に詰まった光牙に、忠孝は言った。
「先生は人間と人獣族の平和的共存のため、獣滅因子者の存在については黙ることにしたんだ。そして人獣族に優劣があることだけを公表して、魔獣はすべからく処分する方針に決定した。この決断は英断だったと思うよ。なによりも今の平和な社会がそのことを実証している。もしも魔獣になっても助かる可能性があるなんてことを人獣族が知ったら、中には人間を無理矢理襲う者が必ず現れる――それくらいは君にだって想像がつくだろう」
「それはそうかもしれねぇが……」
光牙はそれ以上の否定をできなかった。劣性人獣族たちがどれほど追い詰められた精神状態にあるか――そのことは嫌といういうほど理解している。それでも光牙は納得まではしたくなかった。そうして不満を抱えたように黙っていると、忠孝はさらに付け加えた。
「それに、これは最も大事なことなんだが――魔獣は獣滅因子者を喰らったとしても必ずしも元の姿に戻るわけではないんだ」
言いながら忠孝は机の引き出しを開けると、そこから今度は黒いファイルを取り出した。表紙に『魔獣試験』と記してあるそれはいかにも強烈に興味を惹きつけるものだった。
「藤堂先生は人権獲得を成し遂げた後に世間的な権力を手にすると、さっそく魔獣が本当に元に戻るかどうかの試験に着手した。これはその報告書になる」
「じ、人体実験をしたんですか……?」
脅えたように琴子が口を挟むと、忠孝は答えた。
「一応断っておくと試験体としたのは獣滅因子者の素養があった死刑囚だ。魔獣も人間もお互いに死ぬ者同士。問題がないとまではいわないけど、最低限の道徳は守っている」
「それで結果はどうなったんだ?」
答えを急かす光牙に、忠孝は言葉ではなく資料で示した。広げたファイルには一昔前の白黒写真がいくつも保存してあった。そして――
「いや……っ!」
琴子が小さく悲鳴をあげて顔を両手で覆ったのは、それらの映像が見るに耐えないおぞましいものだったからだ。動物の生死に慣れている光牙ですら顔をしかめている。
数ある写真のいずれにも収まっている黒い生物――ただし、それが本当に生物かと問われれば頷ける自信はない。どのような生物にも例えようがなく、あえて表現するならばそれは――人間と獣を細かく分割して滅茶苦茶に繋ぎ合わせた肉片を改めて高い崖から突き落としてバラバラにしたような――あまりにも不恰好でぐしゃぐしゃの形をしている。そうしておよそ人にも獣にも二度と戻れそうにない黒い塊にはかろうじて顔と思われる部分がわずかに残っており、その表情は世界のあらゆる苦痛をすべて集約して代表したような嘆きを浮かべている。
よろめく琴子のことを気遣ったのだろう、忠孝はすぐさまファイルをぱたりと閉じた。
「御覧の通り試験は失敗だった。被験体の人獣族は魔獣になった肉体を次々に崩壊させていき、まもなく死亡した。ただし、この魔獣試験はまったくの無駄だったわけじゃない。死骸になった細胞を一通り調査したところ、それらのうちの一部は人間の細胞に復元しているものがあったんだ。……ちょうどそこにあるようにね」
光牙と琴子がばっと反射的に振り返ると、背後の棚にある試験筒の中に人間の肉片のようなものが確かに保存してあった。腐食しないようになにかしらの液体に浸してある。
「この発見から、先生は魔獣を治療する方法があるはずと考えて、今もなお研究を続けているわけだ。……あくまで人間――獣滅因子者を犠牲にしない方法でね」
「……実際に元に戻った成功例はないのか?」
忠孝は首を振った。
「残念ながら――魔獣試験はただの一回しか行われていない。肝心の獣滅因子者の方が圧倒的に不足していて用意できないんだ。そもそもの母体数が少ないうえ、その人物がついでに死刑囚でなくてはならないからね。そうなってくると滅多にサンプルが見つからない。だから……実をいえば元に戻った確たる証拠はないし、今までぼくの話したこともほとんどが仮説に過ぎないってわけだ。ただし、それはあくまであの藤堂総十郎が打ち立てた最も根拠のある仮説である以上、信じないわけにはいかないという代物だ」
(なるほどな……)
光牙はそれまでの話を頭の中で整理すると、すばやく結論を導き出した。
「つまり、劣性治療の研究を手伝っていた静音は魔獣試験のことも当然知っていて、理性を失う間際にいちかばちか助かる可能性に賭けて……獣滅因子者を狙うためにここを抜け出したってところか」
「そういうことだ。今にして思えば……藤堂先生の対処も甘かったんだよ。彼女に魔獣化の前兆を感じた時点ですぐにでも幽閉するべきだった……しかし彼女があまりにも平静に振舞っていたものだから、その演技にかつての英雄もまんまと欺かれてしまったわけだ。おかげでぼくら共生特課を巻き込んでの大騒動に発展してしまった。まあ今更愚痴るつもりはないけどね――」
(静音が演技派だって……?)
そう疑問を抱く光牙だったが、口にはしなかった。
「あのう――」
ずっと質問の機会を伺っていたのだろう、そう断ると、琴子はおずおずと尋ねた。
「わたしってホントにその……獣滅因子者ってやつなんですか? 検査とかもしてませんし、なんだか信じにくいんですけど……」
「証拠ならついさっき見せたばかりだろう。獣滅因子者は獣の細胞に近づく度になんかしらの肉体的な痙攣反応を起こす性質を持つんだ。見たところ君の場合は横隔膜に強く症状が出るようだね」
しゃっくりのことを言っているのだろう。ただし光牙は腑に落ちなかった。
「待てよ。獣の細胞に反応するだって? 俺が獣化した状態でこいつを背負った時にはなんの反応もなかったぞ、なあ?」
「はい。そういえば……どうして大丈夫だったんですかね?」
自分でも分からないといったように琴子。
「そこが獣滅因子者の不思議なところだ――獣滅因子者が人獣族に近づいた場合、自分ではなく人獣族側になんかしらの反応を起こさせるんだ。そこらへんの作用が魔獣にも働くんだろう――たとえば実例をあげるならば、ぼくは彼女を担いで空を飛ぶ機会が何度かあったが、その時はいつもより力がわずかに衰えていた」
「あっ……だからあの時――」
琴子が小さく声をあげたのは、今朝の「重い」という発言を思い出したからだ。理由がわかったとしても、琴子としてはやはりむかつく出来事だったことに変わりなかったが。
(確かにな。こいつを担いで走っている時は、なんだか妙に疲れた……)
一方、光牙も思い当たるふしはあった。樹海を移動していた時に感じていたなんともいえない疲労感は彼女のやかましい性格のせいだと思っていたが、どうやらそういう事情が影響していたらしい。
「まあそういった事情でぼくらは君を保護していたわけだよ、琴子さん」
「はあ……そうだったんですねえ」
忠孝はそういってから、嫌疑をかけるように光牙を睨みつけた。
「それで金峰。一応、確認しておくが……君は琴子さんを犠牲にしてまで彼女を助けようなんて馬鹿な真似は考えていないだろうな……?」
「……ああ。あたりまえだ」
光牙が不服そうに下をうつむく。忠孝はその返事に満足したような顔で席を立つと、勝ち誇ったように告げた。
「まあ、あれこれと話をしてみせたが――もう君が大神静音の件について悩む必要なんて本当は何一つないんだよ」
いかにも思わせぶりな話し方に、光牙は嫌な予感をめぐらせた。
「まさか…………アンタらはもう静音を――」
「さっき嘆きの森で君らと諍いを起こしていた時、情報伝達用の鳥がきていたろ。あれは静音の居場所が分かったという報告でね。その時、同時にぼくに下されていた命令が――魔獣討伐の邪魔になりそうな君らを足止めしておくことだったわけさ。……今頃は藤堂先生たちが討伐を終えている頃だろうね」
ぎりっと光牙は歯軋りした。
「……急に態度を変えてすんなり説明してくれたのはそういう理由か。結局、俺の方がアンタの計略にまんまとはめられていたわけか」
そうして唾棄するような視線を忠孝に送ると――彼は依然として自尊心の高そうな顔つきのまま言った。
「べつに騙したわけじゃないさ。むしろ優しさと思って欲しい。昔、君は見知らぬ劣勢人獣族の処刑すらできなくて共生特課の研修から放り出された。そんな君が真実を知ったからといって大神静音を処分する気にはなれないだろ? だからこそ、ぼくも藤堂先生もわざわざ君を関わらせないようにしていたんだ」
大人が子供を軽んじて扱うかのように言う忠孝に、光牙の声がたまらず荒立つ。
「あんたは……あんただったら、俺の立場でも静音を殺せるっていうのかよ……!」
そのいきりたった問いかけに、忠孝はきわめて涼しげに答えてみせた。
「もちろんだ。君がいなくなった後、ぼくは共生特課の一員になるためにさまざまな経験を積んだからね。……昨年には実の妹をも処分したよ」
「……樹を……?」
思考を支えている生気といった力がまるで全身から抜けていくように光牙が愕然とつぶやく。
「それがぼくと君の決定的な差ってわけだ。……いっておくが妹は決して自分の運命に絶望したわけじゃない。彼女はぼくに最期を看取ってもらうことを自ら望んだんだ。そしてぼくもまた当然ながら種族の誇りと家族としての愛を抱いたうえで彼女を弔った。そうして最後の瞬間まで……樹は笑っていたよ。我が妹ながら強い心を持っていた。人獣族としての強い心をね」
「……」
なにも言えずにいる光牙に、忠孝は烙印を押すかのようにはっきりと告げた。
「ぼくは未だに軽蔑しているよ、金峰。君は結局、今も逃げているだけなのさ。向かい合わなければいけない現実からな」
低い調子になった声に明らかな敵意を感じると、光牙もまた同様に口を尖らせた。
「……俺はべつにあんたらの考えを否定するつもりはない。ただ絶対に正しいとも思わない。だから人間学校を辞めたんだ。今更、そのことについてとやかく文句を言われる筋合いはない」
「ふん。君はそうやって今も昔もことごとくぼくの期待を裏切ってくれる。せっかくの優れた力を持ちながら寂れた動物園の飼育員として一生を終えるなんて……君の落ちぶれ方は見るに堪えないな」
場の空気が肌にひりつくように険悪に固まる。
そうして今にも殴り合いが始まりそうになった時――突然、屋敷全体が大きく揺れた。
「なんだ……?」




