第四章 魔獣 part3 (動物アレルギー)
…………。
「実をいえば彼女――大神静音は隔離施設に移ってからも劣性人獣族の治療研究を続けていたんだ。藤堂先生の特別な許可のもとでね」
そう教えたのは屋敷に戻ってきた忠孝だった。光牙と琴子は彼の片手に持ったオイル灯の明るさに引き連れられて、暗がりの廊下を進んでいた。おそらくそこらは屋敷全体の奥まった場所であり普段は使用人もあまり足を踏み入れない場所なのだろう、床の隅々にちらほらと埃が塊になって転がっている。
「……おい、どこまで歩くんだ」
言いなりになっていることを嫌って光牙が咎めると、忠孝は通路の一番奥側の部屋の扉を開いた。そこは家具の一つさえ置いてないがらんとした空室であった。無人で空虚な空間。まるでその場だけ時間が止まっているかのように錯覚して、狐につままれた顔で光牙が立ち尽くしていると、忠孝は部屋の中央に移動してその場に身を屈めた。そして、おもむろに床をひっくり返すと――
「わあ、隠し階段なんて――わくわくしますね」
そうして現出した石質の階段に琴子がはしゃぐ傍らで、光牙はそんな気分にはなれず神妙な顔つきになって疑った。
「……ここは?」
「私的な研究室――とでもいうのかな。国には申告していない藤堂先生の所有する隠し施設の一つさ」
とかく英雄という者はなにかしら世界に対して隠し事をしたがるものなのだろう――藤堂総十郎ならばそのような秘密の一つや二つを抱えていてもなんら不思議はない、そう思った光牙は彼の説明に不思議と納得していた。
(それに劣性人獣族の研究ともなれば、ここは最適な場所かもしれない――)
隣の施設が劣性人獣族の処刑場である以上、ここならば様々なデータを集めやすいはずだった。もしかすれば人体実験をしている可能性もあるかもしれない――
狭い階段を降りると、忠孝は勝手を知ったように壁周りのオイルランプに火を灯した。部屋中に宿ったこんもりとした明るさが巣食っていた暗闇を追い払っていく。うっすらと煤けた石壁が浮かび上がり、机や書簡、それから試験器具の類など、いかにも研究室然とした景色が視界に現れた。あたりに漂う湿潤な空気には苔たようなかびの臭いが充満している。お世辞にも清潔な研究室とは呼びがたい。数台置いてある煉瓦調の机にはそれぞれ書類がまばらに乱雑しており、どうやらそこでは整理の概念さえもあまり浸透していないらしかった。
壁際の格子状になった棚を見やると、いくつもの趣味の悪い試験筒が並べてあり、それらの培養液には獣の細切れになった細胞がさまざまに保存されていた。
太陽の光も入らず、またろくに換気もない環境――光牙はたった数秒いるだけで息苦しさと閉塞感をすでに覚えていた。
それでも忠孝はなかばくつろいだように近くの椅子に腰を落とすと、光牙と琴子も同様に座るように合図した。古めかしい金属の音を軋ませて二人がおそるおそる錆付いた椅子に着席する。
「静音は……こんな場所で研究を続けていたってのか?」
忠孝は話を始めた。
「先生は言っていた。彼女の協力のおかげで普通なら十年はかかる研究内容がわずか二年で片付いたと。やはり彼女は先生の見込みどおりの天才だったらしい」
「……だからって、それで治療法を見つけたわけじゃないんだろ」
怒りを含めたように光牙が指摘すると、忠孝は少し間を置いてから答えた。
「確かに劣性人獣族の完璧な治療法というものは未だに見つかっていない。それでも彼女の成果までが零だったわけじゃない。彼女の本当に凄いところは藤堂先生とは別の可能性を見出したことなのさ」
「別の――?」
「治せない症状でも遅らせることはできないかってことさ。藤堂先生が劣性人獣族を遺伝子情報から根本的に治療しようと試みていた中、彼女は劣性人獣族の魔獣化を遅延させることに着眼したんだ。そして、その発案は結果として成功になりつつある……屋敷の中にいる給仕を目にしただろう? 彼女はその遅延法の治験者なんだが通常の劣性人獣族と比べて魔獣化の進行がはるかに遅くなっている――」
そのことには光牙も着目していた。通常、劣性人獣族は有無を言わさずに収容所に搬送されるはずだった。来賓間である屋敷に獣の楔石を埋められた給仕がいることなど、考えられないのである。
(……だがそれは本当だろうか?)
光牙は疑問を抱いた。
「忠孝さん。おかしな話じゃないか。そんなことができたなら、どうして今、静音が魔獣になってるんだ?」
すると机の向かい側で忠孝は青色の瞳を曇らせた。
「彼女はつくづく不運だったんだよ。魔獣化の遅延法を実用的なものにした頃、彼女はすでに深刻な状態に近づいていたんだよ。もはや遅延化なんて意味がないくらいにね。皮肉なものさ。製作者自身である彼女が、その恩恵をまったく受けることができなかったなんてね」
「……そういうことか」
光牙が不満そうに納得すると、忠孝は深刻そうにため息をついた。
「そして、その報われない結果がまずかったんだ。彼女は研究を重ねるうちに劣性人獣族の治療法は決して不可能なことではないと理解していたんだろう――それなのに彼女には無情にもそれを実現する時間が残されていなかったわけだ。察するに、その悔しさは相当なものだったんだろうね。そして彼女は自分の運命に抗おうと……ある規則を破ってしまった」
忠孝は机の引き出しから一冊の分厚い帳簿を取り出すと、それを光牙たちに見えるように机の上に広げた。
「これは……名簿か?」
膨大な数の人名と経歴――そういった情報が紙表に一覧表として纏まっていた。そして上から順々に確認していくと――忠孝のこれから言わんとしていることを横から身を乗り出していた琴子が先に気づいた。
「センパイ、これ……わたしの名前が載ってます……」
彼女の言う通り、資料には確かに神林琴子の名前があった。見れば右端の備考欄に「可能性極めて高し」と朱記されている。
「藤堂先生は社会的地位もあって広い分野に顔が利く。これはその人脈を使って、国内の病院施設から患者の検査結果を可能な限り集めたデータだ。当然、法律に触れる内容だが……まあこの件については特別に国の許可を貰っているらしい」
光牙は訝った。
「なんのために、こんなものを集めたんだ……?」
「琴子さんには申し訳ないが――」
そう断ってから忠孝が指を鳴らすと――彼の肩に掴まっていた小鳥が合図を受けて宙に羽ばたいた。
「へ? いや、ちょっと――」
琴子が椅子から離れてすかさじ後ずさりしたのはその小鳥が彼女の目の前に迫ってきたからだった。慌てて逃げ出そうとした琴子だったが、とはいえ、これだけ狭い密室で逃げ切れるわけもなく――
「い、いやぁぁぁ…………」
そうして動物アレルギーが見事に発症すると、琴子はその場に膝から崩れ落ちて、あっという間にしゃっくりまみれになる――小鳥は彼女のお団子頭に乗っかっると、そんな苦しみは露知らず居心地良さそうに羽根を休めていた。
「おい……大丈夫か?」
光牙が心配して頭上の小鳥を追っ払ってやると、琴子はぜいぜいと息を荒げて地面に毛虫のように転がっていた。部屋に漂っていたシリアスな空気は見事にぶち壊してくれていた。しばらくして呼吸が整うと、琴子はよろよろと立ち上がり、怒り狂ったような形相で顔を真っ赤に叫んだ。
「あのですね! いきなり、なにするんですか!」
一連の出来事をあたかも予期していたことのように眺めていた忠孝を見て、光牙はうっすらと勘付いた。
「まさか……こいつの動物アレルギーのことを?」
「当然、知っていたさ。なにせ彼女の症状は動物アレルギーなんかではないからね」
「へっ――?」
冷や水を顔にかけられたかのように琴子がぱたりと黙る。
(まあ、胡散臭い病気だとは思ってたけどな――)
一方の光牙はたいして驚きはしなかった。ただしゃっくりが出るだけの動物アレルギーなんて聞いたこともなかったからだ。
「大神静音が神林琴子を狙う原因はずばり、それなんだ」
「……どういうことだ?」
忠孝が困惑する光牙から琴子に視線を転じて告げた。
「君は獣滅因子者なんだよ」




