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第四章 魔獣 part2 (人と獣の境界線)

「……なあ。いい加減、顔くらい見せてくれよ。もう帰ってきてるんだろ……?」

 どれだけの時間を待っただろう。少年は一向に開かない扉の前で座り込んでおり、石畳の冷たさをただ感じ続けていた。いつもならばすぐに歓迎してくれる彼女がなにもいわずに自分を拒絶している。そんなことはこれまでに一度もなかった。だからこそ、少年は引き下がるわけにはいかなかった。

「……施設にいくまで、そうして一人でずっと引き篭ってるつもりか」

 怒ったように言うと――部屋の奥で小さく物音がした。気配を消していた彼女がやはり部屋にいたことに少年は安堵した。そうして彼女はゆっくりとした足取りで近づいてくると、扉のすぐ向こう側に立ち止まった。

「おねがい……だれにも見られたくないの……帰って……」

 油断をすればすぐにでも掻き消えそうなか細い声だった。外気の風に晒された蝋燭の灯火のように弱々しい。

 そのことに、少年はますます決意を固めた。

「いやだね、絶対に帰るもんか。おまえが部屋から出てくるまで、俺は朝までだって居座ってやるぞ」

 少年はすっと立ち上がると改めて扉に向かい直した。石質の頑丈な扉――そんなものは壊すことも容易であるし壊してしまっても構わないほどに少年は感情的になっていたが、そうしたところで本当の意味はない。少年は彼女が自分から会ってくれることを望んでいた。

「どうして……帰ってくれないの」

「俺が会いたいからだ」

「どうせ会えなくなるんだよ、わたしたち」

「でも今は会えるんだろ。だったら会っておかないともったいないじゃないか」

 矢継ぎ早に受け応えする少年に、少女は苛立ったように言った。

「光牙にはわからないんだよ、わたしの気持ちなんか」

「そう思うなら話してくれよ。俺にもおまえの考えてることがわかるように――」

 意地悪く言い返すと、部屋の中の少女は耐えかねたように叫んだ。

「だから……帰ってっていってるじゃない!」

 おもわず光牙が立ち上がったのは、彼女のヒステリックな声に対してではなく――部屋の中からガラスの割れる音がしたからだ。おそらく入り口付近の壁にいつもかかっていた姿見の鏡を地面に叩きつけたのだろう。

「おい、大丈夫かよ! 静音――!」

 咄嗟に獣化して扉をぶち抜くと、光牙は思わず瞠目した。

 いつもは几帳面に整っているはずの部屋はひどく散乱していた。それは本棚に敷き詰めてあった書物の類がことごとく地面に打ちつけられていたからだろう。おまけに、その上にはやはり姿見の鏡がぶちまけられていて、もはや床の上に足場はなくなっていた。それら散乱した地面を見下ろして静音が突っ立っている。入り口に背中を向けており、動悸をしているのか、赤毛の長髪からのぞく小さな両肩が激しく揺れていた。

「帰ってっていってるのに……光牙って本当に昔っから言うことをきかないね」

 そう咎められると、光牙はばつの悪そうに答えた。

「俺だって無理矢理入るつもりはなかったさ。けど、おまえが心配で――」

「扉の修理代だって無料じゃないんだよ」

「うぐっ……それは……」

 しどろもどろにうろたえる光牙に――静音はふっと微笑した。

「もういいよ。どうせ隠そうと思っても隠しきれるものじゃないのはわかってるんだから――」

 興醒めしたようにそういって静音がゆっくりと振り返ると――彼女は涙で真っ赤に腫らした目元の上で前髪を片手で押し分けていた。額にある『獣の楔石』を示すために。

「見てよコレ……気持ち悪いでしょ」

 軟質な皮膚にまるで血の色のように暗く濁った緋色の石が半没して埋め込まれている。静音の表情はあたかもおぞましいものを植えつけられてしまったかのようにひどく落ち込んでいた。そのことに苛立って掻き毟ったのだろう、額の周りにはいくつもの爪痕が残っており、うっすらと出血もしている。光牙はいたたまれない感情に苛まれると、手の平全体でそれらを優しく覆った。

「そんなことはない。静音は……いつも通りじゃないか」

 それから光牙は彼女をベッドに座らせると――傍らにあった救急道具を取り出して額にある傷口の消毒をして、簡単な手当てを施した。また近くの用具室から掃除道具を持ち出して部屋に散ったガラスの残骸を片付け、乱雑に散らばった書物も順番はめちゃくちゃであるもののできる限り元の状態に近くなるように棚に戻しておいた。部屋が一通りの秩序と体裁を保ったのを確認して、光牙は机の椅子を引きずって、静音の目の前に座った。

「ねえ……。光牙はコレがなんのためにある物か知らないでしょ」

 静音がうつむいたままの姿勢で小さく唇を震わせる。光牙は慎重に答えた。

「……目印なんだろ。なにかあった時に……判別できるように――」

 劣性という言葉は使わないようにして光牙が答えると、静音は小さく首を横に振った。

「そうじゃないの。これはね、人と獣の境界線なの――」

 先端のクセ毛を指先に絡め取りながら静音が告げる。光牙はあまり良い予感はしていなかった。彼女はたとえばつまらない文献の翻読を課題として設けられた時など、嫌なことを強要されている時にそのような仕草をするからだ。

「境界線って……どういう意味だよ」

 その問いかけに静音は今度ははっきりと答えた。

「この石の中にはね、劇薬が入ってるの」

「毒だって……?」

 意表をつかれたように光牙がぽつりとつぶやくと、静音はそのまま続けた。

「つまり、わたしたちは自分の好きな時に選択できるということ。この石のおかげで……わたしたちは最後まで理性を失わずに人間として生きられるの」

「……ふざけるなよ」

 神秘めいた輝きを発する石を睨みつけて、光牙は静かに憤慨した。

「そんなこと……自害しろっていうのかよ――!」

 たちまちに彼の顔つきが獣に変わっていくと、静音はその様子を羨ましそうに眺めた。

「いいよね、光牙は。そういう短気な性格でもちゃんと理性が働いてくれるんだから――」

 静音の言葉ではっとして我に返った光牙はすぐさま元の人間の姿へと戻った。

「……わるい。そういうつもりじゃなかったんだ」

 劣性人獣族である者を前にして、あまりある愚行を犯したことに光牙は激しく自責した。ただし当の静音はたいして気にしていないらしく――

「わたし――こんなことがもう起きないようにしたかった」

「静音……」

 どこか置いてけぼりにされたかのように光牙がぽつりとつぶやく。書棚にある山ほどの本。彼女はそれらのすべてに目を通していたのだろう――

 彼女は音もなく立ち上がると重苦しくよどんだ部屋の空気を追い出すように窓を開けて、代わりに外気の新しい風を取り込んだ。

「一度でいいから見てみたかったな、海……」

 光牙は知っていた。かねてより彼女が望んでいることを。彼女の机に飾ってある一枚の写真――青い壮大な水平線を仰ぐ誰とも知らない子供の写真がそのことを物語っている。その写真と似た構図で前傾になった彼女は窓の外の夜空になにかを見つけようとしているようだった。

「ねえ、光牙。わたしがここを去る日になったら……その時に聞いて欲しいことがあるの」

 風の形をそのまま表現したかのように細い赤毛が緩やかに揺れると、彼女は緋色に輝く石の下で普段と変わらない日常の笑みを浮かべた。

「もちろん、なんでも聞くさ」

 そう頷いて――それから一週間が過ぎた頃、少年は別れを迎えることになる……


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