第三章 脱走劇 part5 (脱走の果てに)
「えへへ。センパイ、気持ち良いです~」
琴子がほおずりをしてもふもふとした銀色の毛皮の感触を楽しんでいると、彼女をおぶっている光牙はたまらなく嫌悪感を覚えて、
「やめんか! おぞましい!」
背筋をぶるっと震わせて突っ込んだ。ただ背負っているだけでも、琴子はあいかわらずそのような調子で騒ぐので、彼はどうにも疲弊を感じていた。
屋敷を逃走してから随分と時間が経っていた。森を覆う枝葉の天蓋から覗く月は先ほど空のてっぺんにいたあたりから少し西に傾いている。夜の冷え込んだ空気を案じて、光牙は革のジャケットや革靴を琴子の防寒に着させている。獣化した形態では寒さは大して気にならないからだ。
「このあたりって本当に樹海だったんですね」
琴子が呑気そうに呟く。
彼女の言う通り、周囲には幾重にも林立する樹木が群がり、うっすらと霧も立ち込めている。土地勘のない者であれば、到底先に進むことはできない。
「ここら一帯は嘆きの森っていうんだ」
「嘆き――?」
琴子が訊き返すと、光牙はさらに答えた。
「劣勢人獣族たちの嘆きだ。この土地に一度訪れたが最後、彼らはもう二度と外の世界に出ることがないからな」
説明を受けた琴子は気まずそうに口を閉ざした。
天然の牢獄と呼んでも良いだろう、樹海はうっかりと人間が侵入しないように人里からうんと離れた深い幽谷の奥地に茂っている。万が一、迷い込んでしまえばかなりの確率で助かりはしないだろう。だからこそ劣性人獣族の隔離施設を設けるのに適した土地だった。
ただし人獣族の光牙には関係なかった。彼はかつて訪れたこともあり、道を知っている。たちはだかる岩壁を跳躍し、地面にはびこる大木の根っこを次々と踏み越え、どれだけ傾斜な道であろうと俊敏に疾走する。ただの人間では諦めてしまうような経路が正解の道である以上、そこはやはり人獣族の土地であった。
そうして二人がようやく樹海の端っこに抜け出すと――
「わっ――! どうして――?!」
光牙の耳元で琴子がびっくりしたように叫んだ。
夜空を背負って、金髪の男が待ち構えていたからだ。黒ずくめの格好に獣の翼を生やし、広陵とした平野の上からじっと二人を見下ろしている。よく観察すると彼の肩に数羽の小鳥がとまっていた。夜鷹だろうか――男が豆粒状の餌を指先でやると、小鳥はちいさな嘴でついばみ、それから満足したように鳴き声をあげて、光牙たちの頭上を飛び越えて森の方へと羽ばたいていった。
やがて鳥たちの姿が闇に紛れるのを見届けると、男はゆっくりと地面の草むらに舞い降りた。
「森一帯の監視を彼らに任せていてね。君らが抜け出したことはとっくに分かっていたわけだ。今朝にも忠告しただろう。逃げようとしても無駄だって――」
「……ずいぶんともったいぶった登場だな……忠孝さん」
光牙がそう呼ぶと、忠孝は身に纏った黒衣の上で昔の面影の残った凛々しい目つきを険悪そうに歪めた。
「金峰か……聞くところによれば藤堂先生とやりあったそうじゃないか。……その分じゃ激しい戦いだったようだね、まだ傷跡も残ってるようだ――」
こめかみにある腫れ傷に気づいて忠孝が告げると、光牙は恨みを篭めたように背後に視線を送った。
「……これは別件でやられたモンだけどな」
「あはは。なんのことやらですぅ――」
ちらりと見やると琴子はそっぽを向いてとぼけていた。
事情を知らない忠孝は首を少し傾げてから、二人のやりとりに構わずに話を続けた。
「よく、おめおめとこの土地に顔を出せたものだね。二度と人獣族の問題には関わらないものだと思っていたのに」
「先にけしかけてきたのはそっちだろう。そんな翼があるくせにバイクで追跡なんて趣味の悪い真似しやがって」
そう光牙が吐き捨てると、忠孝はすっと指を向けた。
「せめてもの情けだよ。その娘を黙って置いていくなら見逃してやってもいい」
びくりと琴子が体を震わせる。その感触を背中に覚えて、光牙は眉を釣り上げた。
「どうしてこの子に執着する? いったい、目的はなんなんだ」
「保護するためさ。君は先生から聞いているんじゃないのかな」
「……静音が狙っているのか?」
光牙は自らで用意しておいた憶測を口にすると、忠孝はそのことが正解であるかのようにうっすらと笑みを浮かべた。
(あの日、静音が動物園に現れたのは、やっぱり――)
琴子を乗せた園長のバイクが追い回されていた記憶を思い返して、光牙は過去を訝った。琴子の顔をちらりと見やると、彼女はぎゅっと力強く肩を握った。
「さてと。お喋りをしている暇はない。いうことを聞かないなら無理矢理に従ってもらうしかないな……」
詰襟から留め具を外していき――上半身の裸体をむき出しにすると、忠孝は全身を震わせて獣化を進めた。瞳が黄金色に輝き出し、膨らんだ手の平に傲岸な鉤爪が成長していく。中でももっとも顕著な変化は鼻頭から顎までを覆うようにして硬質の尖った嘴が現出していくことだった。そうして全体的に上品そうな漆茶の毛並みが鮮やかに生え揃うと、彼はあたかも神話に出てくるような美しい鳥獣へと変貌を遂げた。
(本気ってわけか――)
光牙が胸中で舌打ちすると、琴子はこんなことを口にした。
「なんていうか……あんな覆面レスラーってザラにいそうですね」
どうやら美麗な姿も琴子の幼稚な発想力にかかれば陳腐なものでしかなかった。そのことに光牙は笑った。
「へへ。ちがいねえな……」
明らかに怒りを感じたように忠孝が眉をひそめる。
「そうやって悠長にしていられるのも今のうちだよ――」
舞い上がった羽毛のようにふわりと宙に浮かぶと、忠孝は翼を機敏にためかせて――まるで弾き出された銃弾のごとく前方に飛び出した。突然の攻撃に、光牙は背負っている琴子を庇うようにしてなんとか咄嗟に身をひるがえした。そして、その勢いのまま光牙たちの背後に立ち並ぶ森林に突っ込んだ忠孝は――
「う、ウッソォ……」
琴子が口を呆けたのは、彼がその勢いのまま三本もの樹木を根元からへし折っていたからだ。支えを失った大木が周囲の葉々をざわめかせて地面に倒れこむと、軽い地響きと共に細かく砂埃が舞い上がった。さらに被害はそれだけではなかった。きょとんとしている琴子は気づいていないが――光牙は自分の胸元にできた爪痕を見やった。どうやら今の一瞬の交錯のうちに切り裂かれていたらしく、銀色の毛皮がずるりとむけて血がぼたぼたと滴っていた。
(さすが猛禽類のエリート人獣族……。あいかわらずの強さってわけか――)
そう毒づきながら、光牙は口にして改めた。
「それでも対抗できないわけじゃないがな……」
琴子を地面に降ろして自分の後ろに押しやると光牙は自由になった両腕を身構えた。そして意識的に胸部の獣化を深めて――傷そのものの回復とまではいかないが――出血だけは確実に止めた。
人獣族が人間にも半獣にも変身できる原理は細胞制御である。人獣族の力はそのレベルに依存するといって良い。細胞制御において最も困難なことは獣化と理性を常に釣り合った両天秤の状態で保つことであり、傷口を塞ぐといった局所的獣化は中でも最も繊細な技術を要する。獣化した細胞をさらに獣化させて擬似的に傷口を塞いでいるわけだから、それだけの深い獣化に耐えうる理性を保てる者でなくてはならない。逆に、そういった才能のない者がいくら局所的獣化を試みても実現はしない。理性を保てないことを体が本能的に察知してしまい勝手にブレーキをかけるからだ。
劣性人獣族とは十五歳までに本能的なブレーキを備えられなかった者を指す言葉である。彼らは自らの理性を安定のうちに留めておく感度系が致命的に喪失しているから、やがて細胞が暴走してしまい魔獣と化してしまう。
ともかく――優性人獣族の中でも取り分け素養のある光牙はそうして忠孝を迎え撃つ準備をしたわけである。
「いいか、俺から決して離れるなよ」
「は、はいぃ……」
背後に琴子をかくまうと――地表すれすれを浮遊するようにして、忠孝が暗闇からぬっと姿を見せた。
「彼女を降ろしてどうするつもりだ。そんなことをすれば次の攻撃をかわすことができないぞ――!」
またしても翼を機敏に上下に揺らすと――忠孝は先ほどと同様にして体を水平に滑空させて襲い掛かった。
だがそれは四肢が自由になった光牙を圧倒するほどのものではなかった。
「ぬるいんだよ! 同じ攻撃なんてなッ――!」
光牙は前方の虚空に身を投げ出すと体を半分ほど捻転させて、滑空する忠孝を側面斜め上から蹴り落した。
「わぁぁぁ! 決まった! 先輩の殺人ソバット!」
光牙の見事な返しに、熱狂したように琴子が叫ぶ。それは全国にも動画になって配信されている映像そのものであった。ただし、威力はレオの時とは比較にならない。車の衝突するようなものすごい衝撃音が響くと――側方の地面に、まるで交通事故のあった車輪跡のような痕跡が残り、土のえぐれ返った果てに忠孝が転倒していた。
忠孝はしばらくうずくまった後、むくりと起き上るとなにごともなかったかのように両翼をはばたかせた。また、そうして作り出した風圧で体中の土汚れをはたき落としていく。しかし、出血までは風で拭えなかった。光牙の蹴撃に口の中を切ったらしく、クチバシのふちにどろっとした赤い液体を垂らしている。爪の先端で血を拭き取ると、忠孝は不機嫌そうに言った。
「……どうやら腕が鈍ったってわけじゃないようだね」
「あまり見くびるなよ。そっちに加減するつもりがないなら、俺だってさすがに本気になるさ」
「まったく……この忙しい時にわずらわしい奴だ。こっちは早く戻りたいっていうのに……」
空中に浮いた忠孝が凝りをほぐすように首を鳴らす。彼が再び態勢を整える前に、光牙は尋ねた。
「忠孝さん。いったい、なにが起きてるっていうんだ。もしアンタが事情を話してくれるなら、俺だって手荒な真似はしたくない――」
その言葉に忠孝は鋭い半眼になって、くぐもった声で恨みを篭めるように告げた。
「……ふざけないでくれよ。共生特課の道を諦めた裏切り者の君に事情なんか話すわけがないだろう――」
「だろうな――」
そうして光牙が観念したように頷き、再び争いを始めようと二人が身構えた時だった。
突如として彼らの戦いを中断させたのは、樹海とは逆の平野の空から飛来した一羽の小鳥だった。それはいきりたつ忠孝の肩にとまると、なにやら小声で報告をして、憤怒に満ちていた忠孝の表情をみるみるうちに曇らせた。
隙だらけになった様子を見て、琴子が提案した。
「センパイ、今のうちに逃げちゃうっていうのは――?」
「ばかいえ。制空権を持つ相手に、どうやって逃げるってんだよ。それより……なにか様子が変だ――」
光牙は警戒しながら忠孝の様子を注意深く観察した。
いつもは余裕めいている彼がどうやら憔悴しきった顔になっている。そうしてさらに戦意までも失ったらしい。忠孝は自らの獣化を鎮めて背中の翼以外を人間の姿に戻してしまった。それから光牙の真正面にゆっくりと舞い降りると、あたかも降参したかのように言った。
「金峰。事情を知りたいなら、いくらでも話してやる。だから今はぼくの言う通りに従ってくれ。今すぐその子を屋敷に戻して欲しい」
「急に手の平を返したように……今更、そんな胡散臭い言葉を信用すると思ってるのか?」
「……今まで乱暴な対応をしたことは認める。だがそれは……君を思ってのことだったんだ。分かってくれ」
「ふざけるなよ。勝手なことばかりいいやがって。だったら、どうして最初からそう説明しなかった――」
憤る光牙に、忠孝は哀れむような視線を送った。
「藤堂先生は……君を巻き込みたくなかったんだよ。その気持ちはぼくだって同じだ……」
「俺を? どういうことだ」
「もしもぼくの言葉が信用できないなら、君も一緒に屋敷まで同行すればいいだろう。それなら問題ないはずだ」
忠孝の提案に、光牙は少し考え込んだようにして、
(……落とし所だな)
そう結論づけた。
実のところ、光牙にはそもそも琴子が保護されているということは始めから分かりきっていたのである。それにも関わらず琴子を屋敷から連れ出して脱走するような茶番を仕掛けたのは――
「ちゃんと説明してくれよ。その子を保護する理由も、静音が逃げ出した事情も……。アンタの知るすべてをな」
「……分かっているさ。元々は――藤堂先生が君に正体をばらした時点でほとんど諦めていたことだったからね」
このような結末になることをひそかに目論んでいたからだった。光牙は自らの計略が概ねうまくいったことに満足すると、傍らで不安そうにしている琴子のお団子頭にぽんっと手を置いた。
「心配するな。保護っていうのは、たぶんホントの話だ。もうしばらくはさっきの屋敷で辛抱してくれ。もし、なにかあれば……今度は俺もいるからよ。どうにかするさ」




