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第三章 脱走劇 part3 (風呂あがりの不審者)

 猫脚の浴槽のまわりには湿った湯気が充満している。琴子は湯船に顔を沈めて鼻の下まで浸かっていた。濡れた黒髪が水面に漂うのを眺めながら、ぶくぶくと不満そうに空気の泡を吐き出している。実のところ、彼女は相当に苛立っていた。本当ならば今頃は動物と戯れる豪華な日々を過ごしていたはずが、貴重な休日の四日間は孤独と退屈だけで蝕まれてしまった。ほとんど計画を台無しにされたのだから機嫌を損ねるのも無理はないことだった。

(もしかしたらホントに誘拐じゃない……?)

 少し楽観的ではあるが、その可能性を完全には否定できなかった。はたして、これだけ豪勢な屋敷を所有している者が金目的の誘拐などするものだろうか。さらにいえば、普通の誘拐犯であれば人質に対して三食寝床のおまけに風呂付の待遇など与えはしない。せいぜい縄にでもひっくるめて、死に絶えない程度の冷や飯を与えるくらいの扱いが妥当なところだ。

(そうだとしても、いつになったら帰してくれるんだか。いくらなんでも理不尽過ぎです――)

 肝心の金髪の男はといえば、あいかわらずどこかに出かけている。それでも琴子が屋敷を抜け出そうとする度に姿を現すものだから、近くにはいるのだろう。いったい、なにをしているのかは琴子にも皆目見当がつかない。

「はあ。せっかくの夏休みが……」

 そう琴子が改めて嘆息した時である。

(えっ――?)

 琴子が違和感を覚えたのは、突然、寝室の方からごつんと鈍い物音がしたからだった。

 たちまちに、背筋に悪寒が走る。それまで無許可で入室する者は誰一人いなかった。

 琴子はまるで石像になったかのように体中の動きを静止させると、息を潜めて全神経を耳に集中させた。両手を添えて注意深く隣の音を拾いにかかると――やはり物音はかすかに聞こえる。それは間違いなく靴が床を踏み鳴らす音だった。

 どうして扉の鍵を閉めておかなかったのだろう――琴子は深く後悔した。もしかすれば無意識のうちに自分は本当に保護されているとすっかり油断していたのかもしれない。人を騙す時に最も有効な手段は一度信頼を得ておいて、猜疑心を麻痺させてから確実に突き落とすことだ。そう考えると琴子はまんまと術中にひっかかってしまったことになる。いくらなんでも迂闊過ぎた自分に胸のうちで厳しく叱責する。

 湯船の波立った水面が落ち着いた頃、琴子は音を出さないように浴槽を慎重に抜け出した。衣類を着るかどうか悩んだが、とりあえずバスタオルをさっと巻きつけるだけに留めておいた。物音を立てたくなかったのだ。次に武器になりそうなものを浴室に求めたが、さしあたって頼りになりそうな物はなくて軽く落胆する。

 それから針の穴に糸を通すほどに神経を張り巡らせて、寝室に繋がる木製の扉をわずかにだけ押しやって顔を覗かせると――室内には一人の男が立っていた。琴子側には背中を向ける格好になっていて、顔は見えない。壁で揺らめくオイルランプに闇の陰影をくっきりとつけられて、向こう側の壁に掛かった人獣族の油絵に魅入っているようだった。革のジャケットにニット帽を深々と被りこんでいて、いかにも怪しい。

(そういえば――)

 その時、琴子が思い出したのは、扉を抜け出てすぐの物置棚に置いてある神々しい女神の黄金像だった。男に気づかれないように壁伝いに移動すると――琴子は右手にずしりとした確かな重みを感じながら、いかにも凶器になりうるそれを装備した。

(……この重さ。死んじゃったりしないよね……?)

 一瞬、そんな躊躇もしたが――

(いや、勝手に乙女の部屋に入る不埒者。処分せずにはいられない――)

 あっさりと考えを改めて、覚悟を決めた。

 不幸中の幸いともいうべきか、部屋に敷いてある肉厚な絨毯のおかげで足音は容易に消せた。一歩、また一歩――そうして男の真後ろまで接近したところで、琴子は凶器を構えた。

「なっ――!」

 ようやく気配に察知づいたのか――振り返った男が面食らったような声をあげる。

 だが琴子の不意打ちはすでに実行されていた。

「遅い!」

 裏返ったような琴子の叫びと共に繰り出されたそれは足のかかとを軸とした激しい回転運動だった。あたかも砲丸投げの要領でふんだんに遠心力を上乗せした女神像のヘッドバットが不審者のこめかみに容赦なく炸裂する。

「のがぁぁぁッッッ――?!」

 とてつもなく鈍い音を響かせながら男がばったりと地面に倒れる。おそらくものすごい衝撃だったのだろう、殴打された頭を抱えながら地面の上を四方八方にばたばたと悶絶している。

「ふふ。これぞ正義の一槌なり――」

 苦しむ悪党を見下ろしながら勝ち誇ったように微笑する琴子。そうして女神像を掲げて勝利のポーズを決めると――

 はたとして琴子の目が泳いだ。野性味溢れる鋭利な目つき。仰向けになった男の顔に琴子は見覚えがあったのだ。

「あれ…………もしかして…………センパイ……?」

「……お、お、オマエってやつはぁぁぁ――――」

 地面に這いつくばったまま、恨めしげな声をあげる光牙。顔面右のこめかみからだらだらと流血している。琴子は自分の持つ彫像に同じ色の血が染み付いていることに気づくと、それをさっと背後に隠した。


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