第三章 脱走劇 part2 (人獣族の男)
悔しいことにいつも食事は美味しかった。温かい魚介スープには木の実を練りこんだ焼き立てのブレッドが添えられ、コクの強い豚の詰物に舌触りの良いふんわりとした卵料理、それから見たこともないようなパイ生地の食べ物やらが皿一杯に彩られる。そして、それらを一通り食べ終えると、頃合を見計らったかのようにお口直しのデザートのおまけつき。新鮮な果物をいくつも切り分けた程よい酸味と甘味を楽しみ終えると、舌も腹も文句なしに満足感に包まれてしまうのだった。
ただ琴子には一つだけ不服な点があった。それは絶えず流れている寂しい空虚感だ。本来なら数十人規模で囲めるであろう広さの食卓に、琴子と金髪の男と給仕の三人しかいない。それと一応、彼の肩にたえず停まっている小鳥が一匹。せめて話でもしてくれるのならば気分もいくらか晴れるのだが、
「あのう。いい加減、なにか話してくれませんか?」
やはり問いかけに返事はない。彼らは規則でも守っているかのように寡黙であることを貫き通していた。男は食後の沸き立つ紅茶を口に含み、ただ優雅そうに味わっているだけ。テーブルの横に立つ給仕は部屋の隅っこを呆然と見つめ続けている。小鳥はもちろん論外として――琴子と会話を試みる者などはだれもいなかった。
「……わたし、未だにあなたの名前すら知らないんですけど」
苛立った琴子が銀食器をフォークでぺしぺしと叩きながら口を尖らせると、男はその金属音を耳障りに思ったらしい。細長い眉根を釣り上げて、
「はしたないな。君も良い歳のお嬢さんなんだから、やめなよ」
それだけ注意した。琴子のこめかみに血管がぷくっと浮きあがる。
「へえぇぇ……。問答無用で誘拐することが果たして行儀の良い大人のすることなんですかねぇ……」
不満感を募らせながらますます食器の音を強める琴子を見かねて、彼は呆れたように口を動かした。
「何度も説明しただろう。これは誘拐ではなく保護だって」
「だから、そのへんの事情を少しでも詳しく聞かせて欲しいんですけど……」
恨めしげに言う琴子に、男は綺麗な所作で首を横に振った。
「特秘事項で話せないのさ。ただし君のご両親からの合意はもらってる。だから心配はいらない」
その説明は余計に琴子の怒りを買うだけだった。彼女からすれば、そんな言葉はもう聞き飽きていた。まるでいたちごっこである。ちゃんとした説明がない以上、琴子にとっては彼らの保護は嘘偽りでしかない。
「そんな言葉、今の状況でわたしが信じると思います? あなた、ホントは身代金目当ての誘拐犯なんじゃないですか?」
富豪である神林家の娘になった自分なら、そういう事態だって十分にありえるのでは。琴子はそう思っていた。
「これだって何度も見せているはずだけどな――」
彼が懐から取り出したのは手帳だった。黒い表紙に金色の星。一般的に警察手帳と呼ばれるものだ。だが琴子はそれにすら冷ややかな視線を送った。
「そんなもの、どうせ偽造しただけです。クレバーな犯罪者なら、それくらいの工作活動は用意周到にやるはずですからね」
噛み付く琴子。男はその態度に少しうんざりとしたような表情を浮かべてから、肩をすくめて告げた。
「まあ、いずれはっきり分かることさ。最終的に家には無事に帰すんだ。そうすれば結果的に信じてもらえることになるだろう?」
「べつに悪意がないっていうなら、事情くらい教えてくれても良いと思いますけど……駄目なんですか?」
そのことを肯定するかのように男は無言で食事を続けた。どうやら質問は放置されてしまったらしい。琴子は恨めしげに男のことを睨みつけた。
男はなにかしらの計略を企てている。それは間違いなかった。だが、どうしたってその口を割ることはできないだろう。琴子はそういう予感もしていた。彼は理知的で嘘のうまそうな男だった。綺麗な振る舞いや表情に、そういった余裕が滲み出ている。おそらく、その気になればどこでもポーカーフェイスを気取れるのだろう。いくら正攻法の詰問をしたところで綺麗にかわされるだけだ。
彼がすっと手をあげて示すと、それまで人形のようにぴたりと静止していた給仕が途端に動き出して、空いたカップに追加の紅茶を注いだ。その一連の動作は美しく洗練されていて、機嫌を損ねていた琴子ですら不覚にも見惚れるほどだった。まるで映画を観ている気分にさえなった。小さく頭を下げて壁際に戻る給仕を見届けてから、彼は小さじを掴んで音もなくわずかばかりの砂糖をかき混ぜる。
すっかりと自分の世界に浸る彼らを見て、琴子はため息をついた。
「これでもう三日も無断欠勤……もしわたしが動物園で働けなくなったら、責任とってくれるんですかねぇ……」
どうせ無視されると思って独り言のようにぼやいた琴子だったが、どうやらそれは効果的な内容だったらしい。男がめずらしく応対してくれた。
「心配はいらない。君の職場にも連絡はしている。それに、あそこには彼がいるだろう」
琴子ははっとした。思い当たる人物は一人しかいない。頭の中にふてくされたような姿を思い浮かべて、琴子が確認する。
「センパイ――じゃなくて、ええと……金峰センパイのこと?」
うろ覚え気味だった名前をなんとか思い出して口にすると、男はすらっとした細顎を下に頷かせた。ブロンドの髪が美しく揺れる。
「当事者だった彼ならば君に否がないことくらい、説明しているはずだろう」
なにやら光牙のことまで知った風な男に、琴子はさらに尋ねた。
「あなたも人獣族なら……もしかしてセンパイと知り合いだったんですか――?」
その言葉に男は明らかになにか知っている風に眉をひそめた。
だが彼はなにも答えなかった。それは間の悪いことに、見計らったかのように壁に掛かった古びた時計が一時間おきの時報をちょうど知らせたからだ。盤面と振り子の間のスペースで、小さなブリキの人形達が楽器をぴこぴこと演奏を始めている。そのせいで男はなにかしらの用事を思い出したのかもしれない。淹れ立ての紅茶を残したまま、速やかに席を立ち上がった。
「あ、待ってくださいよ――!」
琴子が慌てて引き止めると、
「もう脱走なんて馬鹿な考えは起こさないように。どの道、ここは樹海の奥地。外に抜け出したところで君の脚では迷い果てた挙句、のたれ死ぬだけだからね――」
男はそれだけ言い残して立ち去ってしまった。給仕の女にばっと視線を移しても、彼女はやはり琴子のことなど意にも介していない。男がいなくなるなり、待ち侘びていたかのように食器をすみやかに片付け始めている。琴子はしばらく彼女の横顔を眺めていた。細面の抜けるような白い肌。その額に埋められた赤い石にぼんやりと見覚えがあるのに、それをどこで見たのか琴子はどうしても思い出せなかった。




