表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/52

第三章 脱走劇 part1 (見知らぬ屋敷)

 彼女を呼び覚ましたのは小鳥のさえずりだった。シーツをはいで半身を起こすと、夏だというのに空気はずいぶんと冷えこんでいた。朝の肌寒さが露出した肩肌を震わせると、たまらず枕元の飾り板にかけていたカーデガンを羽織る。暖炉に火を灯すほどの寒さではない。吹き抜けの窓からうっすらと朝陽がさしこんでおり、部屋の中で光がまばらに輝いているのは家具の台座や飾りに銀や真鍮がことごとく使われているからだった。フローリングの床には見慣れない民族的な模様の絨毯が敷かれていて、汚れ一つない白壁には西欧絵画展にあるような巨大な額縁の油絵が飾ってある。それは美しく精緻な絵だが内容は悲惨だ。戦前の人獣族差別が最も過酷だった時代を描いた物だろう。四肢を拘束されて人間に蹂躙される人獣族の光景が子細に描いてある。

 そこは全体的に一昔前の文明をしたような部屋だった。天井には照明機器すらなく壁にオイルランプの燭台が数点設置してあるだけ。他には本棚と工芸品があるだけで電化製品といった現代的な物はまるで皆無。そういう内装を喜ぶ人もいるかもしれないが、彼女にとってはなんの娯楽もない退屈を象徴した部屋でしかない。

(ここは――どこらへんなんだろ……)

 着慣れない絹の高級な生地感にこそばゆい違和感を覚えながら、ベッドの上でおぼろげに思索にふける。

 見知らぬ土地の怪しげな屋敷に誘拐されてから、もう三日も経つ。所持品の携帯電話は肝心の電波が届いておらず、使い物にならない。加えて、電池まで底を尽きかけていることに彼女はいっそう落ち込んだ。電化製品がないということは、当然、部屋にはコンセントの類も見当たらない。どうやらそこは人里からずいぶんと離れた場所にあるらしいかった

 やがて眠気が晴れてくると、彼女は習慣じみたように鏡面台に座り、だらんとした黒髪を結い上げて頭頂部に小さく団子を作った。少しでも身長が高く見えるようになれば良い。そういう気持ちで始めた髪形だ。それから、こわばった顔の筋肉をほぐすように鏡に映る自分の表情をいくらか変化させていき、ひとしきり落ち着いたところで、彼女は自分自身に言い聞かすようにつぶやいた。

「いいわね、琴子。今日こそは逃げ出してやるんだから……」

 覚悟を決めた彼女の行動は素早かった。ベッドの大きなクッションを持ち出して、部屋のガラス窓から庭へとひらりと躍り出る。広い庭で、石垣の外壁に向かうまでに花壇がいくらかあるような場所だ。彼女は周囲が無人であることを確認すると、地面の草を静かに踏みつけながら慎重に移動した。目をつけていたのは外壁近くに生えている樫の木だ。その木陰まで到着すると、琴子はするすると樹上まで木登りをこなした。片手でも割と楽に登れたのは太く立派な樹木だったからだ。そうして彼女は木の葉に囲まれた枝先から、じっくりと階下の景色を眺めた。具体的には自分のいる位置より少し離れた外壁の向こう側にある地面を凝視している。目測の距離にして数メートルといったところだろう、全力で飛べば越えられない距離ではない。

(……足から着地できれば、きっと大丈夫よね……)

 冷や汗を垂らして、ごくりと喉を鳴らす。もし体勢が崩れても、いざとなれば緩衝材のクッションを下敷きにすれば良い――

 それだけ考えると、琴子はあえてそれ以上のことを想像しないようにした。余計な躊躇が覚悟を鈍らせかねないと思ったからだ。もしくは彼女の逃げ出したいという気持ちがなによりも優先したのかもしれない。かなりの楽観的な考えに身を下す覚悟を決めると、彼女は両脚に力を篭めて、命綱となるクッションをぎゅっと握り締めた。

「よし、これで――――」

「いけるはずないだろ。常識的に考えて」

「わっ!」

 背後からの突然の声にたまらず琴子が身をそらせると、全身を支えていた繊細なバランスはあっさりと崩れていた。慌てて木枝に留まろうと必死に腕を振り回すが、重心のずれ具合はもはや致命的な大きさとなっていたらしい。懸命な努力も虚しく、彼女の小柄な体はいとも容易く虚空に放り出されていた。あとは……重力法則に従うだけである。

「き、きゃあああぁぁぁぁぁッッ――――――」

 そうしてまっさかさまに落ち始めて――すぐさま彼女の悲鳴は鳴り止んだ。

「――――あれ……?」

 体のどこにも痛みはなかった。琴子がおそるおそる目を開けると、どうやら自分の体は抱きかかえられていたらしい。それも空中で。

「あいかわらずお転婆だな、君は。お願いだから無茶な真似はせずに大人しく部屋にいて欲しいんだけども……」

 目と鼻の先でしみじみとぼやく男を、琴子はまじまじと凝視した。

 風になびく金髪の柔らかいブロンドに透き通った青眼は、ほとんど美青年と呼んで良い。全身を覆う詰襟の黒い外套を纏っていて――最も特徴的なのは、背中から生やしている翼だ。上質そうな毛並みをした鳥の翼をゆっくりと揺らして下降している。そうして琴子を無事に地上へ降ろすと、どのような構造になっているのか、彼は自分の身長ほどもある大きさの両翼を小さく折り畳んで縮ませていき、すべて外套の下に収納してしまった。どうやら男は人獣族らしかった。

「……君、やっぱり重いな」

「し、失礼な! わたし、一応、平均体重より軽いんです!」

 いきなりの無礼な言葉に琴子がすかさず腹を立てるが、男はほとんど無関心といったようにそっぽを向いて空を仰いだ。彼の視線に応じたかのように一羽の小鳥が羽ばたいてくると、それはまるで定位置のようにして彼の肩で羽根を休めた。白黒模様の見たことのない品種である。

 くるりと振り返ると、男は何事もなかったかのように告げた。

「朝食の準備ができているよ。たぶん、お腹が空いているんだろう?」

 それが現金な態度だとは分かっていたが――確かな空腹を思い出した琴子は口の中にじんわりと涎を溜め込むと、気を取り直して食間へと向かうことにした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ