第二章 止まった時間 part6 (海を眺めて)
海岸線の湿った潮風を浴びながら光牙が単車を気持ちよく走らせていると、急に後部座席に乗る琴子が合図をするように胴体を軽く叩いた。なにかを叫んでいるようだが、ヘルメットのこもった中では唸るような風の音とエンジンのけたたましい音だけが耳に反響してきて、よく聞き取れなかった。しばらく進んだところに海水浴場と繋がった駐車場を見つけると、光牙は立ち寄って運転を中断した。
「どうしたんだ? いったい――」
そう問いかけた時には、彼女の目的はすでに明らかになっていた。琴子は光牙には目もくれず、飛び出した鉄砲玉のようになって海に面した木柵まですばやく駆け寄っていた。
「センパイ! 海ですよ、うみ! みーうー! わー、綺麗ですね!」
彼女の言う通り、確かに海岸には絶景が広がっていた。白い砂浜に広大な水平線。赤い夕陽はとっぷりと沈みかけていて、水面には薄絹のように美しい煌きが漂っている。なだらかに満ち引きする波の音はひっそりと夜の静寂を招き呼ぼうとしていた。海の家の従業員たちは店を畳み始めていて、浜辺で夕景色を眺める若い男女らもぼちぼちと引き上げようとしていた。
手すりの前で小さく飛び跳ねる彼女の背後に立つと、光牙は腕を組んだ仏頂面で不機嫌そうにつぶやいた。
「おい……。こんなことでいちいち呼び止めたのか? 俺はさっさと帰らないと仕事が残ってるんだが――――」
「なにいってるんですか! こんな美しいみーうーを前にして、なんたる情緒のなさ! 同じ日本人として恥ずかしい! 仕事はそりゃあ大事かもしれませんが――まあまあほらほらそれはさておき、目ん玉ひん剥いてとりあえずよく見て下さいよ。そうすればセンパイの荒れた性格も治るかもしれませんし」
「オマエは本当にずけずけと物を言う奴だな……もう呆れてなんもいえん……」
光牙がふっとため息を漏らす。ただ、不本意なことに彼女のいわんとしていることもわからなくはなかった。大自然を前にしていると、どうにも毒気を溜めようとしてもすっかりと抜けてしまう。波の揺らめきと潮の香りが妙に気分を落ち着かせてくれていた。
「……ちょっとだけ浜辺にいってみるか」
ふとそんなことを提案すると、琴子はぱあっと顔を輝かせた。
「いいんですか?!」
「いっとくが、少しだけだぞ」
そう断った直後には、既に彼女は行動の後だった。流木の転がる砂地に駆けつけて、海に向かってまっしぐらにサンダルの足跡をつけ始めていた。
ほのかに照明の灯る自動販売機から冷えた缶を二つ購入すると、光牙は海岸を一望できる屋根つきの休憩所に腰を落とした。
(これで海も何度目だったかな――)
それははっきりと忘れてしまっていたが、初めて眺めたのは忘れもしない十八の歳だったことを光牙は思い出していた。人獣族の隠れ里は内陸の山奥にあるせいで、まわりに海が存在しない。だから人里に飛び出て、真っ先に海に向かったのだ。そうして、その時にも今のようにして拭え切れないやりきれなさを抱えていた――
やがて濡れた足元に砂をべっとりと纏わせて琴子が戻ってきた。夕暮れ時の海辺とはいえ日中の熱気はかすかに残っているらしい。彼女のおでこに汗で濡れた前髪がぴっとりとくっついていた。光牙が冷たさの少しぬるくなったサイダーを手渡すと、琴子は軽く礼をしてから、汗ばんで光る首筋を小さく揺らしながら喉を潤していった。
「一つ、聞いてもいいか」
「なんです、改まって?」
きょとんとした顔で琴子が耳を傾けると、光牙は質問を続けた。
「どうしてせっかくの夏休みに動物園で夜勤までして働こうと思ったんだ? 普通、人間の大学生は色々と遊ぶものって聞いたけどな」
ずっと気になっていたことを尋ねると、彼女はけろっとした顔で答えた。
「そんなの。動物が好きだからですよ」
「夜中は大して動物と触れ合えないだろ。それに大事な娘が泊り込みで働くなんて親が心配したんじゃないのか」
すると、いつもは無神経そうにしている琴子が、その言葉には敏感に反応したようだった――なにやら複雑な表情まで浮かべている。ひとしきり固まってから、彼女は小さく唇を動かすと低い声音でぼそりとつぶやいた。
「本当は……あまり家にいたくないんですよ」
意表を突かれたように光牙が彼女の顔を見返す。なにやらわけありな空気を醸し出していることを察すると、
「……ええと、悪い。話したくなければ、べつにいいぞ。聞かないから」
光牙はそう気を遣った。だが彼女は構わずといったように、そのまま話を続けた。
「わたし、昔は母子家庭で二人で暮らしてたんです。でも高校生になった時、お母さんが交通事故で亡くなっちゃって――それから今の神林家にお世話になってるんです」
琴子が飲み物をもう一度口に含むのを見届けてから、光牙は訊いた。
「親は離婚してたのか?」
「そうじゃなくて……ええと、それまでわたしも知らなかったんですが、お母さんとお父さんはいわゆる愛人関係だったみたいなんです。だから最初から結婚自体していなかったみたいですね」
光牙は思わず目を丸くした。彼女のキャラクターに愛人という単語があまりに馴染まなかったからだ。もちろんそんなことは口にせず、光牙はさらに琴子の話を黙って聞いていた。
「引っ越してからは驚きの連続でしたよ。お父さんがいたことだけでもびっくりだったのに、その神林家ときたら地元では名の知れた土地持ちの資産家だったらしくて、すさまじい豪邸だったんですよ。そりゃあもう日本庭園付きの松林つきの――おまけに邸宅内に運転場まであるような凄いトコです。それまでわたし1LDKの貸マンションしか住んだことないんですよ。もうまるで落ち着かなくって――」
光牙が園長から琴子の経歴を聞いた時、彼女の一風変わった性格と金持ちの娘であるという事実がうまく結びつかなかったことには、そういう理由が隠れていたらしい。彼女はそもそも幼少の頃から金持ちだったわけではないのだ。だからこそ、バイトをしようという発想になるのかもしれなかった。
それから光牙は初めて会った時の琴子の言葉を思い出した。
「兄弟ともあまりウマが合わないってのは、そういう事情があったからか」
「はい。庶民暮らしのわたしだと、あんな立派な家の中ではやっぱり浮いちゃってて……。広すぎる部屋も落ち着かないし、金銭感覚もついていけないし。色々と窮屈で疲れちゃうんですよね。おまけに、兄弟のだれとも話が合わないし」
(……まあ、金持ちを別にしてもそうなるだろうな)
なにせバイト先の先輩に対していきなりライダーポーズなんかを平気でとっちゃうような十八の娘だ。光牙の常識に照らし合わせても珍しいのだから、格式高そうな家ならば良くも悪くも異端にしか映りえないのは無理もないことだ。
琴子はうんざりとしたように言った。
「わたし、だから夜勤を希望したんです。早く一人で自立したいから。お父さんは優しいし気兼ねなく過ごしてくれっていってるんですけど、それでもどうにも居心地が悪くて」
海から吹いてくる潮風で琴子の黒髪がなびいた。彼女は気持ち良さそうにそれを受け止めていた。そのどこか大人びた姿に背伸びしようとしている横顔に、光牙は見覚えがあった。それはかつてずっと自分の傍らにいた存在だ――
光牙はふっと息を漏らして告げた。
「……今の状況が一段落ついたら、また園長にお願いすると良いさ。今度は夜勤の仕事も教えてやるからよ」
そのことに琴子は嬉しそうに目元をほころばせた。
「なんだか、さっきからセンパイ。いつもと雰囲気が違いますね」
「……どう違うっていうんだよ」
「なんていうか……ちょっと優しいです」
「そうか。もしかしたら海がそうさせてるのかもな」
その台詞に、琴子はたまらず吹き出した。腹を抱えて、顔を赤面させている。
「せ、センパイ。それ、クサすぎです。意味不明だし――」
わざわざ指摘されたことで光牙もまたこっ恥ずかしい気持ちになると、それを誤魔化すように叫んだ。
「やかましい! また馬の群れに放り込むぞ!」
光牙の照れ隠しのような言葉に、琴子は悪戯っぽい顔つきになって笑った。
――そうしてひとしきり会話が落ち着くと、琴子は思い直したように謝った。
「なんだかすみません。今のセンパイはすごく大変なのに――。こんな私の我儘なんかにつき合わせちゃって」
「べつにそれは構わないさ。俺の問題なんて、結局のところ、どうしようもない話なんだからな」
沈む夕陽が最後の煌きを海表に残している。光牙は目を細めて赤い眩しさを見届けていた。




