第二章 止まった時間 part4 (折れたデッキブラシ)
「あのう……センパイ。わたしたち、こんな呑気に仕事していて良いんですか?」
「おいおい、失礼な奴だな。俺はこんな一生懸命に働いてるっていうのに――」
光牙が肩にかけているぐっしょりと濡れた青色のタオルを示すと、琴子は頭の上の黒髪団子を小さく揺らして首を横に振った。
「そうじゃなくて! ……さっきのことですよ」
彼女の話したいことに勘付くと、光牙はデッキブラシの動きをぴたりと止めて、じろりと睨みつけた。
「オマエ……。今朝は狸寝入りしてたってわけか」
「なにいってるんですか。男女の二人が深刻そうな話をしていたら盗み聞きするのって、もはや世界の常識ですよ?」
指をピンと立てて、琴子。
「いや、さも当然のようにいわれても俺の世界の常識ではないからな、それは……」
呆れたように光牙が突っ込んでおく。
二人は昨晩に事件のあった東エリアの平野ゾーンを掃除していた。いつもに比べて、動物たちの元気は少ない。いつもは活発に遊び回る猿たちも今日はやけに岩山に固まって身じろぎしているし、湖のカルガモはのんびりと泳いでいるように見えていつでも飛びたてるようにそわそわとしている。他にも雑多な種類の動物たちが平然を装いながらも明らかに様子がおかしかった。そういう状況を目の当たりにしたお客さんたちは「動物達も真夏の暑さにやられている」などと評していたが、実のところは違う。昨晩の一件にとにかく恐怖しているのだ。
動物たちのどんよりと縮こまった様子を観察して、光牙はつぶやいた。
「俺だって、早くなんとかしたいさ。こいつらにだって、あまりストレスを与えたくないし――。でも正直なところ手立てがないんだ。なにせ彼女の行方はまるっきり分からないんだからな」
「だったら探しに行けば良いのに」
琴子の意見に光牙は肩をすくめた。
「できることならそうしたいとこだが……あてもなく探したってしょうがないさ。それに俺のいない間に入れ違いになったらどうする。玉響動物園が危なくなるだろ」
「それなら警察の人達が警備してくれるんじゃないですか? 結局、園長さんは通報したんですよね」
「いや、彼らはおそらく逃げ出した劣性人獣族の捜索及び抹殺を最優先にして動くはずだ。他のことに人手を裂く余裕もないだろうし――現に、昼間になった今でも、園内に警官の姿はないだろ?」
「そういえば、そうですねえ……」
きょろきょろと周囲を見回して、琴子が頷く。
「彼らはさぞかし内々に処理しようと躍起になってるだろうな。こんなことが世間にばれたらオオゴトにしかなりえないからな」
劣性人獣族の隔離施設は公的に警察庁の管轄となっている。もしも静音が脱走したのだとすれば、それは管理体制に大きな不備があったことになり、マスコミの格好の餌食となってしまう。そのように世論が騒ぐ前に水面下で片付けるように活動しているというのが光牙の読みだった。
「センパイ、なんだか警察に詳しいんですね」
「昔、世話になっていた時期があるからな」
「ああ、なるほど。センパイならそうでしょうね。なにせ動物に暴力を働くくらいですから。そりゃあ色々とあったんでしょう。いったい何杯のカツ丼を頼ませたことやら――」
うんうんと力強く頷く琴子。そのことに光牙は顔をしかめた。
「断っておくが、オマエの想像しているような意味での世話じゃないからな……。俺がまだ人間学校にいた頃、少しだけ警察で研修を受けていたことがあってな――」
「ええっ!? センパイが警察ですって――? ありえませんよ、そんなこと!」
まるっきり信じる余地もなさそうにして琴子が悲鳴をあげると、
「……知り合って二日目のくせに本当に良い根性してるな、オマエは――」
彼女の過剰な驚き方に光牙が眉根を引きつらせる。
「ちゃんと理由があるんだよ。人獣族は強い肉体を持っているだろう? だから警察とか軍隊みたいに体を酷使する職場から毎年のように引き抜きがあるんだよ。そのまんま働き口を決める奴も数多いわけだ」
「そういうことなら少しは納得できますけど。それならどうしてセンパイは警察にならなかったんです?」
「俺の配属先は少し特殊だったからな……」
琴子の素朴な疑問に光牙が言葉を濁す。どうも彼女は腑に落ちないような顔つきだったが、光牙はそれ以上の追求を嫌って話を本題に戻した。
「とにかくだ。警察が行方を追っている今、わざわざ俺が探しに行く必要はない。だから現状は動物園で待機しておくことが最善なわけだ。それに、彼女がここにまた現れないとも限らないからな」
「でも、それだと警察に先を越されちゃう可能性が高いですよ?」
雲一つない澄んだ青空を見上げて、光牙はつぶやいた。
「それならそれで良いのかもしれない。そもそも彼女はそういう運命にあったんだからな」
じっとりとした目で琴子が、口を尖らせる。
「……センパイって分かりやすいウソつきさんですね。体はそういってないのに――」
彼女に指摘されて光牙はようやく気がついた。手元に握るデッキブラシがぶらんと折れ曲がっていたことに。どうやら、いつの間にか獣化していた手の平が力を篭めて棒をへし折っていたらしい。光牙の顔色がみるみる青ざめていく。
「ああっ、大事な備品が! くそっ……また園長にどやされちまう……」
琴子は光牙の空回りする様子を見つめながら、腫れた傷口に触れるかのようにそっと尋ねた。
「昨日の怪獣さん。大事な人だったんですよね、センパイの……」
光牙は獣化を治めて人間の姿に戻ると、心配そうにしている琴子の頭をぽんっと叩いた。
「そうやって入ったばかりの後輩が生意気にも気遣ってくれるのは嬉しいが――これは俺の問題であってオマエの問題じゃない。あんまり首を突っ込むなよ」
よそよそしく扱う光牙に、琴子はむくれた。
「わたしだって当事者ですよ! 関わる権利くらいあります!」
やはりというべきか、琴子は好奇心のようなものを瞳の奥に滾らせて、そう主張した。光牙はその煌きを奪い取るように告げた。
「そういうことになるだろうと思ってな。……オマエの夜勤は禁止するように園長にお願いしてあるからな」
「へ?」
きょとんとして琴子。
「当たり前だろ。アルバイトのお嬢さんを危険な目に遭わせるわけにはいかないからな」
それからしばらく琴子がぎゃあぎゃあと喚き散らかしたのはいうまでもない。




