第二章 止まった時間 part3 (騒動の夜明け)
(ここは……)
光牙が錯乱しかけたのは、夢と現実の境が曖昧になったからだ。全身にだるい疲労が残っていて、具合の悪い目覚めだった。木目の煤けた天井と見慣れた蛍光灯を見上げて、そこが玉響動物園の宿直室であることを思い出す。視線を転じると、つい先ほどまで真っ暗だった窓のカーテンは朝陽で明るく光っていた。時計を見やると、いつもの早朝の時間になっている。どうやら体内時計は普段通りに働いてくれたようだ。睡魔は未だに眠りの世界へ誘おうとして瞼を重くさせたが、目をこすって無理矢理に拒絶しておいた。
そうしてむくりと半身を起き上がらせると、光牙はぎょっとして息を呑んだ。
「なっ――」
自分のすぐ真横に猫のように包まった物体が一つ。
神林琴子――。彼女は華奢な細腕に枕を挟みこんで気持ち良さそうに寝息を立てていた。よほど熟睡しているようで、うっすらとよだれまで垂らしている。まるで子供のような寝顔だが一応は女子大生の年齢であるらしく、彼女を覆うタオルケットは美しい女性の曲線を描いていた。気まずさを覚えた光牙は思わず体を後退させた。
「おい……。なにやってる、アホ娘……」
声をかけてみる。だが彼女は未だまどろみの世界から抜け出せずにいるようで、
「んぐー、あと五分ー……」
そんな要求をむにゃむにゃと諳んじていた。
まだ眠りたいというならば、そもそも起こす必要もない。そう思い直した光牙は彼女を放ったらかしてさっさと朝支度を始めることにした。歯を磨き、寝癖を整えて、顔を洗う。鏡面台では、昔からたいして変わり映えのしない顔が眠たそうに不満を訴えていた。くっきりとした目の下にはうっすらと隈ができている。単純に睡眠が足りていないのだろう。昨日はあまりに色々なことがありすぎたのだ――
「あら、もう起きたの。まだ寝てて良いのに」
扉を開けたのは園長だった。昨晩のはしたない寝巻き姿ではなく、いつもの作業服に着替えている。その姿を見るなり、光牙は思い出したようにして慌てて訊いた。
「もしかして、もう確認を?」
「当たり前だろ。あたしは園長だからな。園内をぐるっとしてきたが建物も動物も大丈夫そうだった」
彼女の報告に光牙は胸を撫で下ろした。昨晩の一件で被害が出ていないか明るくなってから改めて確認していたのだ。朝っぱらの一仕事を終えた園長は長靴を脱いで座敷にあがると、ちゃぶ台を囲んでさっそく一服した。膝を立てたほとんど親父のような座り方で疲れを取り除くように煙草の煙を吐き出す。そうして白煙がひとしきり部屋の中に消えていくのを見届けてから、園長はようやくといったように本題について切り出した。
「それで、あの化物はいったいなんだったんだい」
光牙は気まずそうに視線を逸らすと顔の水気をタオルで拭き取りながら表情を覆い隠した。そんな心の動揺を見抜くように、すかさず園長が続ける。
「昨晩は時間も遅かったからあんたの適当な誤魔化しに納得してあげたけどね。もし事情をちゃんと話すつもりがないなら、あたしはさすがに警察に連絡するぞ。そこまでしてアンタの口止めに協力してやる義理はない。あんな化物が今度は昼間に現れてみろ。うちにとって大損害になりかねない」
揺れるサイドポニーの横で、半眼の目つきを鋭く睨ませる。園長が絶対に意志を曲げない時の表情だった。光牙は洗面台によりかかって観念したように嘆息した。
「隠すわけじゃないさ。説明はする。だけど……先に一つ頼みがある。あいつのことをそんな風に呼ばないでやって欲しい」
「化物って言葉のことか?」
光牙は慎重に頷いた。
「静音――。俺の推測が正しければ、おそらく昨晩のヤツは俺と同じ人獣族の大神静音なんだ」
園長はぽかんと呆けてから、次第に表情を曇らせた。
「ちょっと待ちなよ。アレが人獣族だって――? 確かアンタらの変身っていうのは人間の身体を基本とした半獣化のはずだろ。犬だの猫だの種類の違いこそあっても、あんなバケモ――じゃなくて、ええと、あんな映画にだって滅多に出ないようなグロテスク極まりない生物になりえるもんなのかい」
注意されたばかりの言葉遣いに気をつける園長だったが、結局のところ化物という認識のままでいることに変わりなかった。これ以上の注意をしても無駄だと光牙は諦めた。それに園長の言うことは間違っていない。むしろ、その方が世間的には正しい考え方だ。
光牙は告げた。
「静音は……劣性人獣族なんだよ」
「なんだって――アレが……?」
園長は血相を変えたように青ざめて、ごくりと唾を飲み込んだ。
人間社会における劣性人獣族の印象は一言でいえば災厄でしかなかった。大昔、劣性人獣族が魔獣となって人間に惨劇をもたらした事実は何度もある。だからこそ人獣族が人権を獲得する代わりに劣性人獣族の絶対的隔離が実施されるようになった。
そのことを訝って園長が疑問符を浮かべる。
「だったら施設に隔離されてるはずだろ。どうして、うちに現れたりしたんだ?」
「俺にも理由は分からない。だけど、アレは間違いなく静音だったんだ――」
すっかり豹変していた静音の姿を思い浮かべると、光牙は体中の血の気が騒ぎ出すのを感じた。心臓がやけに強く鼓動している。
煙草の先端を赤く光らせながら園長は神妙な面持ちで訊いた。
「……その静音って女はアンタの恋人だったわけかい?」
少し考え込むようにしてから光牙はそれを否定した。
「静音と別れたのは十五の時だ。そういう風に意識したことはないさ。彼女とは単に幼馴染で……物心ついた頃から一緒に育ってきたんだ」
「つまり、大事な人だったわけだ……」
言いながら、園長は口の中に溜め込んでいた白煙をたっぷりと吐き出した。閉め切った部屋に濁った空気が段々と充満していくのを見かねた光牙は座敷をまたがって窓辺の換気扇を動かした。古びた羽根がからからと回り出すと、ざわつくような空気の揺れが室内に響き出した。
「まさかだけど……アンタは助けようなんて考えてるのかい?」
彼女の鋭い問いかけに、光牙は目を伏せて黙り込んだ。ひた隠しにしていた秘密を見破られたかのようだった。事実、彼はそういう気持ちで大きく揺れていた。
「静音にはわずかにだけど理性が残っていた。だからこそ俺の声に反応して逃げていったんだ――」
声を震わせる光牙に、園長は現実を突きつけるように言った。
「気持ちは分からなくもない。だけど劣性人獣族は助けることができないから処分する決まりになってるんだろ?」
たまらず光牙が叫ぶ。
「処分なんて言い方はよせよ!」
彼の突然の怒声に園長が面食らったようにまばたきをする。だが園長はそんなことで怯むような性格ではなかった。それどころか光牙の怒りを目の当たりにして彼女は決意を固めてしまった。
「……アンタの考えはだいたい分かった。そういうことなら、あたしは警察に連絡することに決めたよ」
「なっ――待ってくれよ!」
たまらず抗弁しようとする光牙に、園長は厳しい口調で叱りつけた。
「そういう事情ならアンタに止める権利はないはずだろ!」
拳を握り締めて、意を決したように光牙がつぶやいた。
「……俺がやる。俺に彼女の最期を看取らせてくれ」
だが園長はまるで光牙を信じるつもりはなかった。
「そんな感情的になるヤツに任せられないね。いっとくが、これは大きな社会問題になりかねないんだ。もし黙っていたことが発覚してみろ。あとで世間から後ろ指を刺されることになる。客商売のうちが、そんなリスクをいちいち背負ってられるかい」
灰皿に吸殻をぐしゃぐしゃに押し付けると、園長はすぐさま立ち上がった。慌てて引き止めようと、その手を光牙が掴み取る。
「園長……頼む。俺一人にやらせてくれ――」
光牙の黒い目が凛々と意志を放つ。その真摯な瞳を見つめて――園長は目元をほころばせた。
「アンタを信用しないわけじゃない。でも今回ばかりは逆さ。アンタを信用してるから任せないんだよ。……そんな大事な人を手にかけられる奴じゃないだろう、アンタは……」
光牙はなにも言い返せなかった。そうして園長は部屋を去った。




