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プロローグ

「別れたくないよ」

 少年は返事をためらった。それが決して叶わない願いだったからだ。夜空に向かった山の孤峰に座り込み、少年は隣に並ぶ少女を見つめている。

 地表からは随分と離れていて、頭上の雲はいつもより近くにある。虚空の星々が二人のまわりを囲んでいた。階下には暗澹とした森の海が広がっていて、蛇のようにうねった細長い国道と鉄塔を貫く送電線、それからいくつかの宿泊施設が点在している。その景色の中で山奥に向かって走行している大型運搬車を目で追いかけながら、少女はさらにつぶやいた。

「もっと一緒にいたかった」

 泣きじゃくる少女の声を聞いても、やはり少年は黙っていた。

 少年は十五歳ほどの若さで、たくましい筋骨をしていた。幼少からの長い山暮らしが肉体を早期に成長させたのだろう。硬そうな黒髪に芯の強そうな黒い目はどこか大人びていて、革のジャケットがよく馴染んでいる。もしかしたら年齢の割に老け過ぎているのかもしれない。

 彼はすっと立ち上がると、月を後ろに背負って、ゆっくりと手を差し伸べた。

「だったら、俺と逃げないか」

 そして少年は一瞬のうちに変貌してみせた。人間の姿から獅子の姿に――。ただし完全な獣というわけではない。顔や骨格の雰囲気は人間のまま、手足や頭髪の局所的な部位だけが獣の特徴に取って代わったのだ。半獣化とでも呼ぶべきか。尖った爪と鋭い牙、それから背中まで増殖した銀色の(たてがみ)が三月の肌寒い春風で雄々しく揺れている。

 だが少年の手を、少女は握り返さなかった。

「だめだよ。そんなことして見つかったら、すごく怒られる」

「大丈夫。ばれないように上手くやるさ。一緒にどこかで暮らそう」

「……そうなったら、きっと素敵だね」ぐしゃぐしゃに赤くなった顔を微笑ませて――それから少女は目を伏せた。「だけど無理だよ。わたしは人間でいられなくなるんだから……」

 体の内側に悲しみを抑えつけるように、少女は両膝を強く抱え込んだ。

 可憐な横顔だった。大きな猫目に上を向いた唇。細い赤毛を伸ばしていて、透き通った緑色の瞳を蠱惑的に濡らしている。すらりとした体に柄物のワンピースとアイボリー色のカーデガンはよく似合った。

 柔らかなほおに滴る涙を、少年は爪の先端でそっと拭った。

「どうなろうと、俺が最後まで面倒をみる」

 もはや少年は断固とした意志に身を固めようとしていた。その決意が少女をさらに悲しませた。

「わたしね、それもいやなの。本当の獣になった姿なんて見られたくない」

「……じゃあ、どうしろっていうんだ」

「困らせてごめん。結局、どうしようもないことなんだよ。わたしは落ちこぼれなんだから普通に生きることは絶対にできない。ただそれだけのことなのに――」

 少女は全身を震わせると、たちまちに雌豹の姿に変貌した。少年を半獣とするならば、少女はより獣に近づいた存在になっている。傲岸に突き出した口顎、いびつに曲がった四肢の関節、それから体中の皮膚があますところなく黄金色の毛皮に覆われた。

「おまえは落ちこぼれなんかじゃない! だれよりも優しい人獣族じゃないか!」

 怒ったように少年が叫ぶ。

「……これでもそういえる?」

 少女がもったいつけたように前髪を掻き分ける。そうして隠れた額に埋め込んであった緋色の石を見せ示した。

 それは『獣の楔石くさびいし』と呼ばれる物で、その者が劣性人獣族であることを示す烙印である。

「そんなこと……なにかの間違いなんだ……」

 苛立ったように少年が吐き捨てる。ただ、その後の言葉が見つからないようで、黙り込んでしまった。

 そう話している間にも先ほどの運搬車は静かに近づいていた。ヘッドライトの輝きが暗闇の山中を迷うことなく少しずつ移動している。そのまま順調にいけば、あと半時間もしないうちに少年たちの暮らす宿舎まで到着するのだろう。

 それらはまるで死神のようなものだ。明朝、少女は遠くの隔離された施設に護送されてしまう。劣性人獣族はいずれ見境なく暴れる獰猛な獣に変貌してしまうためだ。そうして二度と人里に戻れなくなり、限られた土地で一生を終える。また理性を失ったら最後、その瞬間に容赦なく処分される。この先の彼女に待ち受ける運命は決まっている。確実な死だけだ。

「くそっ――なんとかならないのかよ――!」

 少年はたまらず地面を殴りつけた。

「……藤堂先生がいってた。わたしが未来に生まれていたなら、あるいはって」

「未来……」

 それが絶望に突き落とすための言葉であるかのように、少年は繰り返した。

 やがて彼女は涙を枯らした。溜め込んでいた悲しみをすべて吐き出したかのように。そうして赤く腫れた目を閉じ、長い髪をはためかせて――少女は向かい来る山頂の夜風を真正面から気持ち良さそうに受け止めた。

「わたし、ずっと言いそびれてたことがあるんだ」

「俺に――?」

「でもね、いわない」

「どうしてだよ」

「その方がね、また会えるかもしれないでしょ」

「……そうかもしれないな」

「ありがとう……。おかげでずいぶん楽になったよ――」

静音(しずね)!」

 少女は前脚を地面につけると、なんの躊躇もなく飛び出した。まるで稲妻のような疾走である。足場の悪い岩場をものともせず、美しく身をひるがえしながら着地と跳躍を繰り返し、森の暗がりに向かって駆け降りていく。

 崖の淵から身を乗り出したまま、少年は固まっていた。舞い上がった砂塵だけが残っていて、もう少女の姿は消えている。

 少年は空を仰ぎ、力の限りに咆哮した。

 悲しい叫び――それは冷えた夜空に反響し、風に乗ってどこまでも遠くにこだました。少年は呼吸を荒げ、何度も何度も繰り返した。やがて山の至る所からいくつもの遠吠えが呼応するように追随した。その獣たちの嘆きは夜山を包み込むように交錯している。

 今宵、別れを迎えるのは二人だけではない。それは人獣族全体の抱える深刻な問題だった。

 そうして優性人獣族は大人に成長していく。生涯を人間社会で過ごすために――。

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