自然との共存
帰ってきたら、家がなくなっていた。
昨日までは確かに僕の家があったその場所に、今は何もない。
まっさらなさら地がそこにはあって、大分遠くに、朝日に照らされた森が見えた。
もし昨日、僕が遠出をしていなかったら。もし歩き疲れて、道端で一夜を明かさなかったら、僕も今頃、このさら地みたいにぺたんこにされて、ならされて、地面と区別が付かなくなっていたかもしれない。
そう考えると無性に怖くなって、僕は走り出した。
足で思い切り地面を蹴って走る。硬い地面は僕の足には優しくなくて、すぐに足がしびれた。
お父さんはどうしただろう。お母さんはどうしただろう。ちゃんと逃げられただろうか、それとも地面と一緒にされてしまっただろうか。
僕は走った。鼻が曲がりそうな臭いの中を。
そこいら中からもくもくと上がる煙が、そこいら中に頭の痛くなるような悪臭を撒き散らしている。
走っても、走っても、家はない。
僕の家だけじゃなくて、よく面倒をみてくれたおばさんの家も、意地悪なおじさんの家も、可愛いあの子の家も、何もなかった。
どこにもたどり着けないまま、僕は走り続けた。
ちらりと視線を横に向ければ、そこには天を突く大きな木々が、いくつもいくつもいくつもいくつも聳えている。さら地の先に広がる森が、地面の照り返しの中でゆらゆら揺らぎながら僕を見ていた。
僕は怖くなって、もっと走る速度を上げた。
足がしびれて息が苦しくなって、喉が渇いたけど、それでも走った。
森は終わらない。どこまで走っても、どんなに走っても、森はいつも視界の隅で僕を見ている。
森が追いかけてくる。
僕はもう前も見ないままめちゃくちゃに走って、ずっと僕から離れない視線から逃げた。
ふと、地面の感触が変わった。
逃げ切れたのだろうか。
僕はしびれてふらふらして、言う事を聞かなくなった足を何とか止めて、その場にうずくまった。
目が開けられない。怖くて。
家のずうっと先から今日のご飯のおかずが言い当てられる僕の鼻も、今は悪臭に曲がっていて役に立たなかった。
どれくらい、そうやってうずくまっていただろうか。
周りがなんだか騒がしくなってきた気がして、僕はふと、顔を上げた。
なんだろう。もしかして、お父さんか、お母さんか、誰かが来てくれたんだろうか。
そんな事を考えながら、僕は閉じていた目を開けた。そして見た。
周りには天を突くほどに高く聳える大木がいくつもあって、そのはるか足元に、若木だろうか、大分背の小さな木々が、いくつもいくつも、僕を見下ろしていた。
大木からは、木の葉のざわつくような音。若木からは、木によって違う、なんだか恐ろしげな音が聞こえてきている。風がないのにざわざわ言う木を、僕はその時始めて見た。
と、その時だった。若木の一本が、妙な葉ずれの音を発しながら、その幹を大きく折り曲げて、すっと細い枝をこっちに伸ばしてきた。
「―――!!」
僕は叫んだ。叫んだつもりだったけどあんまり声は出なかった。
僕はばっときびすを返し、森の入り口からさら地へ飛び出した。
葉ずれの音と、低く響く足音が追いかけてくる。風がないのに鳴く木々だから、根っこで立ち上がって追いかけてきても僕は驚かなかった。
僕は走った。もと来た道を一目散に。後ろから聞こえる音はだんだんと遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
それもそうだ。普段土の中にどっしり根を下ろしているだけの木々が、いきなり立ち上がって走ってみても、早く走れるはずがないんだ。
僕は走る速度を緩めた。ゆらゆら立ち上る陽炎の先に、僕の家が見えてきた。
正確にはもうさら地だけれど、そこへ行けばきっと少しは落ち着けるだろう。
そこで息を整えて、それから。
それから、僕はここを出よう。
大人達は教えてくれなかったけど、でも僕は知っているのだ。僕たちの家がなくなって、こうしてさら地になった場所には、やがて大きな木が生え、森の一部になってしまうのだと。
僕は森に飲み込まれたくない。僕はもう木に追いかけられたくない。だから僕は、ここを出て行くことにした。
僕は家に着いて、一度足を止めて息を整えた。
ふと、空を見る。じりじりと照りつける太陽は、日陰も何もないまっさらな地面を焼いている。
後ろを振り返れば、そこにはゆらゆら揺らぐ森が、僕を取り込もうと睨みをきかせている。
僕は決心して、そしてまた走り出した。
僕が生きていけないこの場所にさようならをして、僕が生きていけるどこかへ向かって。
彼が立ち去った後、さら地には沢山の鉄筋が立てられ、青いシートが被せられ、やがて巨大なビルがいくつも生えた。
そこにはやがて、沢山の人々が様々な言葉を交わしながら行き交うようになり、その頃には、新宿の外れに住んでいた狸たちはもう、一匹残らず姿を消していた。