種子の音
「飛び降りの音じゃないですかそれ?」
中学の頃、ずっとこびりついた二、三歳頃の漠然とした音の記憶を尋ねると、母は妙な口調で驚くような答えを返してきた。
何かが爆発した。幼少期に聞いた強烈な音の記憶。漫画ではぐしゃやらぐちゃといった、まるでトマトが潰れるような柔らかい擬音が使われていたが実際はまるで違った。分厚い鉄板が凄まじい勢いで叩きつけられるような鈍く硬い音だった。
「昔住んでた場所ね。ちょうどあの男と別れた頃じゃないかしら」
母は先程の様子とは変わり少し焦ったかのように早口になった。
父とは離婚したと聞いていた。顔もまるで覚えていない。全てがあの音に塗りつぶされたかのように幼少期の記憶はまるでなかった。
母はそれ以上何も語らず、どことなくそれ以上話す気はないといった母の空気から私も詳細は聞かなかったが、「あぁ、あれが人が高所から地面に叩きつけられた時の音なんだ」と、記憶の音に対して解像度が一気に上がったと同時に、あの音をまた聞きたいという口にし難い欲求もまた高まった。
欲求は簡単に現実にはならなかったが、その代わり度々夢を見た。
どこかのマンションの廊下に立つ私は、自分より少し高い目の前にある塀を眺めていた。塀の向こう側は扉がいくつも並び、真ん中だけが口の字のようにぽっかりと空いていた。
ふいに誰かの声が耳元で聞こえたと思った瞬間、残像のように凄まじい速度で何かが目の前を落下していった。
そこでいつも目が覚めた。本当なら落ちていく何かがあの音を聞かせてくれるはずなのに、夢の中であの音を聞くことはできなかった。
あれから十数年が経ち、私は一人暮らしを始めた。
住んだのは十階建てのマンションの305号室。女性の一人暮らしという点のセキュリティも考慮した最適な階数だった。
ここなら人の落ちる音がよく聞ける。
二階までだとセキュリティの不安があり、四階以上は高すぎる。できるだけあの時の鮮烈な轟音を耳と脳で感じたかった。
人におおっぴらに言える話ではないという倫理観は持ち合わせている。だがあの日以来どうしてもまた聞きたいと思う自分は消せなかった。もはやそれは歪み穢れた性欲に近い欲情だった。自慰行為のように簡単に解消できるものでもなく、積もる一方の抑圧された感情は日に日に増すばかりだった。
無意識に自然と視線が上を向くようになった。
高い建物を見れば見る程、あそこから落ちたらとんでもない音がするだろうなと夢想した。人の命をごみ屑程度に扱うような思想に自己嫌悪し苦しんだ結果、私は抑圧ではなく解放の道を探るようになった。
そして、ここを見つけた。
駅近で店も多く立地としては悪くない。なのに家賃は2LDKで3万5千円と破格だった。
「本当にいいんですか?」
不動産業者の怪訝な顔が思い出される。本当も何もここだからいいのだ。
さすがに妙な所に住んでいると思われると面倒だったので母には住所を伝えなかった。同じ県内だからと言うと「近いなら別にいいわ」とあっさりと収まった。
関西でも有名な飛び降りマンション。ネットで調べればこんな情報にも簡単にありつける。こんな願ったり叶ったりな物件はない。安いうえに長年溜め込んだ欲望も満たせる。
不謹慎? 知ったことか。もう我慢は終わりだ。
私は期待に胸を膨らませながら、夢の一人暮らしを始めた。
*
住み始めて半年。あの音で目が覚めた。
まだ外は暗かった。一瞬何が起きたのか理解できなかったが、頭の奥にまだ音が残響していた。そして次第にこの音こそずっと焦がれ続けた人が落ちる音だと認識し一気に意識が覚醒した。窓を開けて外を確認するが落ちた人間は見当たらない。
ーーということは内側か?
サンダルをつっかけ玄関の扉を開ける。薄暗い室内灯に照らされた廊下から下を見下ろす。
『あそこに皆落ちるんだよ』
マンションは「コ」の字をそのまま地面に押しつけたような造りをしており、三本の線で囲われた中心は空洞のようにぽっかりと空いている。
このマンションから飛び降りた人間は、不思議な事になぜか皆外側ではなく内側にあたる中心部分に落ちた。まるで中心にいる何かに誘われるように、住人だけではなく外部の人間がわざわざここを訪れその中に落ちていくのだ。
あった。
暗い地面の上に横たわる人間らしき物体が見えた。四肢は壊れた人形のようにあべこべに折れ曲がり、割れた頭部から脳味噌らしき桃色の欠片が散らばっていた。ぐちゃぐちゃに壊れた人間を見ながら、目覚めの朧げな意識の中鳴り響いた轟音が何度も頭の中でリフレインする。
やっと聞けた。自然と呼吸が荒くなる。しばらく私はじっとその場で死体を見下ろしていた。
「すごい音ですよね」
だから真横から声を掛けられた瞬間、不意打ちで呼吸が止まりかけた。
ばっと振り向いた先にいたのは若い金髪の男だった。スウェットにぼさぼさの髪は寝ぐせだらけで、私と同じく起きたままの姿で部屋を出たようだった。男は話しかけたくせに私に構わず死体を見下ろしていた。
怪訝に思いながら男の横顔を見た。男は無表情でただじっと死体を眺めていた。一見私のように異常な性癖を抱えているようには見えない。野次馬レベルで何か音がしたから見に来た程度にも見えたがどうにも違うように思えた。何かは分からないが、私よりも歪なものを抱えているような不穏さを感じさせた。すっかり興奮から醒めてしまった私は、静かにゆっくりと自室へと戻った。
「もういいんですか?」
男がまた話しかけてきたが、私はそれを無視して扉を閉めた。
*
二か月後。夜中にふと目が覚めた。何時だろうと携帯で時間を確認しようとしたその瞬間だった。
あの音がした。凄まじい衝撃音に意識は一気に覚醒し、私は衝動的に外へ出た。
やはりあった。前に見た時と同じように、歪な形になった死体が転がっていた。
ーー聞けた。
足元からぞくぞくと興奮が身体を這い上がっていった。
前回の半分夢の中にいた時とは違って、はっきりと人間が落ちる音を耳にした。幼少期の頃に聞いたあの音に私は確実に近づいていた。
「今度はよく聞こえたようですね」
真横から急に声がして見ると、またあの男がいた。
「前の時よりもいい顔をされています」
男は柔らかい笑顔を浮かべた。初めて正面から見たが、だらしない身なりにそぐわない爽やかで端正な顔立ちだった。
ーー何なのこの男。
不気味に思いながら僅かながらに興味も惹かれていた。あの音を聞きつけてやってくるあたり、私と同じ癖を持ち合わせている希少な人間である可能性は高い。初めて共感を分かち合えるかもしれない。そんな期待がふわっと心の底で頭をもたげかけたが、「そうですか」と一言だけに留め、私はまた自分だけ先に部屋に戻った。
ベッドに戻り、何度もあの音と死体を記憶の中で落ちていく映像に繋げ再生を繰り返した。興奮冷めやらぬ状態で私は結局その日まるで寝付けなかった。
ふと、あの男はまだあそこにいるのだろうかと気になったが結局確認することはなかった。
*
越してきて一年以内に求めていた音に再会できるだけでなく、二度も遭遇できたのはかなりの幸運だ。ここに来て正解だった。だが出会えてしまった事で改めて気付いた事もあった。
足りない。
あの日聞いた記憶の音と微妙に違う。記憶補正の可能性は十分にあり得るが、昔聞いたあの音はもっとインパクトがあった。このマンションで二度聞いた音はどちらもまだ足りていない。
何かが違う。その理由を探る為に私はよりあの音を求めるようになった。
どれだけ仕事があろうが定時であがった。上司や同僚から冷ややかな目を向けられたが気にしなかった。一刻も早くあのマンションに帰りたい。帰ってからは食事、排泄、睡眠以外の時間は部屋から出てマンション内を徘徊するようになった。食事も最初は部屋で摂っていたがそれももったいなく感じてサンドイッチやおにぎりを片手にあの音との遭遇に備えた。
睡眠もなるべく削った。私が聞いた過去二回とこれまで起きた飛び降りについてネット等で調べ上げたところ、飛び降りはだいたい深夜から早朝にかけての時間に起きている。
こうなると仕事にも行くのも馬鹿らしくなり仮病を使って休むようになった。それでも時間がおしくなり休職を申し出たところ「だったらもう辞めろ役立たず」と上司のありがたい御言葉をいただき晴れて退職となった。
これであの音により近づける。生活の全てがいよいよ本格的にあの音を中心に回るようになった。
幸いにも住人が少ないのか、三階廊下にいつも居座る私を咎める存在はいなかった。たまに管理人か近隣住人か自分以外の人間と鉢合う時ももちろんあったが、無関心なのか特に声を掛けられる事もなかった。私がもし飛び降りたとしても、あぁこのマンションだからね程度にしか思わないのかもしれない。ただどの階に住んでいるのか、あの男には一度も出会わなかった。
*
そんな生活を続けて三か月程が経過した。その日も塀から身を乗り出しぽっかり空いたマンションの中心を眺めていた。時刻は深夜三時頃、今日は落ちてきてくれるだろうかと思いながら突き抜けた先にある夜空を眺めていた。
モチベーションを保つというのはなかなか難しい。いつ訪れるかも分からない瞬間を待つ毎日は心身を削られた。ここならいつかは絶対に落ちてくるという信頼はあっても、それが明日なのかもしくは数か月後、悪ければ数年後になる可能性もある。毎日の期待値を下げながら、それでいて気は抜き過ぎないという絶妙なバランスの中で過ごす日々だった。
ーー私のせいで落ちないんじゃないか。
そんな微かな不安もあった。もし自殺しようと思った時、その場に第三者がいたらどうだろう。
飛び降りようと決意した現場に、ずっと監視するような誰かがそこに居続けていたら、ここで死ぬのは辞めようと思うんじゃないか。
なぜこんな簡単な事に気が付かなかったのかと今更後悔し始めていた。そして私の不安が的中したかのように静かな夜が続いた。私は取り返しのつかない事をしてしまったのかもしれない。求め過ぎたがゆえに暴走し、本末転倒な結果をもたらしてしまったかもしれない。
「下を見てると見逃しますよ」
がっくりと項垂れていると、久しぶりにあの男の声が右から聞こえた。いつも不意に現れるなと思いながら顔を向けると、男は笑顔で私を見ていた。あなた何なんですかと疑問を口にしようとした時、
「面白いもの見せてあげます」
左から声がした。えっと思い正面を向く。
ひゅんっと風を切るような音と共に、目の前を何かが落ちていった。程なくして、耳が破裂しそうな程の爆音が響き渡った。これまで聞いた音とは比べ物にならない程の迫力と共に、ショートしたかのようにばちばちっと脳裏に一瞬映像が過った。それは幼い頃に何度も見た何かが落ちていく夢だった。
耳元に聞こえた声。落ちていく何か。
現実に戻り、身体の中でまだ反響を続ける轟音が夢とリンクする。
この音だ。
夢の中で聞く事の叶わなかった音。そして昔私が聞いたあの音。
これだ。これが私の聞いた音だ。
恐怖なのか興奮なのか、全身が震え足から力が抜け私はその場に思わず屈みこんだ。
扉越しではなく肌で感じた音のインパクトはまさに私が追い求め続けた記憶の音そのものだった。
凄まじい速度で脈打つ鼓動が身体を内側から激しく叩き続けた。今起きた全てを忘れぬよう刻み込もうとしているようだった。
逆さになった男だった。落ちていく男は一瞬だが私と視線がしっかりと合った。横からあの男に声を掛けられなければ見逃していただろう。
ーーいや待てよ。
そこでようやく違和感に気付いた。
項垂れた私は確かにあの男の声で顔を上げた。だがそのままであれば私はまだ落ちていく音を見逃していた可能性がある。
面白いもの見せてあげます。
右を向いた私の左から聞こえた声で改めて私は正面を向いた。
あれは誰の声だ。この場には金髪の若い男、落ちていった男、私の三人しかいない。あの声を聞いた瞬間、若い男の口は動いていなかった。
となればあれは落ちていく男の声か。だがそうなると絶対におかしい。男の落下速度は遥か上空からだった。落ちる前に男が私の耳元で話しかけるなんて不可能だ。
すっと興奮が引き、恐怖で全身の温度が急速に下がっていった。自分の癖を人の死で満たそうとした者への罰か。死者への冒涜であることは分かっていたつもりだったが、私はこの時初めて後悔した。私は何も分かってなどいなかった。
「次はもっと近いですよ」
震えて蹲る私の上から愉快そうな若い男の声がした。しばらく怖くてじっとしていたが、顔を上げた時にはもう男はどこにもいなかった。足音や物音は一切なかった。
*
音への欲求はすっかり失せ、ようやくまともな神経を取り戻した私はすぐにマンションを出た。次の物件が決まらず一旦母が一人で住む団地に同居させてもらうことにした。
「あんた、あいつに呼ばれたのね」
離婚したと聞いた父との関係は実際には少し違った。
二十代前半で付き合い結婚した母だったが、付き合っていた頃の見た目通りの爽やかさと真摯さは、結婚を機に被った皮を剥ぐように一変した。ギャンブル、女遊びと典型的な屑を発揮した男に既に種付けされてしまっていた事を酷く後悔しながら苦しい生活を強いられた。金のない生活の中で父は知り合いからとんでもなく良い物件があると言われ、半ば強制的にやってきたのがあの飛び降りマンションだった。
当時から曰くつきで母は嫌がったが、その手の類を信じない父はまるで気にしなかった。というより、実際は他の女の家に入り浸って金の無心程度にしか現れない具合だったので関係なかったのだろう。
しかし私が産まれるとその可愛さに絆されたのか、父は今までの態度を軟化させ家に帰る頻度も増えた。調子がいいなと思いながらもようやく家族らしくなってきたと思っていたが、次第に父に別の変化が訪れた。
気が付けばふらっと部屋からいなくなり、どこにいったかと思えば階下の地面を眺め、外に出ればしきりに高い建物を見上げるようになった。どうしたのかと聞いても答えてくれなかったが、その頃ようやく真面目に働くようにもなっていたので、仕事の疲れやストレスもあるのかもしれないと思っていた。そんな矢先、父はマンションから飛び降りた。
「最悪だったわよ。死んだだけならまだしも、あんたにとんでもないトラウマ植え付けてくれたんだから」
その日、家に私と父を残し母は久しぶりに友人とランチに出掛けていたタイミングだった。
「面白いもの見せてあげます」
父はそう言って私を廊下に連れ出し、自分だけは最上階に向かった。そこで父は飛び降りた。父はわざと私に自分が落ちていく瞬間を見せたのだ。
私の記憶にはまるでなかったが、当時何も分からぬ私はその時あった出来事を淡々と語り、その事実で周囲を凍てつかさせたという。
「あんたにあの時の音の事を聞かれた時、当たり前のように飛び降りだなんて言葉が勝手に口から出てきて、慌ててあいつとは離婚したって誤魔化したけどダメだったね」
全てを忘れ去っていればよかったのに、執拗にこびりついた音だけは記憶に残り続けた。 何を思って父は私に死に様を見せたのか。悪意としか思えない行為だったが、あの音は父の消えない何か執念のようなものだったのか。
父の写真か何か残ってないかと聞くと、そんなものほとんど消したよと言われた。一時まともになったとは言え、母の人生を大きく狂わせた存在なのだからわざわざ見返したいとは確かに思わないだろう。ただ私はどうしても顔を確認したかった。食い下がると嫌な顔をしながらもちょっと待っててと言われ自分の携帯を触り始めた。
「今送った」
母から私のLINEに画像が送信された。見ると若い男女数名が楽し気に写った画像だった。
「真ん中が私でその左にいるのがあいつ」
もしかしたら当時の知り合いに頼んで送ってもらったのかもしれない。悪い事をしたと思いながら礼を告げて写真を確認した。
金髪で端正な顔立ちの柔和な笑顔。いつも誰かが飛び降りると不意打ちのように現れたあの男そのものだった。あいつに呼ばれたという母の言葉はその通りだったのかもしれない。時を経て知らずの内に父が落ちた場所にわざわざ自分から引っ越すだなんて、さすがにたまたまでは納得がいかない。
“次はもっと近いですよ”
あの音に私は確実に近づいていた。その先を考えるとぞっとした。
あの音より近い場所。行き着く先はきっと私自身だ。地面に直に触れた瞬間、自分の潰れた音と共に絶命するその瞬間こそ、私はあの音と最も近くなる。
私はそんなもの望んでいない。死にたくなんてない。落ちたくなんてない。
そう考えた時、父は果たしてどうだったのかと疑問に思った。
“面白いもの見せてあげます”
父が残した最期の言葉。自殺を目撃させるという行為はもちろん、娘に対してそんな丁寧な言い方をわざわざするだろうか。母に尋ねると、態度だけじゃなく言葉遣いも粗暴だったらしく、私に対しても愛情はあったが丁寧な口調だなんて一度も聞いたことはないと言われた。
幼い私に語り掛けたのは、本当に父だったのだろうか。父に入り込んだあの男か、もしくはあの男が擬態した姿だったのか。私の横に度々現れたあの男の正体は何だったのか。もしかすると、あの男こそ飛び降りマンションの諸悪の根源なのかもしれない。
色々考えれば自分の癖や衝動に駆られたと思っていた行動も、どれも普通におかしなものばかりだ。私の中にずっとあの音がこびりついていた理由も、ただのトラウマではなく深層心理に埋め込まれた時限爆弾だったのかもしれない。
いずれにしても、私はもうあの場所には決して近づかないだろう。
*
あれから十年が過ぎ、その間私は結婚出産離婚を経験した。母のように元旦那が飛び降りて死んだなんてことはなかったが、代わりに中二の娘が父と同じ末路を辿った。
娘はわざわざ電車を乗り継ぎ一時間もかけてあのマンションに向かい飛び降りた。兆候はあったかと聞かれたが、日々生活を送る中多少思春期の不安定さはあったかもしれないが自死を選ぶほどのものは感じ取れなかった。実際中学では快活で友人にも恵まれており、とても死ぬような様子はなかったと級友も泣き崩れていたほどだった。私と母は娘であり孫である悲惨な死に絶望した。
“次はもっと近いですよ”
もうすっかり忘れ去っていたはずの声が不意に頭に響いた。
近い、とはどういう意味だったのか。私はそれをあの音の近さだと思っていた。次に死ぬのは自分で、自分が死ぬときの音を聞くのだと思っていたが違ったのかもしれない。
あの男の悪意は全く終わってなどいなかった。寸前で止められたと思っていた時限爆弾は止まっていなかったのだ。
「私のせいだったのかな。私があんた達も巻き込んだのかな」
“飛び降りの音じゃないですかそれ?”
魂の抜けた母の言葉に、記憶の底にあったあの時の母の妙な口調を思い出した。
母は自分の意識とは別にあの言葉を吐いてしまった。そこから私はあの音により惹きつけられた。あの瞬間、母も母ではなかったのかもしれない。
あの場所で飛び降りる人間は何らかの手段でどこかで種を植え付けられ、開花させられた人間がきっと落ちていく。父もまたどこかでその種子を埋め込まれていたのかもしれない。
散布された種子がある限り、あの場所で死ぬ人間は絶たない。
今このしがた娘のいる場所に行きたいと思っている私の気持ちも、あの男の種によるものかと思うと、どこまでも救われずただただ堕ちる一方だった。




