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影でいろと言われたので、実力主義の隣国で溺愛されることにしました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/12

「三歩下がって歩け。お前は俺の影でいればいい」


 その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが――音を立てて砕けた。


 五年間。

 私、セリア・フォンテーヌは、婚約者カーター・ヴァロワのために働き続けてきた。


 外務省での彼の仕事は、実際にはほとんどが私の手によるものだった。交渉資料の作成、各国の情勢分析、多言語での書類整理。深夜まで残業し、時には徹夜で仕上げた成果物を、翌朝カーターに渡す。


 彼はそれを自分の名前で発表し、貴族たちから称賛を浴びる。

「カーター様は優秀だ」

「さすが外務大臣の息子」

 私の名前が出ることは、一度もなかった。


 (まあ、いいか)

 最初はそう思っていた。婚約者を支えるのは当然だと、そう信じていた。


 だが、カーターは私に感謝の言葉一つかけなかった。

 それどころか――


「女に学問は必要ない。お前は俺を支えていればいいんだ」


 人前でそう言い放つこともあった。

 私が徹夜で仕上げた資料を前にして、まるで私の存在そのものが不要だと言わんばかりに。


 (……もう、いいや)


 今日、カーターは私に言った。

 王宮への道すがら、彼の三歩後ろを歩いていた私に、振り返りもせずに告げた。


「お前は俺の影でいればいい」


 その言葉が、最後の一押しだった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 その夜、私は密かに行動を開始した。


 復讐ではない。

 抵抗でもない。

 私が選んだのは――撤退だった。


 五年間、私は自分が作成した全ての書類の写しを、密かに保管していた。交渉記録、各国の王族・貴族の性格分析、貿易協定の草案。それらは全て、私の筆跡で、私の言葉で書かれている。


 (これが、私の実力の証明)


 小さなトランクに、それらの書類と最低限の衣類を詰めた。

 五年間で貯めた給金――カーターが「小遣い」と称して渡していたわずかな金額だが、それでも国境を越えるには十分だった。


 机の上に、一通の手紙を置いた。


『カーター様


 五年間、お疲れ様でした。

 私はもう、あなたの影でいることに疲れました。

 これからの外交業務、頑張ってください。


 セリア・フォンテーヌ』


 皮肉も恨み言も書かなかった。

 ただ、淡々と。事務的に。

 まるで辞表を提出するかのように。


 (……前世で、ブラック企業を辞めた時と同じだわ)


 そう、私には前世の記憶がある。

 日本という国で、過労死寸前まで働いていた社畜OLの記憶が。


 この世界に転生して、また同じような扱いを受けていたなんて。

 さすがに学習しなければ。


 私は夜の闇に紛れ、王都を後にした。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 向かった先は、隣国ヴェルディア公国。


 実は、一週間前の夜会で、運命的な出会いがあった。


 ヴェルディア公国の宰相、アシュレン・グレイモア公爵。

 彼は冷静で言葉少ない男性だったが、私と交わしたわずかな会話の中で、こう言ったのだ。


「あなたが作成した交渉資料、拝見しました」


 私は驚いた。

 カーターの名前で発表された資料を、どうして私が作ったと?


「筆跡と文体の分析です。公式記録と、あなたが以前作成した小さな報告書を照合しました」


 彼は静かに微笑んだ。


「本物の実力者は、隠れていても分かるものです。もし、環境を変えたいとお思いなら――私の国で働きませんか?」


 その時は、社交辞令だと思っていた。

 だが、今なら分かる。


 彼は本気だった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ヴェルディア公国の首都に到着したのは、王都を出て三日後だった。


 アシュレン公爵の屋敷を訪ねると、彼は何も聞かずに私を迎え入れた。


「来てくれたのですね」


 ただ、それだけ。

 経緯を問い詰めることも、身元を疑うこともせず。


「今日から、私の執務室で働いていただきます。給金は月に銀貨百枚。勤務時間は朝八時から夕方五時まで。残業は原則禁止です」


 (……え?)


 私は耳を疑った。


「残業、禁止……ですか?」


「ええ。効率的に働けば、残業の必要はありません。それに、疲弊した頭では良い仕事はできない」


 アシュレン公爵は当然のように言った。


「あなたには、あなたの実力に見合った待遇を用意します。それだけです」


 (なにこれ、天国?)


 前世のブラック企業でも、この世界のカーターの下でも、定時退社など夢のまた夢だった。


「ありがとうございます……!」


 私は深々と頭を下げた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ヴェルディア公国での仕事は、驚くほど快適だった。


 与えられた仕事は、各国との外交文書の整理と分析。まさに私の得意分野だ。


 アシュレン公爵の執務室は、静かで整然としていた。必要な資料は全て揃っており、無駄な会議もない。ただ黙々と、必要な仕事だけをこなす。


 (これが……普通の職場なのね)


 午後三時になると、執務室に温かい紅茶が運ばれてくる。

 アシュレン公爵は、私の分も用意するよう指示していた。


「休憩も仕事のうちです」


 彼はそう言って、自分も手を止めて紅茶を飲む。


 (カーターは、私が休憩を取ろうとすると『暇なのか?』と嫌味を言ったのに……)


 そして、夕方五時。


「今日の仕事はここまでです。お疲れ様でした」


 アシュレン公爵が立ち上がる。

 本当に、定時で終わるのだ。


「明日も、よろしくお願いします」


 彼は私に向かって、丁寧に頭を下げた。


 (上司が、部下に頭を下げる……?)


 カーターなら絶対にしなかったことを、この人は当たり前のようにする。


 私の目から、不意に涙が溢れた。


「セリア様?」


「あ、すみません……何でもないんです」


 ただ、嬉しかっただけ。

 人として尊重されることが、こんなにも嬉しいなんて。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 私がヴェルディア公国に来て一ヶ月が経った頃。


 祖国から、思わぬ知らせが届いた。


「カーター・ヴァロワ殿の外交交渉が、全て破綻しているそうです」


 アシュレン公爵が、淡々と報告書を読み上げる。


「隣国との貿易協定が白紙撤回され、同盟国との会談も決裂。外務大臣の息子としての信用も失墜しつつあるとか」


 (……そう、なのね)


 私は複雑な気持ちだった。


 カーターの「実績」は、全て私が作り上げたものだった。私が去った今、彼には何も残っていない。


「セリア様」


 アシュレン公爵が、私を見つめる。


「あなたは、彼のもとに戻りたいと思いますか?」


「いいえ」


 即答だった。


「もう二度と、誰かの影でいたいとは思いません」


「……そうですか」


 彼は、ほんの少しだけ微笑んだ。


「ならば良いのです」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 しかし、祖国は諦めなかった。


 二ヶ月後、王国から正式な使節団が派遣されてきた。

 目的は――私の「返還」。


「セリア・フォンテーヌは、我が国の貴族である。正当な手続きなく出国したことは問題だ」


 謁見の間で、使節団の長が主張する。


「彼女を速やかに返還していただきたい」


 (返還……まるで物扱いね)


 私は、玉座の横に立つアシュレン公爵を見上げた。

 彼はこの国の宰相として、政治的判断を下さなければならない。


 (仕方ないわ。私一人のために、国と国の関係を悪化させるわけには……)


「お断りします」


 アシュレン公爵の声が、謁見の間に響いた。


「セリア・フォンテーヌは、我が国の正式な職員です。そして――」


 彼は私の方を向き、手を差し伸べた。


「私の、婚約者です」


 (……え?)


 使節団がざわめく。

 私も、驚きで言葉が出ない。


「婚約者だと!? そのような話は聞いていない!」


「つい先ほど、決まったばかりですので」


 アシュレン公爵は、まったく動じない。


「彼女は自らの意思でこの国に来て、自らの実力で職を得ました。そして私は、彼女の才能と人柄に惚れ込み、婚約を申し込んだ。彼女もそれを受け入れた」


 彼は私を見つめる。


「――違いますか、セリア?」


 その瞳には、静かな決意があった。


 (この人は……私を守ろうとしている)


「……はい」


 私は頷いた。


「私は、アシュレン様の婚約者です」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 使節団は、不満を露わにしながらも引き下がった。

 他国の宰相の婚約者を無理やり連れ戻すことなど、外交上できるはずもない。


 謁見が終わり、執務室に戻った私たちは、しばらく沈黙していた。


「……あの」


 私が口を開く。


「婚約、というのは……」


「嘘ではありません」


 アシュレン公爵は、真っ直ぐに私を見つめた。


「私は本気です、セリア。あなたをこの国に、私の隣に繋ぎ止めたい」


 彼は普段の冷静さを保ちながらも、どこか必死な様子で続けた。


「あなたは優秀で、誠実で、美しい。私の仕事のパートナーとして、そして人生のパートナーとして、これ以上の相手はいない」


「でも、私は……」


「影など、求めていません」


 彼は私の手を取った。


「私が欲しいのは、対等なパートナーです。共に歩いてくれる人です」


 (対等な、パートナー……)


 カーターが決して言わなかった言葉。


 私は、涙を堪えることができなかった。


「……私も、です」


 震える声で答える。


「私も、アシュレン様と共に歩みたい。影ではなく、隣に並んで」


「では、決まりですね」


 彼は、初めて見せる穏やかな笑みを浮かべた。


「私たちは婚約者です。対等な、パートナーとして」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 その後、祖国からは様々な要請が届いた。


 カーターからの「謝罪と復縁の手紙」も来たが、私は読まずに破り捨てた。

 外務大臣からの「国のために戻ってきて欲しい」という懇願も、丁重にお断りした。


 (もう遅いのよ)


 私を必要としている時に大切にしなかった人たちが、失ってから価値に気づいても、もう遅い。


 カーターはその後、外務省を辞職したと聞いた。

 彼の「実績」が全て疑われ、降格の上で閑職に追いやられたのだという。


 (自業自得ね)


 少しの同情もなかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 それから半年後。


 私とアシュレン公爵の結婚式が、ヴェルディア公国で執り行われた。


 豪華でも派手でもない、でも心のこもった式だった。

 そして何より――


「式は午後三時に終了します。皆様、お疲れ様でした」


 司会者が宣言する。


 (結婚式まで定時で終わるなんて……!)


 私は思わず笑ってしまった。


「どうしました?」


 隣で、アシュレン――もう夫となった彼が尋ねる。


「いえ、この国は本当に素晴らしいなって」


「そうですか。ならば良かった」


 彼は私の手を取り、優しく握る。


「これからも、毎日定時で終わる人生を、一緒に歩みましょう」


「ええ、ぜひ」


 私たちは手を繋いで、式場を後にした。


 影ではなく。

 対等なパートナーとして。

 並んで歩く、私たちの未来へ。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ――一年後。


 ヴェルディア公国の外交は、飛躍的に発展していた。

 私とアシュレンの連携により、各国との関係は良好になり、貿易も活発化した。


 一方、祖国の王国は、外交の失敗が続き、国際的な立場を弱めていた。


 (カーターがどうしているかは、もう知らない)


 執務室で、今日の仕事を終えた私は、書類を綺麗に整理する。


「セリア、今日はここまでです」


 アシュレンが声をかける。


 時計を見ると、夕方五時ぴったり。


「はい。お疲れ様でした」


「お疲れ様でした」


 私たちは並んで執務室を出る。


 廊下を歩きながら、アシュレンがふと呟いた。


「あの時、あなたが私の国に来てくれて、本当に良かった」


「私もです」


 心の底から、そう思う。


「逃げた先で、私は本当の居場所を見つけました」


「逃げたのではありません」


 アシュレンは私の手を握った。


「あなたは、自分にふさわしい場所を選んだのです」


「……そうですね」


 夕日に照らされた廊下を、私たちは手を繋いで歩く。


 影ではなく。

 対等なパートナーとして。


 これからもずっと、この人と並んで歩いていくのだ。


 そう思うと、胸が温かくなった。

読んでいただき、ありがとうございます。


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