影でいろと言われたので、実力主義の隣国で溺愛されることにしました
「三歩下がって歩け。お前は俺の影でいればいい」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが――音を立てて砕けた。
五年間。
私、セリア・フォンテーヌは、婚約者カーター・ヴァロワのために働き続けてきた。
外務省での彼の仕事は、実際にはほとんどが私の手によるものだった。交渉資料の作成、各国の情勢分析、多言語での書類整理。深夜まで残業し、時には徹夜で仕上げた成果物を、翌朝カーターに渡す。
彼はそれを自分の名前で発表し、貴族たちから称賛を浴びる。
「カーター様は優秀だ」
「さすが外務大臣の息子」
私の名前が出ることは、一度もなかった。
(まあ、いいか)
最初はそう思っていた。婚約者を支えるのは当然だと、そう信じていた。
だが、カーターは私に感謝の言葉一つかけなかった。
それどころか――
「女に学問は必要ない。お前は俺を支えていればいいんだ」
人前でそう言い放つこともあった。
私が徹夜で仕上げた資料を前にして、まるで私の存在そのものが不要だと言わんばかりに。
(……もう、いいや)
今日、カーターは私に言った。
王宮への道すがら、彼の三歩後ろを歩いていた私に、振り返りもせずに告げた。
「お前は俺の影でいればいい」
その言葉が、最後の一押しだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その夜、私は密かに行動を開始した。
復讐ではない。
抵抗でもない。
私が選んだのは――撤退だった。
五年間、私は自分が作成した全ての書類の写しを、密かに保管していた。交渉記録、各国の王族・貴族の性格分析、貿易協定の草案。それらは全て、私の筆跡で、私の言葉で書かれている。
(これが、私の実力の証明)
小さなトランクに、それらの書類と最低限の衣類を詰めた。
五年間で貯めた給金――カーターが「小遣い」と称して渡していたわずかな金額だが、それでも国境を越えるには十分だった。
机の上に、一通の手紙を置いた。
『カーター様
五年間、お疲れ様でした。
私はもう、あなたの影でいることに疲れました。
これからの外交業務、頑張ってください。
セリア・フォンテーヌ』
皮肉も恨み言も書かなかった。
ただ、淡々と。事務的に。
まるで辞表を提出するかのように。
(……前世で、ブラック企業を辞めた時と同じだわ)
そう、私には前世の記憶がある。
日本という国で、過労死寸前まで働いていた社畜OLの記憶が。
この世界に転生して、また同じような扱いを受けていたなんて。
さすがに学習しなければ。
私は夜の闇に紛れ、王都を後にした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
向かった先は、隣国ヴェルディア公国。
実は、一週間前の夜会で、運命的な出会いがあった。
ヴェルディア公国の宰相、アシュレン・グレイモア公爵。
彼は冷静で言葉少ない男性だったが、私と交わしたわずかな会話の中で、こう言ったのだ。
「あなたが作成した交渉資料、拝見しました」
私は驚いた。
カーターの名前で発表された資料を、どうして私が作ったと?
「筆跡と文体の分析です。公式記録と、あなたが以前作成した小さな報告書を照合しました」
彼は静かに微笑んだ。
「本物の実力者は、隠れていても分かるものです。もし、環境を変えたいとお思いなら――私の国で働きませんか?」
その時は、社交辞令だと思っていた。
だが、今なら分かる。
彼は本気だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ヴェルディア公国の首都に到着したのは、王都を出て三日後だった。
アシュレン公爵の屋敷を訪ねると、彼は何も聞かずに私を迎え入れた。
「来てくれたのですね」
ただ、それだけ。
経緯を問い詰めることも、身元を疑うこともせず。
「今日から、私の執務室で働いていただきます。給金は月に銀貨百枚。勤務時間は朝八時から夕方五時まで。残業は原則禁止です」
(……え?)
私は耳を疑った。
「残業、禁止……ですか?」
「ええ。効率的に働けば、残業の必要はありません。それに、疲弊した頭では良い仕事はできない」
アシュレン公爵は当然のように言った。
「あなたには、あなたの実力に見合った待遇を用意します。それだけです」
(なにこれ、天国?)
前世のブラック企業でも、この世界のカーターの下でも、定時退社など夢のまた夢だった。
「ありがとうございます……!」
私は深々と頭を下げた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ヴェルディア公国での仕事は、驚くほど快適だった。
与えられた仕事は、各国との外交文書の整理と分析。まさに私の得意分野だ。
アシュレン公爵の執務室は、静かで整然としていた。必要な資料は全て揃っており、無駄な会議もない。ただ黙々と、必要な仕事だけをこなす。
(これが……普通の職場なのね)
午後三時になると、執務室に温かい紅茶が運ばれてくる。
アシュレン公爵は、私の分も用意するよう指示していた。
「休憩も仕事のうちです」
彼はそう言って、自分も手を止めて紅茶を飲む。
(カーターは、私が休憩を取ろうとすると『暇なのか?』と嫌味を言ったのに……)
そして、夕方五時。
「今日の仕事はここまでです。お疲れ様でした」
アシュレン公爵が立ち上がる。
本当に、定時で終わるのだ。
「明日も、よろしくお願いします」
彼は私に向かって、丁寧に頭を下げた。
(上司が、部下に頭を下げる……?)
カーターなら絶対にしなかったことを、この人は当たり前のようにする。
私の目から、不意に涙が溢れた。
「セリア様?」
「あ、すみません……何でもないんです」
ただ、嬉しかっただけ。
人として尊重されることが、こんなにも嬉しいなんて。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
私がヴェルディア公国に来て一ヶ月が経った頃。
祖国から、思わぬ知らせが届いた。
「カーター・ヴァロワ殿の外交交渉が、全て破綻しているそうです」
アシュレン公爵が、淡々と報告書を読み上げる。
「隣国との貿易協定が白紙撤回され、同盟国との会談も決裂。外務大臣の息子としての信用も失墜しつつあるとか」
(……そう、なのね)
私は複雑な気持ちだった。
カーターの「実績」は、全て私が作り上げたものだった。私が去った今、彼には何も残っていない。
「セリア様」
アシュレン公爵が、私を見つめる。
「あなたは、彼のもとに戻りたいと思いますか?」
「いいえ」
即答だった。
「もう二度と、誰かの影でいたいとは思いません」
「……そうですか」
彼は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「ならば良いのです」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
しかし、祖国は諦めなかった。
二ヶ月後、王国から正式な使節団が派遣されてきた。
目的は――私の「返還」。
「セリア・フォンテーヌは、我が国の貴族である。正当な手続きなく出国したことは問題だ」
謁見の間で、使節団の長が主張する。
「彼女を速やかに返還していただきたい」
(返還……まるで物扱いね)
私は、玉座の横に立つアシュレン公爵を見上げた。
彼はこの国の宰相として、政治的判断を下さなければならない。
(仕方ないわ。私一人のために、国と国の関係を悪化させるわけには……)
「お断りします」
アシュレン公爵の声が、謁見の間に響いた。
「セリア・フォンテーヌは、我が国の正式な職員です。そして――」
彼は私の方を向き、手を差し伸べた。
「私の、婚約者です」
(……え?)
使節団がざわめく。
私も、驚きで言葉が出ない。
「婚約者だと!? そのような話は聞いていない!」
「つい先ほど、決まったばかりですので」
アシュレン公爵は、まったく動じない。
「彼女は自らの意思でこの国に来て、自らの実力で職を得ました。そして私は、彼女の才能と人柄に惚れ込み、婚約を申し込んだ。彼女もそれを受け入れた」
彼は私を見つめる。
「――違いますか、セリア?」
その瞳には、静かな決意があった。
(この人は……私を守ろうとしている)
「……はい」
私は頷いた。
「私は、アシュレン様の婚約者です」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
使節団は、不満を露わにしながらも引き下がった。
他国の宰相の婚約者を無理やり連れ戻すことなど、外交上できるはずもない。
謁見が終わり、執務室に戻った私たちは、しばらく沈黙していた。
「……あの」
私が口を開く。
「婚約、というのは……」
「嘘ではありません」
アシュレン公爵は、真っ直ぐに私を見つめた。
「私は本気です、セリア。あなたをこの国に、私の隣に繋ぎ止めたい」
彼は普段の冷静さを保ちながらも、どこか必死な様子で続けた。
「あなたは優秀で、誠実で、美しい。私の仕事のパートナーとして、そして人生のパートナーとして、これ以上の相手はいない」
「でも、私は……」
「影など、求めていません」
彼は私の手を取った。
「私が欲しいのは、対等なパートナーです。共に歩いてくれる人です」
(対等な、パートナー……)
カーターが決して言わなかった言葉。
私は、涙を堪えることができなかった。
「……私も、です」
震える声で答える。
「私も、アシュレン様と共に歩みたい。影ではなく、隣に並んで」
「では、決まりですね」
彼は、初めて見せる穏やかな笑みを浮かべた。
「私たちは婚約者です。対等な、パートナーとして」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その後、祖国からは様々な要請が届いた。
カーターからの「謝罪と復縁の手紙」も来たが、私は読まずに破り捨てた。
外務大臣からの「国のために戻ってきて欲しい」という懇願も、丁重にお断りした。
(もう遅いのよ)
私を必要としている時に大切にしなかった人たちが、失ってから価値に気づいても、もう遅い。
カーターはその後、外務省を辞職したと聞いた。
彼の「実績」が全て疑われ、降格の上で閑職に追いやられたのだという。
(自業自得ね)
少しの同情もなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから半年後。
私とアシュレン公爵の結婚式が、ヴェルディア公国で執り行われた。
豪華でも派手でもない、でも心のこもった式だった。
そして何より――
「式は午後三時に終了します。皆様、お疲れ様でした」
司会者が宣言する。
(結婚式まで定時で終わるなんて……!)
私は思わず笑ってしまった。
「どうしました?」
隣で、アシュレン――もう夫となった彼が尋ねる。
「いえ、この国は本当に素晴らしいなって」
「そうですか。ならば良かった」
彼は私の手を取り、優しく握る。
「これからも、毎日定時で終わる人生を、一緒に歩みましょう」
「ええ、ぜひ」
私たちは手を繋いで、式場を後にした。
影ではなく。
対等なパートナーとして。
並んで歩く、私たちの未来へ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
――一年後。
ヴェルディア公国の外交は、飛躍的に発展していた。
私とアシュレンの連携により、各国との関係は良好になり、貿易も活発化した。
一方、祖国の王国は、外交の失敗が続き、国際的な立場を弱めていた。
(カーターがどうしているかは、もう知らない)
執務室で、今日の仕事を終えた私は、書類を綺麗に整理する。
「セリア、今日はここまでです」
アシュレンが声をかける。
時計を見ると、夕方五時ぴったり。
「はい。お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
私たちは並んで執務室を出る。
廊下を歩きながら、アシュレンがふと呟いた。
「あの時、あなたが私の国に来てくれて、本当に良かった」
「私もです」
心の底から、そう思う。
「逃げた先で、私は本当の居場所を見つけました」
「逃げたのではありません」
アシュレンは私の手を握った。
「あなたは、自分にふさわしい場所を選んだのです」
「……そうですね」
夕日に照らされた廊下を、私たちは手を繋いで歩く。
影ではなく。
対等なパートナーとして。
これからもずっと、この人と並んで歩いていくのだ。
そう思うと、胸が温かくなった。
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