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しらないところで Annex  作者: 南 紅夏
4/4

西へ向かうぞ ~引越しの旅

大牙目線の過去話、大学から、就職までの環境の変化です。大人と子供の狭間、20代のわちゃわちゃした感じをお楽しみください。

 修士課程2年目の冬。

 俺は研究を続けたかったので、4月以降そのまま大学に残る予定だった。

 別に博士号が欲しいとも思ってはいなかったが、大学の研究室は好きなことが出来て居心地が良かったのだ。

 当然その時は就職など微塵も考えていなかった。


 脳筋一家に育ったため、家族は「博士課程?なにそれ、おいしいの?」状態で、意味が分からないと嫌な顔もされた。大学に行くという点では同じなのに、スポーツ医学の方面に進んだ姉は、我が家ではかなり応援されていた。俺との扱いが違い過ぎる。


 その日の昼過ぎ、普段着に白衣を羽織っただけの格好で学食に向かっていると、

「あ、東雲さーん!教授が探してましたよ?」

 後ろから、聞き覚えのある声が呼びかけてきた。同じゼミの後輩だ。

「んー?教授ドコ?普通に研究室?」

 振り返ると、後輩は思いっきり嫌な顔をした。

「え…そのカッコ、平気っすか?寒くないですか?…それより、ケータイ出てくださいよ。みんな探し回ってます」

「そんな急用?…あ、やべ。電池切れてたわ」

 ポケットから取り出した画面バキバキのスマホは、完全に沈黙していた。

「仕方ないですねえ。みんなに巨大ツチノコ見つかったって送っときます」

「誰がツチノコだよ…ごめん、ありがと」


 おなかすいたな、と思いながらUターンし、教授の研究室に向かう。

 スマホも最近すぐ充電が切れる。買い直し時だな、バイトだけじゃ厳しいかな、などと思いながら教授の部屋のドアをノックした。

「東雲です」

「あー、東雲君、入って入って」

 木戸教授ののんびりした声が聞こえた。


「失礼します…あ、すみません、来客中でした?」

 ごちゃっとした研究室の、たまに教授が仮眠用ベッドとして使っている長椅子に、60歳手前の教授と変わらない年齢に見える男性が座っていた。

「いいからいいから。東雲君も座って」

 そう言われても、この雑多にモノが散らかっている部屋に座る場所もない。見知らぬ男性の隣に座るのも気が引けたので、端に立てかけてあった折りたたみ椅子を広げて座った。


「この人ね、僕がアメリカの研究所にいた時に一緒に研究してた山下君。篠原先生の一番弟子だよ」

「…ああ、篠原先生の…じゃあ、あの山下博士ですか」

 篠原先生は、俺は直接の面識はない。しかし、今の道に進もうと思ったとき、最初に出会ったのが彼の書いた本だったのだ。何冊かある彼の本の中に、助手として時々出てきたのが木戸教授と山下博士だった。

「今日はね、山下君は君に用があって来たらしいんだよ」

「僕に…ですか」

 山下博士の顔を見る。表情の読みにくい、糸目の男性だ。

「君の論文読ませてもろたんやけど、おもろい事やってるなあ、思て。まあ、スカウトやな。スカウトに来たんや」

「スカウト…ですか…」

 今の話だと、一体何にスカウトされているのか分からない。

「先の事どう考えてはるんか、それ次第ですけど。もし研究好きで続けたい思うてはるなら、ウチに来たらどうですか、ちゅう話ですわ」


「山下博士の、研究所か何かですか?」

「あー、博士とか気色悪いわ、やめてー!先生くらいにしといて」

「じゃあ、山下先生。僕は何にスカウトされているんでしょうか?」

「まだ出来たばっかりやけど、研究所作りましてな。まだ人足りひんのですわ。優秀な人おったらって所長のワタシが自らスカウトして回ってるトコですわ。

 国から補助金も出て、大学と製薬会社と医療器メーカーがバックにおる、官民学一体ゆうやつや。研究費は潤沢やで?設備も最新のんで揃っとるし。かなり好きな事出来る環境や。今やってる研究、そのまま持ってきて続けてもろて構へんよ?ええ話やと思うで?」


 木戸教授は微妙な顔をしている。

「そんな、堂々とうちの子引き抜かれると、僕もちょっと困るんだけどねぇ」

「このまま博士課程行くつもりやったら、ウチならかなりラクに社会人ドクター行ける思うで?」

「いや…正直、博士号はどうでもいいっちゃいいんですけど」


 ぱた、と静かになる。教授はまた困った顔になっている。

「まあ君はそう言うけど、研究続けるんだったら、持ってて損はないと思うけどねえ」

「…そうかも知れませんけど、学校に残るために取ろうかな、って僕の場合手段と目的が逆で。ちょっと親にも理解してもらえなかったんですよ。自由に研究続けられて給料もらえるなら、そっちのが良い気がします」


「なら4月からこの子、うちで貰ろてええ?」

 山下先生が機嫌よく教授に尋ねた。


「最新設備か~。うーん、うちもそれなりに良いの入れてるんだけどね~…うーん、ちょっと見てみないと…うちの子安心して送り出すには確認しないとなあ…」

 教授は何だか口の奥でゴニョゴニョしながら、ちらちらと山下先生の顔を見ている。


「あー、もう、見に来たらええやん!見たいだけやろ自分?交通費はそっち持ちや。…東雲くんも見に来てや。あんさんの分は宿泊費もうちで持つわ」


 キツネとタヌキの化かし合いかな、なんて思いながら見ていると、いきなり旅行が決まってしまっていた。…え?宿泊費?…遠いの?


「その研究所ってどこなんですか?」

「大阪や。かなり京都寄りの。まあ、日帰りでも全然行けるで?でも、せっかくやし、関西のうまいもんご馳走させて?」


 そう言った瞬間、山下先生の腹の虫がが派手に「ぐー」と鳴った。

「ああ、ほんまは学食行って話しよ思てたのに、木戸君が愛妻弁当ある言うたから食べそびれてたやないの。…東雲君はお昼は?」

「さっき行くところだったんですけど」

「あーなら学食、うまいとこ案内してや。未来の上司がおごったる!給与面その他の話しよ」


 電池の切れたスマホを握りしめたまま、この日のうちに、俺の気持ちはほぼ大阪行きを決めていた。




「え、東雲さん、大阪のその就職予定先、行って来たんですか?」

 後輩が、わくわくした顔で聞いてきた。

「行ってきた」

 一言だけ返すと、不満げに後輩が顔を覗き込む。

「いや、そうじゃないでしょ。どうだったんですか、建物とか設備とかー!」

 それ以上聞かれると困る。

「…つが…もらえる…」

 机に肘をつき、顔を隠すように下を向いて、笑いをかみ殺しながら、小さな声で絞り出した。

「はあ?聞こえませんって。何が貰えるんですか?」

「…個室が…研究室が貰える…」

「えー!?なにそれ?どんだけ待遇良いんですか?…じゃあ、ほんとに大学辞めて大阪行っちゃうんですね…」


 研究所の建物は、大手製薬会社の工場敷地内にあった。

 山下先生が渡米前に勤めていた大学も協力していて、勤務しながらの博士号獲得が容易な環境だった。


「行かない理由が見つからない…」

 いかん、口元が緩んで仕方ない。

 後輩が小さい声で

「うわぁ…東雲ファンクラブも解散かあ…いい収入源だったのに」

 と呟いたが、もう聞かなかったことにした。




 3月末。学生は春休みの金曜の朝だった。

 マンションの鍵を握りしめつつ、部屋を振り返った。5年近くここに住んだのか、と思うと感慨深い。


 実家からほど近い、このマンションに引っ越したのは大学1年の3月だった。


 その直前の、2月に入ったころ。

『美雨から荷物届いてるよー』

 高校から付き合っている美雨の、叔母である郷子さんから連絡があった。

 当時美雨はイギリスに住んでいたのだが、届いた国際郵便の中に、何人かの友人宛の荷物も入っていたとの事だった。

 その頃一人暮らしを密かに目論んでいた俺は、荷物を受け取りに行く日、約束時間の前に不動産屋に寄って賃貸情報のコピーを貰っていた。

 その後、友人の里菜子と時間を合わせて、二人で郷子さんのマンションを訪ねたのだった。


「大牙くんは、一人暮らしするの?大学、実家から通えるよね?遠くないよね?」

 美雨からのバレンタインチョコを受け取った時、丸めて持っていた賃貸情報のコピーに、郷子さんが目ざとく気が付いた。

 彼女の膝から2歳になったばかりの男の子が降り、ぽてぽてと歩いて里菜子に遊んでとせがみはじめた。

「通えるんですけどね、うち人数多いんで、一人暮らししたいなって思って」

 一番上の兄の結婚話も出ていて、氷牙もいない今、俺が出て行けば部屋の配分が簡単になると思ったのもあるが、一度一人でちゃんと生活をしてみたかったのだ。


「ふうん…?じゃあ、美雨の部屋に住まない?」

「…え?」

 俺よりも、ものすごい顔で里菜子が反応した。自称『美雨の心の友』の手から、柔らかそうな樹脂ボールがぽたっと落ちた。

「人が住まない家って傷むのよ。週に一回は私が空気入れ替えて水流したりもしてるんだけど。下水管って常に水溜めとか無いと、臭いも上がってくるの。この時期だし、意外とすぐ乾燥しちゃうのよね」

 郷子さんの所には、美雨のいとこにあたるこの幼い男の子と、もう一人小学生のお姉ちゃんがいる。子供を抱えて、そのひと仕事は大変だろうな、と思った。


 郷子さんは一度里菜子の顔を見たが、にこりと微笑んで俺の方を見た。

「…ほら、あの部屋は色々あって、他の人に貸せないから」

「ああ…」

 里菜子も知らないその「色々」を、俺は知っていた。

「美雨が帰国したとき、大牙くんが出迎えてくれるなら私も安心だしね」

 そんな事があり、ものすごい殺意のこもった目で里菜子に睨まれつつ、家賃は実質タダに近い状態で美雨のマンションを借りる事になったのだ。




「ロボ太、しばらくお別れだ。後頼んだぞ」

 人のように喋る、細めのアナライザーのようなお掃除ロボの頭をぽんぽんと叩いた。

『叩くな』

「ははっ」

 こいつはとある家電メーカーの試作品という家政婦ロボットで、ざっくり言うと機密情報のカタマリらしい。

 その他設置されている家電も特別で、自家発電等色々な実験をこの部屋に組み込んでいるらしく、掛かる電気代も異常なほど安かった。マンション大手の美雨の実家と、家電メーカー共同のこの試験運用があるせいで、この部屋は他の人への貸し出しが出来ないそうだ。

 さしずめこのロボ太は、動いて喋って掃除も出来る、スマート家電のポータルロボといった位置付けだろうか。

 無人になったら試験運用も意味がなくなる気がするのだが。


 あまり人を入れられないので、ロボ太を奥の部屋に隠しつつ、自分一人で玄関先まで荷物を全て運び出した。そこからは腐れ縁の友人二人が引っ越し作業を手伝ってくれた。まあ、それほど荷物もなかったのだけれど。


 部屋の鍵を掛け、3軒隣の部屋のチャイムを鳴らした。

「大牙くん…ホントに行っちゃうんだね。いつでも帰ってきていいんだからね」

 アメリカ、イギリスと渡って、今はブラジルにいる美雨の部屋の鍵を、郷子さんに返した。

「いえ、本当にお世話になりました」

「こちらこそ。大牙くんが住んでくれて助かりました。東京に戻ることあったら、里帰りと思ってここに帰って来て良いんだからね」

「美雨ちゃんが帰ってくるときは、必ず俺も帰ってきますから」

「えー、大牙くん、いなくなるの?聞いてないよう」

 部屋の奥から、中学生になった美雨の従妹が出て来た。ここに住んでる間、時々郷子さんから夕飯のおかずなどの差し入れを持って来てくれていた子だった。

「美波ちゃんも、色々ありがとな。勉強頑張れよ」

 大人みたいなつまらない挨拶しか出来なかったが、他に気の利いた言葉も思いつかなかった。




車両運搬車(トランポ)借りようかと思ってたけど、荷物これだけか。軽トラでも十分だったな」

 荷物を積み終わり、唯一運転免許を持っている友人、谷沢竜馬が運転席に乗り込んだ。

「いや、軽トラだと3人乗れないだろ」

 助手席に、昔俺の実家で下宿していた大森航が乗り込むと、

「別にお前は来なくても良かったんだよ」

 と竜馬が航に嫌味を言った。

「でも力仕事だと竜馬じゃ心許ないしなぁ」

 そう言いつつ、俺は後部座席に乗り込む。竜馬の会社から借りて来た大き目な真っ黒のワンボックスカーは、スペース的にはまだ余裕があった。


 家電や家具は美雨の家では一切買う必要がなかったので、実際持っていくのは僅かな服と本などで、一番の大物は自転車だ。自転車以外は普通の宅配で済みそうなレベルの荷物だった。むしろ、向こうに着いてから家電や家具や小物の買い出しが必要になる。

「引っ越しの支度金まで用意してくれるとか、大牙んとこイイ職場だよな」

「実際どうなるか分かんないけどさ。まあ、どうやっても竜馬の収入にはかなわねーよ」

「ふふっ、まーね」

 代表取締役社長の肩書を持つ竜馬が、余裕で笑った。ちょっと憎らしい。


 なんだかんだ言いつつも、引っ越しに便乗した男三人での大阪旅行だ。実際の所、出発前の今からもう既に楽しい。

「今日は晴れてて良かった。富士山見えると良いな」

 高速に入ると、竜馬がいつもより高い声のトーンで言った。

「富士山、やっぱアガるよな」

「なんでだろ、やっぱ近くで見ると違うよな」

 俺と航が返すと

「違ーう!」

 と竜馬が叫んだ。


「新幹線でしか行った事ないヤツは分かんねーだろーけどなぁ、静岡!死ぬほど長いんだぞ!?永遠に抜けられないんじゃないかってほど長い!」

「…そんなに?」

「富士山が心のオアシスなの!富士山見えない曇天だと、もうどこまで続くの静岡ってなるんだよ…」

「おう…すまん。ガム食え、ガム」

 天気が変わらないことを祈りつつ、竜馬にガムのボトルを差し出した。


 静岡に入る手前から、それらしいものはチラチラと見えていたのだが、県境を越したあたりからはっきりと姿が見えるようになってきた。

「やっぱ、富士山ってすげー!」

「それなー!」

 3人一気にテンションが上がり、右の景色ばかりに目が行く。

 一時見えなくなったり、また急に見えるようになったりを繰り返し、そのたびに車内の空気も乱高下した。

 その後、富士山が見えなくなってからの静岡は長かった。運転手の竜馬が一番辛い時間なのだろうが、それは助手席の航も後ろの俺も同じで、重い空気が車内を満たして謎の精神攻撃を受けている気分だった。

 竜馬が差し替えたUSBからアイドルの曲が流れ始め、爆笑しつつ一旦は持ち直したが、それも長くは続かなかった。


 愛知県の看板と、ナビの『愛知県に入りました』のアナウンスで、車内は一気にMPが回復し祭り状態に盛り上がった。強敵だった、静岡。




 15時過ぎた頃、無事に目的地にたどり着いた。部屋番号を確認し、竜馬が真新しいアパートの駐車場に車を止めた。

 すぐ近くの車から、長い髪を一つに束ねたスラリとした女性が降りて来た。職場見学に行った際、案内してくれた人だ。

「あー!えっと、橋内さんだ」

「誰?」

「職場の先輩」

 竜馬に説明しながら、俺も急いで車を降りた。


「すみません、お仕事中に」

「それはいいんだけど…運転はお友達が?」

「実はまだ俺、仮免中で」

「そっかぁ…早めに取った方がいいよ。こっちは車ないと厳しいっつーか…まあ、研究所に住んでるような奴もいるから一概には言えないけど」

 そう言いつつ、鍵を手渡してくれた。

「部屋は、聞いてると思うけど2階ね。入社は4月からだけど、早めに来たかったら来てもいいってさ。今入門証の申請中だから、出来るまでは入り口で毎度書類書かなきゃなんないのよ。折角だからのんびりしなよ。家具屋も家電量販店も大型のが近くにあるから。あ、洗濯機と冷蔵庫はもう新品入れてあるよ。電話線工事は終わってるのと、無線ルーターはみんなからのプレゼント、もうついてるから」

 手早く説明を終えると、橋内女史はひらひらと手を振り、俺たちに背を向けた。そして車に乗り込み、すぐに駐車場から出て行った。


「ファミリー向けの部屋じゃん、広ぉ!」

 部屋に入って竜馬の第一声はそれだったが、俺も3部屋もある広さに、かなり驚いていた。

「いいな、新築。俺たち来ても余裕で泊まれるな」

 航は今後も遊びに来る気満々のようだ。しかしまだ落ち着いて何かできる部屋でもない。

「買い出し行くかぁ。大牙、部屋とカーテンのサイズ測って。テレビは買う?」

 竜馬は手慣れた感じでポケットからメジャーを出しつつ、スマホに買い出しメモを打ち込んでいく。

「うー、テレビ…いらないかなー。ノーパソ用の机欲しいかも。あと布団?」

「ベッドは?つか、大牙の身長で収まる布団とかベッドってあんの?あ、布団は俺たち分も買え!買っとけ!」

 あくまで航は今後も泊まりに来るつもりらしい。

 そんなこんなで買い出しを終え、部屋にカーテンを取り付けて、何とか住める感じになった。


 その夜は3人で近所の居酒屋に行った。

「しばらくお別れだなー」

 乾杯した後、とても寂しそうに竜馬が言った。大学で一時離れたが、卒業後は戻って来て結局ずっと近くにいたので、就職で離れるというのは今生の別れのような気分にもなる。

「ま、明日は観光だろ?まだ1日ある」

 昔は無口だった航は、大人になるにつれて良くしゃべるようになった。うちの道場出身では、オリンピック候補にもなった出世頭だ。


「で、明日はどこ行く予定だよ」

 ジョッキを傾けつつ、二人に質問した。

「京都!修学旅行の時行けなかった所行きたいんだよね」

 いい笑顔で竜馬が答えた。


 翌日は、竜馬のたっての希望で伏見稲荷に行った。予備知識のなかった俺と航は、本殿の裏から始まる突然の登山で面食らってしまっていた。

「ちょ…まじか、伏見稲荷って山なの?登るの?」

「そう!登っちゃおーぜー!」

 竜馬は無茶苦茶爽やかな笑顔でスニーカーの紐を結び直していた。

 しかし赤い鳥居がいくつも続いているのを見て俺たちもテンションが上がり、スマホ片手にすいすいと山を登っていたのだが…。


「…俺、もう無理。登れねー」

 言い出しっぺの竜馬が、途中で立ち止まった。

「はあ?ふざけんなお前」

 俺と航で大いに突っ込んだが、竜馬は明日の帰省時の唯一の運転手だ。無理強いも出来ずに、引き返したのだった。


 翌朝早く、二人は帰って行った。

「二人とも引っ越し手伝い、ありがとな。気を付けて帰れよ。向こう着いたら連絡しろよ」

「母親か」

 助手席で航が笑った。

「それと、竜馬は体力戻そーぜ。何ならまた道場通えよ」

「…考えとく」

 竜馬はハンドルに寄りかかり、少し寂しそうに笑った。

「…静岡、ガンバレ」

「言うなー!!!」

 二人の絶叫と共に、二日間一緒に旅をした黒いワンボックスカーは帰って行ったのだった。




 二人の見送りを終え、部屋へ戻った。

 一人になった部屋は、殊の外広く寒く感じた。


 ―――ロボ太、エアコンの温度上げて。

 今まではそう言えば良かったのに。リモコンを操作して、設定温度を上げた。


 ―――今日は転入届出して、住民票貰って、免許の試験の予約入れなきゃ…。


 日曜日でも、第四だと手続きが可能らしい。顔を洗って、二人から引っ越し祝いで貰った電気ケトルに水を入れ、スイッチを入れた。

「…やっぱテレビ、買おうかな…」

 インスタントコーヒーの蓋を開け、マグカップに一匙と半ほど粉を入れて、お湯が沸くのを待つ。


 窓から見える空は薄曇りで、部屋に響くのはコポコポと沸く電気ケトルの音だけだった。

 その音を聞きながら、この雲が東に流れるのが、あの黒い車より遅い事を祈った。


沼津の友人に捧ぐ。(これ書いてる事言ってないけど)

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