第9話:断崖の先にて
東へ.....
──塔を背に、二人は山岳地帯へと歩を進めていた。
森はやがて岩場に変わり、空気は薄く、風が鋭く吹きつけていた。
道らしい道はなく、獣の足跡と、風化した岩の裂け目だけが、二人を前へ導いていた。
「姉さん、本当に……この道を?」
カイの足取りが徐々に鈍くなる。
両手を岩にかけ、滑らないように注意しながら、必死に上っていた。
《映像解析によれば、ユナは“追われながら”この方向へ移動していた》
「直線的な判断ではない。安全とは言えない」
リュウは淡々と答える。
「でも、姉さんは……生きてたんだ。だから、どんな場所だって……!」
カイの声には、幼さと決意が同居していた。
リュウは、彼のすぐ後ろを一定の距離を保ちついていく。
歩調は揃えつつ、崩れやすい岩場では常に彼の背中を見守るように立ち止まっていた。
風がさらに強くなってきた。
そのたびに、彼女の肩まである黒髪が舞い、ボディスーツが筋肉の起伏に沿って密着し直す。
谷間や腰の曲線が風に撫でられ、まるで身体そのものが空気と一体化するかのように艶めいていた。
「ゼロ、地形の変動兆候は?」
《現在の岩盤、安定状態。ただし先行ルートに異常あり──崖面に掘削痕。加えて、移動中の熱源検知。速度低下──隠れている》
「敵性存在?」
《判断保留。生体構造──異常。四肢構成は既知の魔獣に近いが、遭遇したことないタイプだ》
その時、風が鳴った。
岩壁の奥──ひび割れた断崖の影から、低く唸るような気配がにじみ出る。
目を凝らすまでもなく、それは姿を現した。
──咆哮。
姿を現したそれは、獣だった。
だが、通常の魔獣ではない。
巨大な四肢。黒褐色の毛並みには、所々に焼け焦げたような斑があり、
──そして、首から分かれた二つの頭部が、まるで意志を持って動いていた。
一つは唸り声をあげ、もう一つは無言でこちらを見つめている。
どちらも鋭い牙を備え、目には赤い光が宿っていた。
「……双頭の魔獣。大型個体──変異種か」
《強化個体。自然発生的な変異の可能性あり。ただし、異常な知性指数を示唆》
「排除する」
両手にナノブレードが滑るように展開される。
スーツが自動調整され、彼女のしなやかな肢体に吸いつくように密着し直す。
太もも、腰、胸元──すべてが戦闘のために研ぎ澄まされる。
風が唸る。
そして──魔獣が動いた。
咆哮と共に、四肢が大地を砕きながら跳ねる。
先行して咬みかかるのは左の頭。続けて右の頭が、横合いからの挟撃を仕掛ける。
だが──リュウの姿は、すでに宙にあった。
跳躍。回転。斬撃。
ナノブレードが閃き、左の頭に迫る──が、牙で受け止められる。
同時に右の頭が唸り声をあげ、尾で反撃を繰り出す。
《硬質化骨格確認。喉元と胸部は装甲化。狙うなら脚部か背面関節!》
「了解」
再度、リュウは跳ねる。
獣の背を駆け、すれ違いざまに刃を足の腱へと突き立てる。
怯んだ隙に背後から首元に向け跳躍。そのまま二本の刃を首へ突き刺した。
根元まで深く刺さったブレードを引き抜くと、獣の首から黒い血が霧のように噴き出し、地面へ沈んだ。
「やった……!」
カイが声をあげた──その時。
ゴゴゴ、と鈍い音を立てて背後の岩が崩れた。
「……っ!」
崩れた岩場に足を取られ、カイの体が崖の縁を滑る。
「うわ──!」
リュウが振り返った時、彼の体はすでに宙に浮いていた。
迷いはなかった。
彼女は跳んだ。
風を裂いて滑空するように飛び、崖の縁に滑り込む。
瞬間、片腕を伸ばして、カイの手首を掴み取った。
「──っ、つ!」
リュウの足が岩にめり込む。
ぶら下がったカイの体は軽いが、それでも地面は崩れていく。
「し、しがみつけ……!」
「ゼロ、支点確保。引き上げ体制に移行」
《了解、関節補強モードON──テンション最大、いける!》
引き寄せる。
リュウは重心を落とし、カイの体を地面へと引き上げた。
二人の身体が岩の上に倒れ込む。
土と汗と、荒い呼吸。リュウのスーツに砂が貼りつき、曲線がより際立っていた。
「……ご、ごめん……」
「次回、予測不能な地形変化に対して即時対応を。行動精度を上げろ」
冷たく、無感情な口調。
だがその背に残る温もりは、明らかに“守った者の痕跡”だった。
「う……うん……ありがとう」
しばしの沈黙のあと、カイが小さく呟いた。
風がまた吹いた。
振り返ると、断崖の奥には──崩れたままの巨大な双頭獣の死体が横たわっていた。
「追跡、継続。次の行動地点へ移動」
風が音もなく吹き抜けた。
旅は、さらに“深い真相”へと向かっていた。