第8話:ヴァイスの丘(後編)
午後の陽が傾きかける頃。
二人の影が、苔のついた石段をゆっくりと登っていた。
そこは、“ヴァイスの丘”と呼ばれる高台──
かつて見張り塔として使われていたという、荒れた石造の構造物が今も残されていた。
「……ここ、覚えてる……かも」
カイが、遠い記憶を手繰るように呟く。
「小さい頃に一度、姉さんと登った気がする。高いところから村が見えた……確か、あの時は……」
記憶は断片的で、ところどころ霞んでいた。
けれど、それでも彼は“来た”ことがあると、自分に言い聞かせるように、塔の扉へと手をかけた。
《構造物は全体の45%が崩壊。上層部への侵入は危険と判断。地下構造あり。熱反応……なし。静的状態を維持中》
「ゼロ、内部探索を許可。防御態勢は維持」
《了解。リュウ、物理的危険は低いが、内部環境の不安定化に注意。スーツのフィルターレート調整済み》
石の扉を押し開ける。
重い音と共に、冷たい空気が吹き抜けた。
中は暗く、空気は重たく澱んでいた。
湿った匂いが鼻を刺し、石壁には水滴が滲み、天井からぽつりぽつりと雫が落ちていた。
静かだった。あまりにも。
「……誰も、いないのかな……」
カイが、肩をすくめながらリュウの後に続く。
湿気が高く、ベタつく空気が肌にまとわりつく。
リュウの漆黒のボディスーツも、わずかに濡れ、彼女のしなやかな身体の輪郭にぴたりと張りついていた。
くびれた腰、引き締まった腿、そして胸元のわずかなジッパーの開きから覗く滑らかな谷間。
それは塔の闇の中で異様なほど艶めいていた。
だが、カイはそれに気づいていない。
彼の目はただ一つの希望──“姉の手がかり”だけを追っていた。
塔は二層構造になっていた。
一階には見張り室らしき空間、そして階段を降りた先に──
閉ざされた、分厚い扉があった。
《扉の封鎖は物理式。鍵は破損済み。開放可能。背後警戒──異常反応なし》
「開ける」
リュウが手をかざすと、扉は軋みながらゆっくりと開いた。
──そこには、古びた装置があった。
それは、まるでこの世界のものではない。
金属の筐体は今も鈍く光を反射し、盤面には魔法陣でも紋章でもない、滑らかな曲線のパネルが配されていた。
「……これ、何……?」
カイが思わず声を漏らす。
見たこともない。想像もしたことがない。
“像”でも“絵”でもない、“何かが映るもの”──そんな概念すら、彼にはなかった。
《……これ、古代技術の遺構か? いや待て、電力供給反応あり。微弱だが──》
「ゼロ、起動可能か?」
《直接接続を試みる──……リュウ、これは……信号形式が既知パターンに近い。構文も……一部、似ている》
「……地球のものか?」
《この記録装置──地球のものに“似てる”。少なくとも、我々の時代技術と近い基盤を持っている》
リュウは一歩前に出た。
彼女の赤い目が細められ、微かに緊張を帯びている。
塔に漂う古い空気が、時間そのものを巻き戻しているようだった。
「… …この世界に、類似技術が存在するか、あるいは……かつて我々の世界から来た存在か」
《どちらも否定できない。だが、今は目の前の記録装置に集中すべきだ》
カイが、不安げにリュウを見上げる。
「……これが姉さんの、手がかりに……なるの……?」
「確認中。記録装置、現在の動作モードは?」
《音声記録、映像記録──部分的に残存。ただし全体の記憶媒体は劣化。映像、再生可能部分を抽出する》
低く、微かな起動音が鳴る。
暗がりの中に、光の粒が舞い、そして──映像が浮かび上がった。
「うわぁ、なにこれ......」
カイが驚くのように呟く。
それは、村らしき風景だった。
何かに追われる人々の姿。そして、逃げる中に、ひとり──
赤毛の少女がいた。
顔は明瞭ではない。だが、その輪郭、背丈、髪の長さ──
「……!」
カイが、息を呑む音が聞こえた。
「停止。映像フレームを固定、拡大」
《……照合中。カイとの遺伝的近似率、70%以上──姉、ユナの可能性高》
カイの口元が震えた。
声を出そうとして、出せなかった。
まぶたの奥が熱くなり、でも、涙は落ちなかった。
──姉さんは、生きてる。
それだけが、今、彼の世界のすべてだった。
「追跡方向は?」
《東──山岳地帯へ逃走中。追撃個体は複数。映像、ここで終了》
塔の中に、沈黙が戻る。
濡れた石の匂いと、機械の温もりだけが残った。
「……姉さんは、生きてる……」
カイの声は、震えていた。けれど──力強かった。
リュウは、静かに頷いた。
「次の探索地点、東の山岳地帯。追跡を開始する」
《ルート再計算中。補給地点不明。地形危険区域へ接続の可能性あり──戦闘準備を強化すべき》
「了解。任務、継続」
塔を出た時、空には灰色の雲が広がっていた。
そして、遠くでは雷の音が聞こえたような気がした。
旅は、さらに深い領域へと踏み込もうとしていた。