第5話:沈黙の村(前編)
森は、まるで世界そのものが沈黙しているようだった。
風もなく、鳥の鳴き声すらない。微かな光が枝の隙間を縫って差し込み、木の葉の影が地面にゆらゆらと揺れている。
カイは、枯れ枝を踏まないよう注意しながら、一歩一歩を慎重に進めていた。何度も後ろを振り返りながら、それでも不安は拭えない。
──彼女は、ちゃんと後ろにいるだろうか。
そう思うたびに目をやるが、リュウはいつもそこにいた。音も立てず、風のように、森の影と同化したような存在感で。
黒髪は一本の枝にも触れず、漆黒のボディスーツは獣すら避けていくように木々の間をすり抜ける。その動きは、人ではないと直感させるほど滑らかで、恐ろしいほどに無音だった。
「この森を抜けたら、村があるんだ……たぶん、まだ……残ってる」
それは希望というより祈りに近かった。自分に言い聞かせるような声だった。
《生体反応、特に異常なし。ただし、地表の植物圧縮痕と糞跡から大型生物の活動記録あり──過去24時間以内》
「……痕跡から進行方向を計算。警戒維持」
リュウの声は揺るがなかった。それでも彼女の歩幅は、微かにカイに合わせているように思えた。
やがて──
木々がまばらになり、光が強く差し込んでくる。緑の影が薄れ、視界が広がった。
「やっと森を抜けた……!」
カイの声に、ほっとした吐息が混じる。視界の先、斜面の向こうには、村の木柵が──
「っ……!?」
その安堵は、一瞬で打ち砕かれた。
草原の斜面に立つ影。四足で構えたその巨体は、人の三倍はあった。全身を覆う毛は剣のように硬質化し、赤く輝く双眸がこちらを射抜く。
──魔獣。
「うわぁ!?……あいつ、前に村を襲った魔獣だぁ……!」
《接近戦仕様。突進パターン検出、リュウ──反応を!》
「排除する」
その言葉とともに、リュウが一歩踏み出す。
髪が風を孕み、胸元が陽光を受けて微かに輝いた。その姿はまるで、戦場に舞い降りた黒き刃──
──死を纏った美。
咆哮が響き、魔獣が突進する。
その瞬間、リュウの姿が掻き消えた。
《上空、跳躍!ブレード展開》
空中からナノブレードが展開され、鋭く斜めに振り下ろされる。肩が裂け、ドス黒い血が噴き出る。着地と同時に、両脚で突き上げるような蹴りを叩き込み獣が大地に叩きつけられる。
《心臓部露出──今だ!》
リュウは一切の迷いなく、刃を振り下ろす。赤い閃光。断末魔の咆哮。そして、沈黙。
だが──
「リュウっ!後ろ!─まだいる!」
カイの叫びとともに、茂みを薙ぎ払いながら二体目、三体目の魔獣が現れた。唸り声が重なり、鋭い爪が土を掻く。
リュウは一度だけカイの方へ視線を向け、再び駆ける。
左の魔獣が突進した瞬間、リュウは身体を滑らせるように地を這い、横っ腹へブレードを突き刺す。絶叫。だがその声が消えるより早く、背中へと跳躍し、次の個体へと身を翻す。
右から迫る魔獣の牙が、彼女の肩を掠めた。だが彼女は痛みすら無視し、背後を取っていた。膝蹴り、回し斬り、首筋を断ち──瞬間、すべてが終わる。
斜面に、三つの巨体が沈んだ。
息一つ乱さず、リュウはブレードを収める。
「排除、完了」
その声が、静かに風に溶けた時、斜面の先、村の木柵の上に人影が現れた。
「……何だ……?」
「女、か……? おい……あれ、ひとりで……」
「魔獣を──倒した……?」
農具を握る男たち、布を抱えた女たち。兵士のような装いの者もいたが、全員が無言でその場に立ち尽くしていた。
彼らが見ていたのは、魔獣の返り血に濡れた黒のスーツに身を包み、太陽を背に立つひとりの影──
──天女のように美しく。
──死神のように冷酷に。
「す、すごい……あの人……」
カイは、村人たちと同じ視線でリュウを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「本当に……“ひとりで”全部、やっつけちゃった……」
けれどその声には、恐怖でも驚きでもない、不思議な色が混じっていた。
それはまだ名もない、少年の中で芽生え始めた感情──
“この人といれば、生き延びられるかもしれない”という、
ほのかな希望の温度だった。