第5話:断崖の先にて ― 冷たき月の下で
東へ。──塔を背に、二人は山岳地帯へと歩を進めていた。森はやがて岩場に変わり、空気は薄く、風が鋭く吹きつけていた。道らしい道はなく、獣の足跡と、風化した岩の裂け目だけが、二人を前へ導いていた。その険しい地形は、まるでこの世界の厳しさを象徴しているかのようだった。
「姉さん、本当に……この道を?」
カイの足取りが徐々に鈍くなる。両手を岩にかけ、滑らないように注意しながら、必死に上っていた。彼の声には、幼い不安と、それでも前に進もうとする決意が同居していた。
《映像解析によれば、ユナは“追われながら”この方向へ移動していた》
「直線的な判断ではない。安全とは言えない」
リュウは淡々と答える。感情のない声は、ただ事実を伝えているだけだった。
「でも、姉さんは……生きてたんだ。だから、どんな場所だって……!」
カイの声には、幼さと決意が同居していた。それは、彼を突き動かす唯一の原動力だった。
リュウは、彼のすぐ後ろを一定の距離を保ちついていく。歩調は揃えつつ、崩れやすい岩場では常に彼の背中を見守るように立ち止まっていた。風がさらに強くなってきた。そのたびに、彼女の肩まである黒髪が舞い、ボディスーツが筋肉の起伏に沿って密着し直す。極限まで研ぎ澄まされた太もも、腰、胸元の曲線が風に撫でられ、まるで肌に熱く張り付くように艶めいていた。
「ゼロ、地形の変動兆候は?」
《現在の岩盤、安定状態。ただし先行ルートに異常あり──崖面に掘削痕。加えて、移動中の熱源検知。速度低下──隠れている》
「敵性存在?」
《判断保留。生体構造──異常。四肢構成は既知の魔獣に近いが、遭遇したことないタイプだ》
その時、風が唸るように鳴った。岩壁の奥──ひび割れた断崖の影から、低く唸るような気配がにじみ出る。目を凝らすまでもなく、それは姿を現した。
──咆哮。
岩場を震わせる重低音が、空気を切り裂いた。姿を現したそれは、獣だった。だが、通常の魔獣ではない。巨大な四肢。黒褐色の毛並みには所々に焼け焦げたような血の痕が走り、首から分かれた二つの頭部が、互いに異なる意思を宿して動いていた。左の頭は獰猛な獣そのもの、牙を剥き咆哮を上げている。右の頭は静かに瞬きを繰り返し、冷徹な目でリュウを観察していた。
「……双頭の魔獣。大型個体──変異種か。」
《強化個体。自然発生的な変異の可能性あり。ただし、異常な知性指数を示唆》
「排除する。」
リュウの両手にナノブレードが滑るように展開される。スーツは自動で調整され、胸元の谷間や腰のラインをより鮮明に密着させる。太もも、腰、胸元──すべてが戦闘のために研ぎ澄まされる。
突如、左の頭が咆哮とともに突進した。地面が砕け、岩片が飛び散る。リュウは跳躍し、岩壁を蹴って回避するが、その軌跡を追うように尾が唸りをあげて迫る。衝撃波で岩肌が削り取られ、避けた先すら安全圏ではなかった。
「速い……」
《硬質化骨格確認。喉元と胸部は装甲化。狙うなら脚部か背面関節!》
ゼロの警告が届く前に、左の頭がさらに連撃を仕掛ける。牙、爪、尾──絶え間ない攻撃。リュウは紙一重でいなし、ナノブレードで受け流すが、刃が爪と激突し、甲高い金属音と火花を散らす。刃は弾かれ、手応えはない。
その隙。静かだった右の頭が、動いた。リュウが回避行動を終えた直後の軌跡を読み切り、横合いから噛みつきに迫る。
「──っ!」
リュウは即座に体を捻り、刃で受け流す。だが、その衝撃は凄まじく、彼女の身体は宙を舞い、岩壁に叩きつけられた。スーツが裂け、砂煙が舞い上がる。露出した肌には擦り傷から鮮血が滲み、チリと砂が容赦なく食い込む。
《行動予測一致率80%以上──敵個体、思考的連携》
「……なるほど。役割分担か。」
左の頭は獰猛に猛攻を仕掛け、右の頭は冷静に隙を突く。攻防の分業。回避すれば予測され、攻撃すれば受け止められる。まるで二人の剣士が、一つの身体を使ってリュウを追い詰めているかのようだった。
数合を交わすうちに、岩場は崩れ、空気は獣の熱気と鉄錆のような血の臭いで焦げるように歪んでいく。リュウの呼吸は乱れないが、ブレードの切っ先は黒い血を掠めることすらできずにいた。
「このままでは……押し切られる。」
一瞬、カイの胸に絶望がよぎる。だがリュウは無表情のまま、獣の動きを見極めていた。左の頭が突進する瞬間、右の頭が必ず視線を向け、僅かにその軌道を制御している。完全な連携ではない。互いに制約し合っている。
《干渉検出。行動同調率──完全一致に非ず》
「……隙はそこか。」
リュウは動きを変えた。わざと攻撃を遅らせ、左の爪を紙一重で肩に掠めさせる。赤い線が走り、一瞬、強靭な戦いの熱を帯びた彼女の口元が苦痛に歪んだ。カイが息を呑む。だが、その瞬間、右の頭が即座に動いた──予定調和のように。
リュウは待っていた。両頭の干渉。攻撃と制御がぶつかり合うわずかな齟齬。そこへ跳躍し、ナノブレードを振り下ろす。刃は左脚の腱を断ち切り、腱と肉を絶ち、骨が砕けるような、湿った破壊音と共に、巨体が大地に崩れ落ちた。
「今だ……!」
倒れ込んだ左の頭が右の視界を遮り、わずかな死角が生まれる。リュウは崩れた背を駆け上がり、宙へ舞い上がる。二本の刃が交差する閃光となり──両頭の首元を同時に貫いた。
喉元の装甲は意味を成さず、刃は急所を穿つ。断末魔の咆哮が、肺から溢れる血の泡となって噴き出し、黒い血が霧のように噴き出し、鉄錆のような匂いが、熱気と混じり合って鼻につく。巨体が震え、やがて静止した。
《討伐完了。予測成功率──100%》
リュウは無言で刃を払う。裂けたスーツから覗く肌に、黒い返り血と砂が貼りついていた。彼女は呼吸ひとつ乱さず、ただ次の行程を見据えていた。
「やった……!」
カイが声をあげた──その直後。
リュウの膝がわずかに沈む。裂けたスーツの肩口から赤黒い粘度の高い血が滴り、岩肌に点々と落ちていった。戦闘中は痛覚が遮断されていたのか、表情を崩さなかった彼女の頬が、ほんの一瞬だけ苦痛に歪む。
「リュウ!」
駆け寄るカイの視界に、驚くべき光景が映った。
リュウの身体を覆うスーツ繊維が、淡く光を放ちながら自己修復を開始していた。破れた生地が糸のように伸びて絡み合い、同時に肌の下で無数の微粒子がうごめき、傷を縫い閉じていく。
「うわぁ……!?」カイが思わずのけぞる。
光は焔のようでもあり、聖なる儀式のようでもあった。血と砂に塗れた肩口の傷が、ゆっくりと赤みを失い、淡い光に包まれていく。
「傷が……塞がっていく……」
呟いた声は、驚愕と畏敬の入り混じったものだった。
だが、治癒は一瞬で終わるものではなかった。裂傷はじわじわと塞がっていくが、完全に癒えるにはまだ時間を要する。滴る血は止まりきらず、破れたスーツの隙間から覗く肌の艶めかしさが、スーツの機能低下も依然残っている。
《自己修復モード稼働中。ナノマシン処理速度、規定値を下回る。完全回復まで推定7時間以上》
「……問題ない。」
リュウは静かに答えた。声は揺らぎを見せなかったが、その背に覗く小さな震えは隠せない。
カイは息を呑んだ。
彼女が血を流し、痛みに顔を歪め、それでも立ち上がる姿は、どこか神聖で──その完璧な肢体を損傷するほどに凄絶で、恐ろしくも、美しかった。
黒髪が風に舞い、血と汗が乾いたボディスーツが光を跳ね返す。
《ルート再設定。地形危険域を含む。高度変化と気候不安定化の兆候あり》
「……リュウ。無理しないで……」
か細い声が漏れる。
彼女は振り返らない。ただ、冷たい声で一言だけ返した。
「追跡を継続する。」
淡い光はまだ肩口で瞬いていた。儀式の余韻のように、その光は彼女の背中を照らし続ける。カイの心に刻まれたのは、圧倒的な強さと──同時に、確かにそこにある彼女の脆さだった。
* * *
森が夜に沈みかけていた。
鳥の声はなく、虫の音すら微かで、ひたひたと冷えた空気だけが辺りを満たしている。星の瞬きが木々の枝の隙間からこぼれ落ち、地面に淡い光の網目を描いていた。
その一角の折れた大木の下、乾いた苔の上に、リュウは静かに腰を下ろしていた。戦いの痕跡がそのまま彼女の身体に刻まれている。裂けたスーツ、血の滲む肩口、そしてまだ微かに震える膝。普段ならすぐに姿勢を整えるはずの彼女が、今はゆっくりと息を吐きながら動きを止めている。その仕草ひとつひとつが、消耗しきった完璧な肉体を物語っていた。
カイは少し離れた倒木の上に座り、炎の届かない闇の中からリュウの様子をじっと見つめていた。彼の耳には、あの双頭獣の断末魔がまだこだましているように感じられる。数時間前の戦闘――彼女の“異常なまでの強さ”を目の当たりにしてから、彼はずっと言葉を探し続けていた。
「……ここなら、大丈夫かも」
リュウは小さく呟き、戦場での緊張をそっと解くように指先をほどいた。彼女は立ち上がり、川の方へと歩いていく。月明かりが射し込む小さなせせらぎ。清らかな水音が耳に届き、ほのかに夜の湿気を帯びている。
川辺にたどり着くと、リュウは躊躇なくスーツのジッパーを胸元から下へ滑らせた。裂けた部分が外気に触れ、ひやりとした空気が傷口に沁みる。彼女は淡々と装甲を外し、ナノファイバーのインナーも肩から滑り落とした。その漆黒の繊維は、熱を失った肌から静かに剥がされていく。 背筋から腰まで、血と泥と戦闘の塵がまだこびりついている。それらを洗い流すために、彼女は裸身のまま水面に足を踏み入れた。
月光が水面を砕き、リュウの滑らかな肌に無数の光の破片を散らす。淡く青い光が肩口の傷を照らし、その赤が冷たい水に溶けて薄まっていく。その姿は、水浴びをする神話の女神のように、畏怖を覚えるほどに美しかった。 リュウは無言のまま、両手で水をすくい上げ、首筋から胸元、腹部にかけてゆっくりと流し掛けた。その仕草には色気も意図もなく、ただ“清める”という行為があるだけだったが、水の冷たさに反応して引き締まる肉体は、研ぎ澄まされた芸術品のようだった。
「うわぁ……」
思わずカイの喉から声が漏れる。遠くから見ているだけなのに、光景全体が現実感を失っているように感じられた。戦闘兵器のような少女が、いま目の前でひとりの人間として、血と傷を洗っている。それは神話の一節に迷い込んだかのようだった。
その時、彼女の肩口に淡い光が浮かび上がった。裂けた肌の下で、微細な粒子が踊る。リュウの身体を覆う繊維が、淡く光を放ちながら自己修復を開始した。ナノマシンによる再生処理――まるで神聖な儀式のように、破れた繊維を編み、傷を縫い、肌を閉じていく。
「すごい……!? 傷が……治っていく……」
カイの声は震えていた。彼にはその光が、科学技術というより“祝福”のように見えた。水面に映るその光景は、月光と相まってリュウの輪郭をぼやかし、背中に翼を広げた天使のようにも見せた。
だが、光は完全ではなかった。
肩口の裂傷はゆっくりと塞がっていくが、周囲の皮膚はまだ腫れ、赤黒く熱を帯びている。ナノマシンが組織を再構築するたびに、リュウの顔がほんの僅かに歪む。その痛みに耐える一瞬の表情に、兵器としての仮面が剥がれ落ちた、女性としての脆さが滲んだ。
《再生処理中。筋繊維──30%修復。神経応答系──遅延回復中。全快まであと二時間》
ゼロの声が静かに響く。
リュウはわずかに息を吐き、川の流れに肩まで身を沈めた。水が傷口を撫で、血がゆっくりと洗い流されていく。月光に濡れるその肌は冷たく硬質で、それでいてかすかに震えていた。水面に映る彼女の肢体は、月光と水の作用で濡れた艶を放ち、その冷たい美しさを極限まで際立たせていた。
カイは胸の奥で何かが音を立てて崩れるのを感じた。自分が目の前にいる彼女を「不死身の戦士」だと思い込んできたこと、彼女が流す血や痛みを無視していたこと、その全てに対する悔いのような感情が押し寄せてくる。
リュウはやがて立ち上がり、水を滴らせながら岸へ戻ってきた。まだ完全ではないスーツの繊維が自動で形を整え、濡れて肌に吸い付くように彼女の身体を包み込む。だが右肩から肘にかけては修復が追いつかず、わずかに裂け目が残っている。
「リュウ、歩ける……?」
カイが思わず問うと、リュウは静かに頷いた。
「……大丈夫だ」
短い返答の裏に、微かに疲弊した声色が混じっている。
焚き火のそばに戻ると、カイは彼女のために温かい水を用意し、リュウはそれを淡々と口にした。夜の森は深く、星はゆっくりと西へ傾いていく。火の粉が弾け、二人の間に小さな橙の壁をつくった。
「姉さん……この人、本当に何者なんだろう」
カイは心の中で呟き、焚き火の光に照らされるリュウの横顔を見つめた。濡れた黒髪が頬に貼りつき、微かな汗と水の艶を放っている。 伏せたまつ毛が長く影を落とす。戦場での彼女は冷徹な刃だが、今はただ痛みに耐え、回復を待つひとりの“女性”だった。
やがてリュウは目を閉じ、浅く規則的な呼吸を繰り返し始めた。ナノマシンの光が消え、森の闇がふたたび彼女を包み込む。カイはその様子を壊さないよう、足音を忍ばせながら薪に火をくべる。パチ、パチ……と小さな音。オレンジ色の光が木々の葉を揺らし、リュウの濡れた髪と密着したスーツの艶を柔らかく染める。
「……おやすみ、リュウ」
その声は彼女に届かない。だが今夜だけは、カイは祈るような気持ちでその背中を見守っていた。
月が高く、夜が美しく、そしてふたりの影はゆっくりとひとつに重なりながら伸びていった。




