第4話:ヴァイスの丘
朝霧がまだ道端に残っていた。細く続く山道を、一人の少年と、黒き装束を纏った女が進んでいた。足元の小石が時折転がり、曇天から洩れる淡い光が、二人の影を静かに伸ばしていく。霧が漂う中、冷えた空気が肌を刺し、あらゆる生命の気配が息を潜めていた。その静寂は、まるで世界がふたりの存在だけを許しているかのようだった。
カイの小さな足音が慎重に地面を叩く。彼の瞳には、不安と希望が揺れ動いていた。焼け落ちた故郷の記憶は、心の奥で重く沈んでいる。彼のすぐ後ろ、リュウはまるで影のように無音で歩みを重ねる。濡れた黒髪が霧に濡れて艶を帯び、血と埃に染まったボディスーツはなおも微かな光を反射していた。その動きには、重力さえ拒むかのような滑らかさがあり、戦場の女神のような冷たく整った美しさを宿していた。
「……たしか、この先を抜けたら、“ルーデン村”っていう村に出るはずなんだ。」
カイが指差す先に、小高い丘がかすかに開けていた。声には希望を押し殺すような震えがあり、小さな手が擦り切れた服を握る力に、拠り所を求める心が滲んでいた。
《目的地、仮登録。探索対象:該当人物の生存確認。》
「ルーデン村……」
リュウの声は冷えた金属のように無機質だったが、その赤い瞳は霧に溶ける地形の異変や気配を細かく捉え続けていた。
「前に、誰かが言ってたんだ……姉さんが、ルーデン村に向かったかもしれないって。確かじゃないけど……でも、可能性があるなら、行ってみたくて……」
少年の言葉は曖昧で、足取りは止まらないが、声には疲労と迷いが微かに滲んでいる。
《風向き変化。音響反応低下。空気の粒子濃度に異常──無音域に入った。》
ゼロの機械的な報告が、リュウの内部に響いた。
「ゼロ、警戒モード。前方に敵性の兆候は?」
《検出範囲内に生体反応なし。ただし集落構造物の痕跡あり。破壊状態:75%以上。火災と戦闘痕確認。》
丘を越えたその瞬間、世界が沈黙に支配された。
そこにあったのは、もはや“村”ではなかった。崩れた塀、焼け焦げた屋根、沈んだ井戸。かつての生活の息吹は完全に消え失せ、焦げた木の臭気と、血を孕んだ風が静けさをさらに重く染めていた。音も、匂いも、人の営みすらも断絶された、時間が止まったかのような空間が広がっていた。
「……ここだ。」
風に消え入りそうな声で、カイが呟いた。
彼は駆け出す。焼け焦げた破片を踏みしめ、焦燥に背を押されるように村の中心部へ向かう。その眼差しは、姉の声や姿、その記憶の断片を求めて周囲を貪欲に探っていた。
「姉さん……ここに来たのかな……」
少年の呟きを背に、リュウは一定距離を保ったまま、焼け跡の熱反応を精査していた。指先が焦げた壁をなぞり、燃え残った一枚の文書を拾い上げる。そこに刻まれた文字列は、ゼロのデータベース内のどの言語にも該当しなかった。
《未知の言語。解析不可能。構造は地球圏外と判断。》
焦土に立つリュウの姿は、あまりにも整いすぎていた。漆黒のスーツが濡れた空気を纏い、胸元や腰のくびれに沿って光を帯びるその様は、この世界に存在し得ない異質そのものだった。あまりに美しく、あまりに冷たいがゆえに、不気味だった。
「カイ。姉の名前と特徴を再確認。」
「ユナ……姉さんの名前はユナ。ぼくと同じ赤毛で……少し長くて、よく笑う人。村の人が、“ここに向かったかも”って……そんな感じで言ってたんだ。確かじゃないけど……」
少年の声が震える。希望と恐れが、幼い胸の内で静かにぶつかり合っていた。
「この村の周辺に、姉が向かう可能性のある拠点は?」
「……えっと……たしか、“高い塔がある場所”がいいって、姉さんが前に言ってた気がする。遠くまで見えるから、何かあったらそこを目印にしようって……名前、そう、“ヴァイスの丘”……だったかな……」
《補足情報。北東2キロ、標高差のある地点に石造建造物を探知。用途:監視または通信。人為的構造。》
「そこへ向かう。目的地更新──“ヴァイスの丘”。」
《進行ルート再構築。危険域なし。視界良好、探索に適応。》
リュウは振り返ることなく歩き出す。霧を裂くように静かな足音が、焼け野原の残響に溶けていく。
カイはしばらくその背中を見つめ、焦げた空と風の中で立ち尽くした。そして、灰に沈んだ空へそっと誓うように呟いた。
「……待ってて、姉さん。見つけるから。」
少年は再び歩き出す。小さな足音が、リュウの背に続く。二人の影が、冷たい山道を静かに進んでいく。
* * *
午後の陽が傾きかける頃。二人の影が、苔のついた石段をゆっくりと登っていた。そこは、“ヴァイスの丘”と呼ばれる高台──かつて見張り塔として使われていたという、荒れた石造の構造物が今も残されていた。時間の流れに侵食され、まるで大地の一部と化したその塔は、静かに二人の来訪者を迎えた。
「……ここ、覚えてる……かも」
カイが、遠い記憶を手繰るように呟く。その声には、懐かしさと、それが思い出せないもどかしさが混じっていた。「小さい頃に一度、姉さんと登った気がする。高いところから村が見えた……確か、あの時は……」記憶は断片的で、ところどころ霞んでいた。けれど、それでも彼は“来た”ことがあると、自分に言い聞かせるように、塔の重い石の扉へと手をかけた。
《構造物は全体の45%が崩壊。上層部への侵入は危険と判断。地下構造あり。熱反応……なし。静的状態を維持中》
「ゼロ、内部探索を許可。防御態勢は維持」
《了解。リュウ、物理的危険は低いが、内部環境の不安定化に注意。スーツのフィルターレート調整済み》
石の扉を押し開ける。重い音と共に、冷たい空気が吹き抜けた。中は暗く、空気は重たく澱んでいた。湿った匂いが鼻を刺し、石壁には水滴が滲み、天井からぽつりぽつりと雫が落ちていた。静かだった。あまりにも。そこには、ただ時間の重みだけが存在していた。
「……誰も、いないのかな……」
カイが、肩をすくめながらリュウの後に続く。湿気が高く、ベタつく空気が肌にまとわりつく。リュウの漆黒のボディスーツも、わずかに濡れ、彼女のしなやかな身体の輪郭にぴたりと張りついていた。くびれた腰、引き締まった腿、そして開いた胸元から覗く滑らかな谷間。それは塔の闇の中で、異様なほど艶めいていた。だが、カイはそれに気づいていない。彼の目はただ一つの希望──“姉の手がかり”だけを追っていた。
塔は二層構造になっていた。一階には見張り室らしき空間、そして階段を降りた先に──閉ざされた、分厚い扉があった。
《扉の封鎖は物理式。鍵は破損済み。開放可能。背後警戒──異常反応なし》
「開ける」
リュウが手をかざすと、扉は軋みながらゆっくりと開いた。
──そこには、古びた装置があった。それは、まるでこの世界のものではない。金属の筐体は今も鈍く光を反射し、盤面には魔法陣でも紋章でもない、滑らかな曲線のパネルが配されていた。
「……これ、何……?」
カイが思わず声を漏らす。見たこともない。想像もしたことがない。“像”でも“絵”でもない、“何かが映るもの”──そんな概念すら、彼にはなかった。
《……これ、古代技術の遺構か?いや待て、電力供給反応あり。微弱だが──》
「ゼロ、起動可能か?」
《直接接続を試みる──……リュウ、これは……信号形式が既知パターンに近い。構文も……一部、似ている》
「……地球のものか?」
《この記録装置──地球のものに“似てる”。少なくとも、我々の技術体系と近い基盤を持っている》
リュウは一歩前に出た。彼女の赤い目が細められ、微かに緊張を帯びている。塔に漂う古い空気が、時間そのものを巻き戻しているようだった。
「……この世界に、類似技術が存在するか、あるいは……かつて我々の世界から来た存在か」
《どちらも否定できない。だが、今は目の前の記録装置に集中すべきだ》
カイが、不安げにリュウを見上げる。
「……これが姉さんの、手がかりに……なるの……?」
「確認中。記録装置、現在の動作モードは?」
《音声記録、映像記録──部分的に残存。ただし全体の記憶媒体は劣化。映像、再生可能部分を抽出する》
低く、微かな起動音が鳴る。暗がりの中に、光の粒が舞い、そして──映像が浮かび上がった。
「うわぁ、なにこれ......」
カイが驚くように呟く。それは、村らしき風景だった。何かに追われる人々の姿。そして、逃げる中に、ひとり──赤毛の少女がいた。顔は明瞭ではない。だが、その輪郭、背丈、髪の長さ──
「……!」
カイが、息を呑む音が聞こえた。
「停止。映像フレームを固定、拡大」
《……照合中。カイとの遺伝的近似率、70%以上──姉、ユナの可能性高》
カイの口元が震えた。声を出そうとして、出せなかった。まぶたの奥が熱くなり、でも、涙は落ちなかった。"──姉さんは生きてる"それだけが、今、彼の世界のすべてだった。
再び、旅へ
「追跡方向は?」
《東──山岳地帯へ逃走中。追撃個体は複数。映像、ここで終了》
塔の中に、沈黙が戻る。濡れた石の匂いと、機械の温もりだけが残った。
「……姉さんは、生きてる……」
カイの声は、震えていた。けれど──力強かった。リュウは、静かに頷いた。
「次の探索地点、東の山岳地帯。追跡を開始する」
《ルート再計算中。補給地点不明。地形危険区域へ接続の可能性あり──戦闘準備を強化すべき》
「了解。任務、継続」
塔を出た時、空には灰色の雲が広がっていた。そして、遠くでは雷の音が聞こえたような気がした。旅は、さらに深い領域へと踏み込もうとしていた。




