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第3話:沈黙の村

森は、まるで世界そのものが息を潜めているようだった。風すら止まり、鳥のさえずりひとつ響かない。枝の隙間からわずかに漏れる陽光が、木の葉を透かし、地面にゆるやかな影を揺らす。焦げた土と鉄臭い血の匂いが、まだ微かに残る空気に混じっていた。その静寂は、まるで時の流れさえ忘れ去られたような、重く深い沈黙だった。

カイは、枯れ枝を踏まぬよう、一歩一歩を慎重に運ぶ。小さな足音が、森の静けさをわずかに震わせた。彼は何度も振り返る──そこに彼女はいるか、その影はまだ自分を追っているのか、確かめるように。恐怖と不安が彼の胸を締めつける中、振り返るたび、そこには必ずリュウがいた。

リュウは、森の影と一体化したような気配で歩を進めていた。一切の物音を立てず、黒髪は枝葉に触れることなく揺れ、漆黒のボディスーツは木々の間を滑るように通り抜ける。その動きは、もはや人間の範疇を逸していた。赤い瞳は鋭く前方を見据え、感情を感じさせるものは何ひとつない。

「この森を抜けたら、村があるんだ……たぶん、まだ……残ってる。」

カイの声は、希望というよりも祈りに近かった。言い聞かせるような震えを帯びた言葉。焼かれた家、失われた姉──それでも、リュウの背に追い縋るその眼差しには、わずかな光が残っていた。

《生体反応、特に異常なし。ただし──地表の圧痕と糞跡。大型生物の通過記録、過去24時間以内。》

ゼロの機械的な声がリュウの内部通信に走る。彼女の眉が、ほんのわずか動いた。

「……痕跡から進行方向を推定。警戒レベルを維持。」

冷えた金属のような声が、森の沈黙を切り裂く。だが、その歩幅は──気付かぬほど僅かに、カイの小さな足取りに寄り添うように調整されていた。

やがて木々の密度が薄れ、差し込む光が増えていく。森の影が後退し、前方に開けた視界が広がった。

「やっと森を抜けた……!」

カイが小さく息を漏らす。その視線の先、草原の斜面の向こうに、木柵の輪郭が見えた──村だ。

「っ……!?」

しかし、その安堵は瞬時にして崩れ去る。

斜面に立つ、巨大な影。四肢を大地に突き立てた巨体は、人間の三倍はある。毛皮は剣のように硬質化し、赤く輝く双眸がこちらを射抜く。鋭い爪が土を掘り、唸り声が大気を震わせた。──魔獣。

「うわぁ!?……あいつ、前に村を襲った魔獣だぁ……!」

カイの叫びが、森の沈黙を破る。少年の小さな体が恐怖で硬直し、後ずさる。

《接近戦型。突進動作パターン検出──リュウ、即応を!》

「排除する。」

その一言とともに、リュウが静かに一歩を踏み出した。黒髪が風を孕み、光沢を帯びたボディスーツの胸元は陽光に照らされ、しっとりと肌に張り付くような艶めかしさを放つ。その姿は──戦場に舞い降りた黒き刃。冷たく、美しく、そして死を纏う者。

赤い瞳が、魔獣を捉える。

咆哮。巨体が突進する。だが、次の瞬間──リュウの姿が消えた。

《跳躍──上空! ブレード展開!》

空中に躍り出た彼女の手首から、ナノブレードが展開される。鋭く斜めに振り下ろされ、魔獣の肩を深く裂いた。硬質な毛皮と肉が引き裂かれる音と共に、黒い血が勢いよく吹き上がる。着地と同時に、両脚で下から蹴り上げ、巨体を跳ね上げて地面に叩きつける。土煙が巻き上がり、地が震える。

《心臓部、露出──今だ!》

迷いはなかった。リュウの刃が閃光のように振り下ろされ、心臓を貫き、内臓を掻き混ぜる。魔獣の咆哮が、血の混じった絶叫へと変わり、やがてゴボゴボと潰れるような音を立てて止んだ。そして、静寂が訪れる。

だが──

「リュウっ! 後ろ!─まだいる!」

カイの叫び。茂みを薙ぎ払い、さらに二体の魔獣が現れる。空気が震えるほどの唸り声。カイの瞳に、再び恐怖が宿った。

リュウは一度だけ、彼を振り返る。その眼差しはほんのわずか、彼を"守る"意思を滲ませ──再び駆け出す。左の魔獣が突進。リュウは身体を滑らせるように地を這い、横腹へブレードを突き立てる。肋骨を砕き、内臓を抉り出す冷徹な一撃に、絶叫が響く。返す動きで背中を蹴り、右の個体へ跳躍。牙が肩を掠め、ボディスーツが裂け、鮮血が滲む。裂けた部分から露わになった肌は、滴る血によって妖艶に濡れて見えた。だが痛みは一切無視。旋回、接近──膝蹴り。回し斬り。首筋を断ち──骨を砕き肉を断つ生々しい音と共に、すべてが、一瞬で終わった。

斜面に、三つの巨体が崩れ落ちる。

リュウは、ブレードを収めた。呼吸は乱れず、返り血と汗で艶めくボディスーツが陽光を受け、なおも輝いていた。

「排除、完了。」

その静かな声が風に溶けたその時──

斜面の先、村の木柵の上に、人影が現れる。

「……何だ……?」

「女、か……?おい……あれ、ひとりで……」

「魔獣を──倒した……?」

農具を手にした男たち。布を抱きしめる女たち。武装した兵士らしき者もいたが、皆言葉を失い、その場に凍りついたように立ち尽くす。彼らの視線が集中するのは、魔獣の返り血に濡れ、陽を背に立つ、ひとりの影──天女のように、美しく。そして、死神のように、冷酷に。

カイもまた、村人たちと同じようにリュウを見つめながら、ぽつりと呟いた。

「す、すごい……あの人……」

少年の声には、もはや恐怖や驚きだけではない、言葉にできない感情が滲んでいた。

「本当に……"ひとりで"全部、やっつけちゃった……」

その呟きには、まだ名を持たぬ感情が宿っていた。それは──"この人といれば、生き延びられるかもしれない"。ほのかな希望の温度だった。

リュウの赤い瞳が、村人たちを冷ややかに捉える。だが、その視界の端に──カイの小さな背中が、確かに映っていた。


──


風が止んだかのように、辺りは静まり返っていた。魔獣の巨体が血を流しながら地面に沈み、焦げた大地にその重みを刻み込む。リュウはその傍らに、静かに立っていた。ナノブレードを収めた彼女は、呼吸一つ乱さず、赤い瞳を無言のまま周囲に巡らせる。その眼差しは、次なる脅威を探すように冷徹で、黒髪が夕陽に揺れ、漆黒のボディスーツが鋭く光を弾いていた。戦場に残された静寂が、まるで彼女の存在を際立たせるかのように深く、重く世界を包み込んでいく。

村の木柵の向こうでは、住人たちが言葉を失い、ただ彼女を見つめていた。農具を握る男たち、布を抱える女たち、武装した兵士のような者たちでさえも──皆、雷に打たれたような表情で顔を見合わせ、目の前の現実を受け止めきれずにいた。彼らの視線には、驚愕と畏怖が入り混じっていた。

「……今の、見たか……?」

「魔獣を……あの女の手で……倒した……」

「ヒト、じゃない……あれは……」

その声は風にさらわれるようにかすかで、震えていた。リュウの姿は、あまりにも美しかった。しかしその美しさは人のものではなく、神話の中から抜け出したような──天女のように神秘的で、死神のように冷酷な、現実には存在し得ない輝きを纏っていた。理解を超えたその存在が、逆に恐怖を呼び起こす。彼女が“確かにそこにいる”という現実こそが、村人たちの中に静かに染み渡っていく。

「おい……こっちに向かって来るぞ」

その呟きが引き金となり、ざわりと緊張が走った。

「武器を──」

「や、やめておけ、刺激するな!」

「だが、あれが魔族の手先だったら……!」

「だとしても、あんな魔獣を一撃で仕留める相手に勝てるはずがない!」

恐怖と理性、警戒と安堵、疑念と理解──相反する感情が彼らの中でぶつかり合い、誰の手も農具や剣から離れることはなかった。けれど、誰一人として動くことはできなかった。リュウは、まるで戦場そのものを支配するような、圧倒的な威圧を放っていた。

その最中、小さな影が彼女の隣に寄り添った。

「や、やめて! この人は、ぼくを助けてくれたんだ!」

カイの声が風に乗って村人たちへ届く。痩せた身体でリュウの前に立ちはだかるその姿に、擦り切れた服と震える足が痛々しい。だが、その声には恐怖を超えた意志の力が宿っていた。少年の瞳には、逃げるのではなく“選び取る”決意が燃えていた。

「ぼくの……村が襲われて、みんな死んで……この人が、ぼくを守ってくれたんだ!」

その言葉に、村人たちの間にざわめきが起こる。

「カイ……? カイなのか……?」

「生きてたのか……!」

「一人で逃げたって……もう、だめだと思ってたのに……」

安堵と混乱、再会の喜びと戸惑いが複雑に交錯し、彼らの視線は再びリュウへと向けられる。その瞳に宿る感情は様々だが、彼女は微動だにせず、ただ赤い瞳で一人一人を見つめていた。その無表情は、感情を押し殺しているのではなく、初めから何も持ち合わせていないかのように冷たかった。

《敵性反応、無し。ただし警戒レベルは高。接触は慎重に行え。》

ゼロの機械的な通信が彼女の思考をかすめる。リュウの眉が、ほんのわずかに動く。

「ゼロ。任務継続。情報取得のため、村への接近を試みる」

《了解。防衛反応が出た場合、即時退避ルートを提示する》

リュウは一歩だけ、静かに前へ進んだ。その足音は、まるで空気を断ち切るように重く響く。村人たちは息を呑み、次の瞬間を待つように動けずにいた。全ての視線が彼女に注がれる中、リュウは依然として戦場の中心にいた。

だがその空気を、再びカイの声が切り裂く。

「お願い、リュウ。ぼくを……この村から連れてってほしい」

焼け焦げた風が吹き抜け、夕陽が遠くの空を赤く染める中、少年の小さな背中に宿る決意が、ゆっくりと世界を変えようとしていた。


夕陽が空の端を焦がし、焼けた草の残り香と血の染みた風が、静かにリュウの黒髪を揺らしていた。彼女は村の外れ、小高い丘の上に立ち、遠巻きに見つめる村人たちの影を無言で捉える。誰も近づこうとはしなかった。ただ一人、カイだけが、ためらいもなく彼女に歩み寄る。少年の背に刻まれたものは、恐怖でも悲しみでもなく、戦場を生き延びた者の、ひとつの“意志”だった。

「……この村、もう……安全じゃないんだ」

その声はか細いが、芯のある響きを持っていた。恐怖と喪失に囚われていたはずの瞳に、今は揺るがぬ光がある。「魔族や魔獣がまた来たら、きっと……今度こそ全部終わる。この前みたいに、誰も助けに行かなくて……きっとまた誰かが……」

リュウは何も答えない。だが、彼女の赤い瞳が、まっすぐカイの言葉を捉えていた。反応も、同情も、理解の表情すらない。けれどその沈黙は、少年の声を拒むものではなかった。夕陽を受けたボディスーツが微かに光を返し、血と埃に塗れた姿のまま、彼女はそこに立っていた。まるで戦火の只中に降り立った審判のように、沈黙がすべてを見据えていた。

「それに、ぼく……姉さんを探さなきゃいけないんだ。どこかで生きてるかもしれない。……あの時、一緒に逃げられなかったから……」

カイは唇を噛みしめ、小さな拳を握る。その肩にかかるのは、子どもには重すぎる記憶と後悔。だがその重みを背負ってでも、彼は前に進もうとしていた。夕陽が彼の頬に残る涙の痕を照らし出し、その影が、彼の意志をさらに強く浮かび上がらせていた。

「ここにいても、探しに行けない。だから……連れてって。お願い、リュウ」

沈黙が落ちた。風すら止まり、少年の言葉だけが、その場に深く残った。リュウはわずかに首を傾げる。思考の癖か、それとも内部演算の兆しか。彼女の赤い瞳が、カイの決意を宿した瞳と交差する。

《対象カイの目的:家族の捜索。心理動機に基づく行動決意──高》

「……目的は、姉の捜索か」

「うん」

その瞬間だった。

「待て!」

鋭い声が風を裂くように響いた。木柵の向こうから、数人の村人たちが駆け寄ってくる。その表情には驚きと怒り、そして計り知れない不安が刻まれていた。

「カイ、お前……何を言ってる! 子どもが戦場を歩いてどうするつもりだ!」

「お前の両親は……あの夜に……もう戻らないんだぞ! それでも、まだ……村には“生きる”場所がある!」

「その女は異物だ! 魔族の手先かもしれない!」

声が重なり、責めるように少年へと降り注ぐ。それは正しさでできた言葉たちだった。だが、今のカイの心には、何一つ響かなかった。彼の視線は、ただまっすぐにリュウを見つめていた。その瞳には、すでに“誰と行くのか”という問いに答えが出ていた。

「違う!」

少年の叫びが、村人たちの声を断ち切る。その声には怒りも、動揺もなかった。ただ、ひとつの事実が宿っていた。

「この人は……誰も助けてくれなかった戦場で、ぼくを殺さなかった。兵士も、魔族も、みんな戦ってたのに──この人だけが、ぼくを守ってくれた!」

村人たちの視線が、一斉にリュウへ向く。その姿は、夕陽に照らされ、彫像のように静かで、冷たい美を纏っていた。言葉も、感情も、何ひとつ返さない。ただそこにいるだけで、“異物”としての存在感が空気を切り裂く。

「誰も、行かないなら……ぼくが、姉さんを探しに行く」

その言葉は決意ではなく、もはや宣言だった。カイの小さな体が、沈黙を支配する戦場の中心に立つ。そして、彼は再びリュウを見つめて言った。

「お願い、リュウ。連れてって。姉さんを探したい。どこまでも、行くから」

風が止まった。夕陽の光が焼けた草原を染め、リュウとカイの間に、音もなく時間が流れる。

リュウは視線を落とし、静かに瞬きをした。それは、彼女にとって唯一“人間らしい”揺らぎだった。

「同行を許可。条件:情報提供の継続」

《KAI-001、任務目的に基づく随伴、承認》

「……ありがとう」

カイが顔を上げる。そこに涙はなかった。あるのは、ただ揺るがぬ“意志”。小さな拳が、固く、強く握り締められる。

村人たちは、誰も声をかけなかった。罵倒も、説得も、もうなかった。その沈黙は、まるでふたりを見送るための“別れ”のように、静かに幕を引いていく。

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