第2話:少年との邂逅
焼け焦げた木々が、まるで死の彫刻のように立ち尽くす。その無数の枝は、空へ向けられた無言の叫びのようだった。血の混じった煙が紅の空を漂い、焦げた肉の匂いと煙の香りが鼻腔を刺す。瓦礫と灰に埋もれた大地は、まるで生命そのものを拒絶するかのように、重い沈黙に支配されていた。
少年の名──カイ。
彼は瓦礫の陰に小さな体を押し込め、裂けた布を握りしめながら、ただひたすらに息を殺していた。心臓が胸を叩く音が、まるで戦場の太鼓のようにうるさく響く。敵に見つかるのではないか──そんな妄想が、彼の全身を縛りつけ、呼吸すらも恐怖に支配されていた。
遠くで続いていた爆音や悲鳴が途絶え、代わりに響く新たな音。それは金属を思わせる、冷たく無機質な足音だった。影が、ゆらりと近づいてくる。それは人の姿をしていたが、決して人ではなかった。黒い衣に包まれた女が、炎と煙の帳を切り裂いて歩み寄る。その動きには、重力すら干渉できないかのような滑らかさがあり、幽霊めいた静寂を纏っていた。肩まで流れる黒髪が乾いた風に靡き、闇よりも深い艶を宿す。開いた胸元の隙間からは、汗と血に濡れた肌が微かに覗き、微細な光が生まれては消えていく。荒廃した戦場においてなお、彼女の姿は──神話の女神のように美しく、そして恐ろしかった。
「……動くな。」
低く、静かな声。だがその響きは刃のように鋭く、カイの全身を貫いた。背筋が凍りつき、恐怖で肩が震える。彼の指先が裂けた布を必死に握りしめ、呼吸すら忘れてしまいそうになる。恐る恐る、顔を上げる。
そこに立っていたのは、あまりにも完璧な存在だった。
その美しさは生のものではなかった。完璧に構築された顔立ちは彫像のように冷たく、感情を読み取る隙を与えない。赤く光る瞳は、まるで戦場そのものを映す鏡。ボディスーツは血と塵に塗れてなお、曲線に沿って筋肉の起伏を際立たせ、戦闘の痕跡をまるで美しい装飾のように映し出していた。
「……こっ、こっちに来るな……っ。」
カイの声は恐怖にかすれ、喉の奥から搾り出されるように漏れる。震える唇から発されたその言葉は、風に掻き消されそうなほどに弱々しい。少年の瞳には絶望が渦巻きながらも、どこかに、まだ消え去っていない希望の灯が揺れていた。
《心拍数上昇。恐怖反応。戦意は確認されず。》
リュウの内部通信が作動する。人型戦闘生体兵器【LYU-Type00】──彼女の思考回路は、瞬時に"戦闘"から"情報収集"へと切り替わった。赤く光る瞳が、冷静にカイの震える姿を分析する。
「ゼロ、通訳プロトコルを起動。音声翻訳、適用。」
《了解。ローカル音韻パターン解析開始──完了。基幹言語を仮定し、翻訳モードへ移行。》
リュウはゆっくりと膝を折った。座り込んだカイと視線を揃えるように、無音の動作で身を沈める。その動きは精密機械のように滑らかで、あまりに完璧だったために、かえって人間らしさを遠ざけていた。仮面のように無感情な顔。だが、その瞳の奥には、微かな"ゆらぎ"のようなものが確かに灯っていた。
「質問。お前はこの地域の住民か?」
「……っ、え……?」
言葉が通じた。その事実に、カイの心が一瞬だけ安堵に傾いた。だがリュウの声はあまりに無機質で、そこには優しさも温もりもなかった。カイの小さな手が、布をさらに強く握りしめる。
「戦闘の発生理由は? 敵対勢力の名称と、支配構造を答えろ。」
「わ、わかんない……! 村が……燃えて、急に……誰が敵かもわかんなくて……!」
涙混じりの言葉が、断片的に零れ落ちる。声は震え、喉がひりつき、呼吸すらうまくできない。小さな肩が、壊れかけた建物のように揺れ続けていた。そして、目の前の女は──死そのもののような存在感で、少年の心を締めつけていた。
《リュウ、対象は幼年。詳細な軍事情報を保持していない可能性が高い。》
ゼロの冷静な声が響く。リュウはわずかに頷くと、合理的判断のもと、瞬時に方針を修正した。再び、赤い瞳がカイの姿を捉える。
「……質問を変更。この地域における生存者の所在、避難拠点、構造物の配置……お前が知る限りの情報を提供しろ。」
沈黙。
カイは俯いたまま、答えなかった。恐怖以上に、心そのものが壊れかけていた。焼け落ちた村、消えた姉、裏切った兵士たち──少年の世界はすでに、瓦礫に埋もれていた。
「……お姉ちゃんが……いなくなって……ぼく、ひとりで……ずっと……」
ぽつりと、声が落ちる。喉を詰まらせ、涙が頬を伝う。「もう、誰も信じられないんだ……味方の兵士だって、逃げたんだよ……っ。お姉ちゃんも……!」
リュウは、黙って聞いていた。赤い瞳には感情の影は映らない。だが、彼女の指先が、ほんのわずかに震えた──少年の言葉が、機械仕掛けの内部に小さな波紋を描いたかのように。
数秒の分析の後、リュウは判断を下す。
「……戦闘力を喪失した民間人。処置保留。」
彼女は立ち上がる。ボディスーツの傷口は、ナノマシンの光に包まれながら静かに修復されていく。風にたなびく黒髪が、戦場の残響のように揺れた。
《どうする? データ収集には悪くない対象だ。》
「保持。最小限の保護下に置く。」
《了解。以後、随行者として登録する。識別コード──【KAI-001】。》
リュウは無言で手を差し出した。人工皮膚に覆われた指先。完璧に造形されたその手は、冷たく、美しく──だが、温もりはなかった。それは、これまでに幾多の命を刈り取ってきた刃と同じく、ただ機能のために存在する"道具"だった。
カイは、ためらいながらその手を見つめる。恐怖と絶望の中、それでも揺れる希望があった。少年の小さな手が、震えながら、そっと伸びる。
──その瞬間、彼の中で、何かがかすかに揺らいだ。
リュウの手が、カイの指先を包み込む。冷たい感触が、彼の震える手に伝わる。だが、その冷たさには、奇妙な安心感があった。彼女の赤い瞳が、少年を見つめる。まるで、何かを見極めるかのように、静かに、深く。
戦場の煙が、紅の空へとゆっくり溶けていく。その中で──リュウとカイは、ただ二人、瓦礫の中に立っていた。
* * *
焼けた大地を、乾いた風が吹き抜けていく。かつて無数の命が交錯した戦場は、今や重い静寂の荒野と化していた。焦げた木々の残骸は、まるで死を悼むモニュメントのように不気味に立ち尽くし、巻き上げられた灰が瓦礫の隙間を掠めて消えていく。血と硝煙の匂いが空気に溶け込み、紅の空の下で、世界の終わりを静かに囁いているようだった。
この終末的な光景の中、動くものはほとんどなかった。ただひとつ──漆黒のボディスーツに包まれた影と、その隣を寄り添うように歩く小さな背中だけが、わずかな生命の香りを纏っていた。
リュウ。均整の取れた歩調で、正確に大地を刻む。その動きには一切の無駄がなく、流れるような滑らかさがあった。黒髪が風に揺れ、漆黒のスーツが鈍い光を返す。倒れた兵の骸も、砕けた武器も、彼女の進行にとっては単なる背景に過ぎなかった。
そのすぐ後ろを、カイが小さな足で懸命に追いかける。息は荒く、裂けた布を握りしめる手は震えていた。焼け落ちた村、失われた姉、裏切った兵士たち──彼の小さな世界は、すでに瓦礫と化していた。それでも、リュウの背に縋るその姿には、かすかな希望の光が宿っていた。
「……村まで、どれくらいの距離だ。」
リュウの声は、冷えた金属のように無機質だった。荒れた大地をものともせず、まるで数式を解くように正確な歩みで進んでいく。赤い瞳は、前方を捉えたまま、感情を排したまま情報を求めている。
「う、うん……えっと、たぶん……半日くらい?」
カイの声は、疲労と不安でかすかに震えていた。縮こまった肩は、重い絶望を背負っているように見えた。生き延びるためにただ逃げてきた彼に、正確な距離感などわかるはずもなかった。
《"たぶん"とは不確定表現。精度不十分。》
ゼロの声が、リュウの内部通信に機械的に響く。その音調には、わずかな苛立ちのような揺らぎが混じっていた。リュウの眉が、かすかに動く。
「……方向は?」
「こ、こっち……だと思う。たぶん、森の方に道が……まだ残ってたら……だけど……」
再び風が吹き抜け、リュウの黒髪がふわりと揺れた。裂けたボディスーツの隙間から覗く肌には、血と埃がこびりついている。カイの言葉は曖昧で、自信のなさ、そして深い疲労が滲んでいた。それでも、リュウは問いを止めない。彼女にとって情報は、生存と任務遂行に直結する資源だった。
《対象は12歳前後の人型個体。社会的知識・戦術判断能力、極めて限定的と推定。》
「理解している。使える情報だけを抽出する。」
リュウの声は、任務を遂行する装置のように平坦だった。だが、ゼロの声がその無機質なやり取りに、静かな波紋を投げる。
《……それでいいのか?本当に"この状況"を理解しようとしていないのでは?》
リュウは応えない。赤い瞳は前を見据え、足音だけが静寂の中を刻む。しかしその沈黙には、水面に広がる一滴の波紋のような微かな"揺らぎ"があった。
「……あのさ。」
不意に、カイが口を開く。風よりも小さな声。しかし、その言葉には確かな意志が込められていた。リュウの歩調が、わずかに緩む。
「さっき……なんで、みんな倒しちゃったの?兵士たちまで……」
リュウは止まらず、淡々と返す。
「敵意を確認した。排除は最適行動。」
「でも……それって、味方だったかもしれないのに……」
その一言に、リュウの視線が少年に向けられる。赤い瞳と、怯えながらも訴える瞳が交錯する。その奥に、微かな波紋──機械的な演算では測れない、何かが揺れた。
「味方とはなんだ?」
「……え?」
「敵性反応のない個体。あるいは、同一目標のために協力関係にある存在──それが定義か。」
「そ、それは……たぶん、そう、だけど……」
カイはうつむいた。言葉としては正しい。だが"味方"には、本来もっとあたたかい意味が込められている──絆、信頼、そして寄り添う温度。彼女の声には、そのどれもがなかった。
《言葉の意味は合ってるが、ニュアンスは絶望的にズレてるな……》
ゼロのぼやきが、通信回線を走る。だがリュウは反応せず、静かに歩を進める。風が彼女の黒髪を撫で、胸元に残る血の跡が、白い肌にかすかな軌跡を描いた。
「質問。敵性生物たちの呼称は?」
「……え、敵性って……"魔族"たちのことだよね……そう、魔族ってみんな呼んでた……」
「魔族。仮称登録。」
《データ反映完了。"魔族"──敵性種族と暫定定義。》
「四足の獣の個体は?」
「あれは……でかいやつは……"魔獣"って……そう言ってた。」
「魔獣。補助個体として記録。」
言葉は曖昧。だが、それこそが"現地語"であり、この世界の"生きた情報"だった。震える少年の声が、恐怖のなかで、世界の断片をリュウへ伝えていく。赤い瞳がわずかに細められ、情報が処理される。
《周辺地形、未整備。森林帯接近中。視界制限──警戒レベル、上昇。》
リュウの視線が周囲を舐めるように巡る。ナノブレードの収納された手首は、いつでも展開可能な状態で待機していた。
「継続行動。村の座標を取得し、現地の社会構造を解析する。」
「そ、そんな難しいこと……ぼくには、よくわかんないけど……」
力なく返すカイに、リュウは容赦なく言葉を続ける。
「案内だけでいい。お前の判断で、避けるべき場所があれば即時伝えろ。」
「……う、うん……わかった。」
その頷きには、ほんのわずかだが、確かな力が宿っていた。怯えはまだ色濃い。だが、リュウの背に追いすがる瞳には、かすかな"信頼"の種が芽吹き始めていた。
「その代わり……」
カイの声が、風に紛れるように小さく響く。リュウの歩調が、ごくわずかに止まる。
「条件提示か。許可。」
「ぼ、ぼくを……もう、誰にも、殺させないで。」
戦場の静寂が、わずかに震えた。
少年の瞳には、なお恐怖が残る。だが、その奥には確かな決意が宿っていた。リュウは足を止め、ゆっくりとカイを振り返る。赤い瞳が、まっすぐに交差した。
「理解。保持対象の継続保護を最優先条件に設定。」
《……さすが、戦闘マシン。任務定義は完璧だな。》
ゼロの声には、皮肉めいた響きがあった。だが、リュウの顔には相変わらず、何の表情もなかった。黒髪が風に揺れ、ボディスーツが光を反射する。
ただ──彼女の歩調は、ほんのわずかに変わっていた。
少年の短い足に合わせるように、リズムが微調整されていた。カイはまだ気づいていない。だがその背中に向けられた歩みは、確かに彼を"守る"意思を帯びていた。
焼けた大地を、風が吹き抜ける。
紅の空の下──黒い影と小さな背中が、静寂の荒野を進んでいく。




