第15話:異界都市シェルザン
幾重にも重なる石造りの街壁が、森の木々の間から姿を現した。陽に濡れた苔むした石は、幾世代も人々の営みを護ってきた堅牢な意志のようで、風に鳴る鎖の音が遠くまで響く。城門の巨大な影が森の緑を飲み込み、見上げれば空を裂くような塔と櫓が空気を押し返していた。都市シェルザン──異界の商都。
リュウとカイが近づくにつれ、視界には多種多様な者たちが交差していった。肩の高さまで伸びた角を持つもの、蛇のような瞳を輝かせるもの、耳が長く背に羽を持つもの、さらには地を這う獣の姿のままに荷を背負うものまで。
「……な、何だあの耳……!? えっ、尻尾……? 爬虫類……いや、え、四つ足……翼まで……?」
カイが思わず立ち止まり、瞳を丸くする。
《リュウ、これは……情報の混濁レベルが限界突破してる……! ちょっと待って、今スキャンしてるけど……どいつもこいつもデータベース外! 参照元ゼロだ!》
リュウはゼロの興奮を一切無視し、無言で門の陰影をくぐった。巨大な木扉がうねるように軋む音の中、街の中枢へと一歩を踏み入れる。
そこは、混沌と秩序が同居するるつぼだった。
石畳の大通りは幅広く、左右に連なる建物は多層のアーチと尖塔でつながれ、窓から溢れる光が色彩の波を街路に投げかけている。馬車が轟音を立ててすれ違う隣を、爬虫類の四足獣が荷を引き、遠くの空では光の球がふわふわと浮かびながら道を照らす。塩漬け肉の香りと香辛料の刺激臭、異国語の交錯、靴音や蹄の音が織りなす混響が耳を満たした。
商人、旅人、兵士、流れ者。誰もがこの混沌を“日常”として受け入れている。
《リュウ、これは完全に……“異界都市”だな。地球の文明圏に該当なし、類似文化なし、過去例との照合率0.003%……いや、ゼロに等しい……》
「当然。これは“未知の戦場”だ」
《いやいや、もうちょい感動とか動揺とか……っていうか、お前本当に怖いわ》
リュウの肩にかかるボロ布は盗賊から奪ったものだが、その布の下で微かに覗く漆黒のボディスーツがあまりに完璧な曲線を描いているため、逆に視線を集めていた。布の擦り切れた端から覗く肌は朝光を受けて白く、歩くたびに人々の目が吸い寄せられる。
「目立ってない……わけじゃないかもな……」カイがぼそりと呟く。
通行人たちの視線には、驚き、欲望、そして警戒心が交錯していた。人々が一瞬だけ息を止め、またすぐに日常の雑踏に戻っていく、その緩急が異様な緊張感を生んでいる。
「情報収集、どこで?」
《こういう街では“公的施設”は言語も流儀も未知すぎる。まずは民間の集まる場所……飲食店、つまり“酒場”が妥当かと》
「了解。案内を」
《あいよ、酒の匂いと騒ぎの音をスキャン中……お、あった。北通りの角、建物に“猪の横顔の看板”……名称不明だが典型的“酒場”だ》
リュウは無言で歩き出す。その背にカイが慌ててついていく。街路は露店の声と楽器の音色で賑わい、香草を巻いたパンや、淡い光を放つ果実が並ぶ市場を通り抜けるたびにカイの感覚は圧倒されていった。
やがて、店の前に辿り着いた。
木製の扉、ぶ厚い板と鉄の補強。中からは酔客の笑い声と何かがぶつかる音が漏れてくる。外壁には濃い赤の布が掛かり、窓からは揺らめく暖光がこぼれていた。
「……リュウ、入るよ?」
「……問題ない」
ギィ……とカイが扉を押し開くと、鼻腔を突く濃密な空気が押し寄せてきた。獣の毛皮、燻製肉、酸味の強い酒の匂い。そして混じり合う異種の言語が壁を震わせる。
長机に群がる客たちの中には、ヒト族だけでなく、獣の耳を持つ者や、鱗の皮膚を持つ亜人の姿もいた。片腕を機械義手に換えた者や、背中に羽根を束ねた者もいて、光る瞳でこちらを観察している。
「……すごい……ここ、まるで……」
「戦場。別種の」
リュウはそう言いながら、カウンターの一角へ歩を進めた。壁には異国の剣や角杯が飾られ、梁には乾燥させた香草が吊るされ、床には砂がまかれていた。
数秒も経たぬうちに、奥から恰幅のいい男が現れる。薄く禿げ上がった頭、油じみたエプロン、口には噛み葉の一片を咥えている。
「いらっしゃい。……ああ? 見ない顔だな、あんたら」
リュウは真っ直ぐに見つめ、切り出す。「女を探している。年齢は十代後半。肩までの髪、灰銀色。痩身。瞳は青」
「……へえ?」男の目が細くなる。「名前は?……で、何を頼む?」
「……?」
「酒か飯か……って、まさか“注文しない”ってことはねえよな?」
リュウは一瞬だけ黙り、振り返ってカイを見た。「お金は?」
「……え?」カイもまた、理解が追いつかなかった。
《うわぁ……リュウ、完全に忘れてたでしょ。現地通貨、持ってないわけだ》
「では、対価がない。情報は得られない」
「……あんたら、冗談で来たのか? ここは飲み屋ぞ。タダで話を聞こうなんざ──」
「おいおい、なんか揉めてんのか?」粗野な声が背後から飛ぶ。
男が立ち上がり、二人の仲間が後ろに続く。
「お嬢ちゃん、どこの出か知らねぇが──そんなカッコしてたら、襲ってくれって言ってんのと同じだぜ?」
「俺らが相手してやろうか?」
笑いが起きた。椅子が軋み、空気が緊張を孕む。だがリュウは、まったく反応を返さず、ただ静かに振り返った。
「排除対象、確認」
「……へ?」
リュウが、ほんの一歩だけ前に出た。それだけで空気が変わった。テーブルの上の杯が震え、周囲の視線が凍りつく。
次の瞬間──一人目の男が顔面から机に叩きつけられていた。骨の砕ける鈍い音、椅子が跳ね飛び、酒が宙に散る。
「がっ……!? な、なにを──ッ」
もう一人が慌てて掴みかかるが、リュウの手首が素早く返され、腕が背中へねじ上げられる。鈍い悲鳴が酒場のざわめきを一瞬で断ち切った。
「いだだだだだっ! 待って、待って! 降参、降参!!」
三人目が引きつった顔で逃げようとしたが、膝を蹴られ床に転がった。呼吸を奪う精密な一撃で、声が掠れ、ただ必死に這いずる。
「次は、命になる」冷静な声が、彼らの背筋を凍らせる。
チンピラたちは、二度と誰にも絡もうとはしなかった。床に這いつくばり、震える手で自分の喉を押さえながら後退していく。
周囲が沈黙に包まれる。壁際の客たちがわずかに腰を浮かせ、互いに目配せしながら距離を取った。天井の梁で吊るされていたランタンの光が、リュウの頬を冷たく照らす。
ゼロの声だけが、脳内に平然と響いていた。
《リュウ、あの一番奥の酔っ払い風の男。さっきからこっち見てる。あいつだけ周りの奴らと目つきが違う。もしかしたら情報を持っているかもしれん》
「……名を」
リュウがゆっくりと、倒れた男たちを見下ろす。
「……な、何だよ……!」
「名と、居場所。誰がこの街の情報を持っているか」
「……っ、オレらは……ただのチンピラだ……でも……! あそこの……奥の……よく店に来てる……あいつが……!」
リュウは振り返った。ゼロの提示した“それらしい男”と一致する。
そして最後に、チンピラの懐から床に転がった革袋を拾い上げた。じゃらり、と硬貨の音がする。手のひらにずしりとした重みが伝わり、周囲の空気が再びざわめく。
「対価、回収」
「うわぁ……それもう、完全に強盗だよリュウ……」カイが小さく呟く。
だがリュウは答えず、金貨の重みを確かめるように革袋を腰に下げた。店の空気はまだ緊張を解いていない。どこかで誰かがごくりと唾を飲む音がした。彼女はそのまま、奥の男に向かってゆっくりと歩みを進めた──。