第14話:森を抜けて
戦場を後にし、二人は静かに森を抜けた。
数時間前まで血の匂いに満ちていた空気が、ここでは湿った苔と枯葉の匂いに変わっている。地面には幾筋もの獣道が交錯し、夜露を含んだ草が足首に絡みつく。足を進めるごとに、空気が重くなる。森の奥で鳥の声も絶え、沈黙だけが世界を包んでいた。
やがて、かつて誰かが焚き火をしていた痕跡が現れた。黒く焦げた枝と、崩れた石囲い。そして、その中央に小さな布切れがひらりと落ちていた。風にさらされ、ほつれかけたその布には、淡い色糸で“ユナ”と刺繍されている。
カイの足が止まり、喉の奥から漏れた声は、震えていた。
「……姉さん……」
リュウは布を拾い上げ、指先で感触を確かめる。刺繍の糸目、消えかけた筆跡、端の擦り切れ具合。それは確かに、誰かが残した“ここにいた”という証だった。
《繊維劣化、環境要因による変質──ここで何かがあった》
《火床の温度痕、複数の重心。逃走痕跡なし。……自発的離脱か、追われた可能性あり》
「ここで痕跡は消えたか……」
リュウは静かに呟く。
「逃げたんだ。……姉さん、ここにいた。でも……追われて、行き先を消したんだ」
カイの拳が布を握りしめる。その指先に力がこもり、白くなる。
その時、リュウの赤い瞳が林の奥に向けられる。
「……この先に、断続的な衝突音。金属音混じり。戦闘か」
《人為戦闘か? 二輪の軋み音も……荷馬車が巻き込まれてるな》
「……誰かが、襲われてるの?」
「……放っておけ」即断。だが──
《リュウ、荷馬車があるってことは、この先に“街道”があるはずだ。もしユナの痕跡が途絶えたなら、その先を通った者が情報を持っている可能性がある》
「……戦術上、有効なら排除も選択肢」
《選択肢の獲得、それが今回の任務だ。つまり“聞ける相手”を残せよ?》
リュウは無言で向きを変える。その背を、カイが追った。
木々を抜け、斜面を駆ける。湿った腐葉土が靴底に張り付き、枝葉が頬を掠める。霧の奥、微かな叫びと笑い声が混じる方向へ、リュウの足取りは迷わなかった。
《前方、視界確認》
視線の先に、粗末な荷馬車が横倒しになっていた。荷袋が散乱し、車輪がひしゃげ、商人と女が数人に囲まれ、護衛と思われる者たちはすでに地面に倒れている。
「金目のもんだけ取れ! 女は売る! ぐへへッ!」
「おい、やめてくれぇッ!」
悲鳴と笑い声。無秩序な暴力の中心に、盗賊たちがいた。粗末な革鎧に錆びた武器、皮袋に吊り下げた戦利品。彼らは牙をむき出しにした犬のように、無防備な獲物を取り囲んでいる。
その場に、ひとつの影が“すうっ”と滑り込む。草が揺れ、風が止む。空気の流れが一変し、盗賊たちの笑い声が一瞬遅れて止まった。
「ん?なんだぁ? おい……おい? 女が来たぞ!」
一人の盗賊が振り返り、リュウを指さす。
「おいおい、誰だオメーは?何しに来た」
「ふはっ、いい女じゃねぇか。そのツラ、こいつも捕まえて売っちまおうぜ!」
歯の抜けた笑い声。皮袋の中で金貨が鳴る音。だが──
「──排除する」
リュウの声が、静かに空気を断つ。
《敵性反応:全員。武装劣化。リスク低──殺傷許可》
次の瞬間、黒い閃光。
一人の男の腹部が裂けた。「ッあぎゃああああああッ!!」
内臓が溢れ、叫ぶ間もなく倒れる。振り返った別の男の首が、次の刃で跳ね飛ぶ。喉から噴き出した血が、隣の盗賊の顔に飛び散る。
「ッヒィッ……ヒッ、ヒィイイ!!」
逃げようとした男の膝を断ち、うずくまったところに刃が振り下ろされる。鮮血が土を濡らし、甲高い金属音が森に反響する。
足元に転がる死体。裂かれた腹。開いた喉。リュウは音もなく進みながら、ひとりひとりを“消して”いく。甲高い悲鳴が空気を震わせ、野鳥が森の奥へ飛び去っていく。
剣を構えた男が絶叫する。「ふ、ふざけやがってえぇぇぇッ!!」
その直後、縦に割られる。胴体がゆっくりと左右にずれ、赤黒い内臓が地面に滑り落ちる。
リュウの動きは、もはや斬るというより掃除だった。雑草を刈るように、命を断つ。呼吸も、まばたきも、戦場のどの音にも惑わされない。
残り一人──リーダー格の男が後退しながら叫ぶ。「か、勘弁してくれぇ! お、俺たちゃただの……!」
声を遮るように、ブレードが喉元を斜めに断つ。血が噴き、身体が折れて倒れた。喉を裂かれたまま手を伸ばした男の指先が、リュウの膝元で力なく落ちる。
沈黙。
それが戻ったとき、生き残った商人が膝をつき、リュウを見上げていた。顔は恐怖で青ざめ、唇が震えている。
「……い……命の恩人……」
いや、目を合わせることすらできなかった。視線がぶつかった瞬間、自分が“次の対象”になるのではないかという恐怖が胸を締め付ける。
「お、お嬢さん……いや、ありがとう……
私たちは、この先の街に行くところだったんだ」
カイが振り向く。「街……?」
「ええ、“シェルザン”っていう交易都市が。ここからすぐですよ」
商人の声はまだ震えていたが、その瞳にはかすかな安堵が宿っていた。
《リュウ、シェルザン──情報密度、上昇。探索効率、最大化される可能性あり》
リュウは黙って頷く。
「……行こう」
「待って!リュウのその格好は……目立ちすぎじゃない?」カイが遠慮がちに呟く。
漆黒のボディスーツ、開いた胸元から覗く谷間。街中でこの姿では、“死神”としても目立ちすぎる。陽の光がスーツの裂け目から覗く肌を白く照らし、その輪郭がさらに強調されている。
「そこの布を……適当に羽織っておくといい。目立たないように」商人が盗賊のマントを指さした。
リュウはそれを拾い、肩に掛ける。汚れた布が、彼女の姿を少しだけ“人間”に変えた。血の匂いを帯びた布が、なお温もりを持って肩に重みを伝える。
「……出発」
そう言った彼女の背を、カイは黙って追った。森の奥から街道へ続く道。そこには、まだ知らぬ世界と、新たな死の予感が待っていた。