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第10話:冷たき月の下で

森が夜に沈みかけていた。

鳥の声はなく、虫の音すら微かで、ひたひたと冷えた空気だけが辺りを満たしている。星の瞬きが木々の枝の隙間からこぼれ落ち、地面に淡い光の網目を描いていた。


その一角の折れた大木の下、乾いた苔の上に、リュウは静かに腰を下ろしていた。戦いの痕跡がそのまま彼女の身体に刻まれている。裂けたスーツ、血の滲む肩口、そしてまだ微かに震える膝。普段ならすぐに姿勢を整えるはずの彼女が、今はゆっくりと息を吐きながら動きを止めている。その仕草ひとつひとつが、戦闘で奪われた膨大なエネルギーを物語っていた。


カイは少し離れた倒木の上に座り、炎の届かない闇の中からリュウの様子をじっと見つめていた。彼の耳には、あの双頭獣の断末魔がまだこだましているように感じられる。数時間前の戦闘――彼女の“異常なまでの強さ”を目の当たりにしてから、彼はずっと言葉を探し続けていた。


「……ここなら、大丈夫かも」

リュウは小さく呟き、戦場での緊張をそっと解くように指先をほどいた。彼女は立ち上がり、川の方へと歩いていく。月明かりが射し込む小さなせせらぎ。清らかな水音が耳に届き、ほのかに夜の湿気を帯びている。


川辺にたどり着くと、リュウは躊躇なくスーツのジッパーを胸元から下へ滑らせた。裂けた部分が外気に触れ、ひやりとした空気が傷口に沁みる。彼女は淡々と装甲を外し、ナノファイバーのインナーも肩から滑り落とした。背筋から腰まで、血と泥と戦闘の塵がまだこびりついている。それらを洗い流すために、彼女は一糸まとわぬまま水面に足を踏み入れた。


月光が水面を砕き、彼女の肌に斑の光を散らす。淡く青い光が肩口の傷を照らし、その赤が冷たい水に溶けて薄まっていく。リュウは無言のまま、両手で水をすくい上げ、首筋から胸元、腹部にかけてゆっくりと流し掛けた。その仕草には色気も意図もなく、ただ“清める”という行為があるだけだった。


「うわぁ……」

思わずカイの喉から声が漏れる。遠くから見ているだけなのに、光景全体が現実感を失っているように感じられた。戦闘兵器のような少女が、いま目の前でひとりの人間として、血と傷を洗っている。それは神話の一節に迷い込んだかのようだった。


その時、彼女の肩口に淡い光が浮かび上がった。裂けた肌の下で、微細な粒子が踊る。リュウの身体を覆う繊維が、淡く光を放ちながら自己修復を開始した。ナノマシンによる再生処理――まるで神聖な儀式のように、破れた繊維を編み、傷を縫い、肌を閉じていく。


「すごい……!? 傷が……治っていく……」

カイの声は震えていた。彼にはその光が、科学技術というより“祝福”のように見えた。水面に映るその光景は、月光と相まってリュウの輪郭をぼやかし、背中に翼を広げた天使のようにも見せた。


だが、光は完全ではなかった。

肩口の裂傷はゆっくりと塞がっていくが、周囲の皮膚はまだ腫れ、赤黒く熱を帯びている。ナノマシンが組織を再構築するたびに、リュウの顔がほんの僅かに歪む。痛みをこらえるその表情は、戦闘時には決して見せない脆さだった。


《再生処理中。筋繊維──30%修復。神経応答系──遅延回復中。全快まであと二時間》

ゼロの声が静かに響く。


リュウはわずかに息を吐き、川の流れに肩まで身を沈めた。水が傷口を撫で、血がゆっくりと洗い流されていく。月光に濡れるその肌は冷たく硬質で、それでいてかすかに震えていた。


カイは胸の奥で何かが音を立てて崩れるのを感じた。自分が目の前にいる彼女を「不死身の戦士」だと思い込んできたこと、彼女が流す血や痛みを無視していたこと、その全てに対する悔いのような感情が押し寄せてくる。


リュウはやがて立ち上がり、水を滴らせながら岸へ戻ってきた。まだ完全ではないスーツの繊維が自動で形を整え、彼女の身体を包み込む。だが右肩から肘にかけては修復が追いつかず、わずかに裂け目が残っている。


「リュウ、歩ける……?」

カイが思わず問うと、リュウは静かに頷いた。

「……大丈夫だ」

短い返答の裏に、微かに疲弊した声色が混じっている。


焚き火のそばに戻ると、カイは彼女のために温かい水を用意し、リュウはそれを淡々と口にした。夜の森は深く、星はゆっくりと西へ傾いていく。火の粉が弾け、二人の間に小さな橙の壁をつくった。


「姉さん……この人、本当に何者なんだろう」

カイは心の中で呟き、焚き火の光に照らされるリュウの横顔を見つめた。濡れた髪が頬にかかり、伏せたまつ毛が長く影を落としている。戦場での彼女は冷徹な刃だが、今はただ痛みに耐え、回復を待つひとりの“女”だった。


やがてリュウは目を閉じ、浅く規則的な呼吸を繰り返し始めた。ナノマシンの光が消え、森の闇がふたたび彼女を包み込む。カイはその様子を壊さないよう、足音を忍ばせながら薪に火をくべる。パチ、パチ……と小さな音。オレンジ色の光が木々の葉を揺らし、リュウの濡れた髪とスーツの艶を柔らかく染める。


「……おやすみ、リュウ」


その声は彼女に届かない。だが今夜だけは、カイは祈るような気持ちでその背中を見守っていた。

月が高く、夜が美しく、そしてふたりの影はゆっくりとひとつに重なりながら伸びていった。

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