第1話:天より舞い降りたもの(前編)
《LYU-Type00、戦術転送準備完了。目標座標:G-04宙域・敵制圧区画──》
《転送プロセス正常。3、2、1──》
機械的な音声が耳の奥に響く。それは、彼女の精神を現実世界から切り離し、深淵へと誘う合図だった。意識は、まるで古ぼけた井戸の底へと沈んでいくようだった。身体を構成するすべての分子が、光の粒子となって分解され、無重力の虚空へと溶けていく。それは、存在の境界が曖昧になる、一瞬の虚無。転送の瞬間に彼女の心を占めていたのは、ただ一つ──鋼鉄の刃が唸りを上げ、血と火花が舞い散る、あの戦場への絶対的な覚悟だった。
彼女の刃が交差するはずの場所──敵中枢、戦闘区域。
だが、瞼を開けた瞬間、彼女の眼前に広がっていたのは、想像を絶する、異質な光景だった。
空が、割れた。
それは、単なる雷鳴ではない。天を貫く轟音も、灼熱の閃光もなかった。ただ、紅く染まった空を鈍く引き裂くように、漆黒の亀裂が走っていた。その裂け目は不気味なまでに静謐で、しかし宇宙そのものが悲鳴を上げるのを止め、ただ裂けきったかのような、抗いようのない存在感を放っていた。
その深淵から、神話の女神が降臨するかのように、ひとりの女がゆっくりと舞い降りてくる。
漆黒のボディスーツに包まれた肢体は、流線を描くようにしなやかだった。肩と胸部に配された銀白の装甲片が、鈍い光を返し、黒の繊維に深い陰影を与えている。開いた胸元の谷間は、その冷徹な雰囲気に抗うかのような、生々しい艶を放っていた。彼女は、戦うためだけに創られた完璧な“兵器”──《リュウ》。その艶やかな外見とは裏腹に、彼女から放たれる殺気は、辺りの空気を刃物のように切り裂いていた。肩にかかる黒髪が、夜の帳のようにたおやかに流れていく。
《──異常検知。ここは……座標不一致、データ不整合! 接続不能、通信完全遮断──おい、これは……事故か!?》
リュウの意識の奥から、機械的でありながら、どこか人間的な焦りと困惑を帯びた声が響く。内蔵AI。普段は絶対的な冷静さを保つその声が、今は未知の状況に戸惑いを隠せずにいた。リュウの心臓が、微かに、しかし確かに鼓動を早める。彼女の指先が、現実を確かめるかのようにボディスーツの表面をかすかに撫でた。
「一体なにが……」
彼女は思考を巡らせる。指先が虚空に繊細なジェスチャーを描き、頭部インプラントを介して戦術通信回線を呼び出す。だが、応答はなかった。すべての回線は死んだように沈黙し、彼女をこの異世界に一人置き去りにしたようだった。
わずかに動いた眉の下で、赤みを帯びた瞳が、不気味な風景を鋭く捉える。
「ゼロ、ここはどこだ……?」
その声は低く、張り詰めた冷静さを保ちながらも、微かな緊張が滲んでいた。リュウはゆっくりと視線を巡らせる。地平線には、巨人の骨のように、あるいは未完成の塔のように奇怪な建造物が点在している。風は血の臭気を運び、肌を刺すような微粒子が漂う。植物は影も形もなく、大地は荒れ果て、空気そのものが異質だった。
《!?──リュウ、前方──生体反応多数。構造、異常。該当種なし》
ゼロの声が、耳元で警報のように鋭く響く。リュウの視線が前方に固定される。その身体は、一瞬にして最高の効率を求めた戦闘態勢へと移行する。
「未知の……生物」
その言葉が静かに漏れた瞬間、遠くの丘の向こうから地鳴りのような轟音が響き、大地が震え、爆ぜるような衝撃が空気を揺らした。
《戦闘音。武器使用反応と熱源、複数。群体……接触中》
リュウが目を凝らす。砂煙の向こうに、揺らめく人影。金属のぶつかる鋭い音とともに、重装の兵士たちが剣を振り、荒れた大地を駆けている。その動きは原始的でありながら、どこか機械的な統制を感じさせた。
「……戦闘?」
その呟きと同時に、獣の咆哮──いや、人間の断末魔にも似た不気味な音が響く。丘の向こうから現れたのは、角を持つ人型と、四足で疾走する異形の獣たち。いずれも、彼女の生体データベースには存在しない、完全な未登録種だった。
《な、なんだありゃ!?──敵性反応、高。全個体、こちらを認識。警戒、敵意、興奮──》
ゼロの声が焦りを含んで高まる。しかし、リュウは微動だにしない。
《リュウ、一つ悪い知らせだ。兵装ユニット──銃火器、全てロスト。》
「問題ない。」
指先がわずかに動き、腰にあるはずの装備の空白を確かめる。一歩、前へ。それは重力に縛られながらも、風のように軽やかな動きだった。ボディスーツの表面が淡く発光し、戦闘モードへと変色していく。その身体は、精密機械のように最適化されながらも、まるで完璧な芸術品のような美しさを湛えていた。
「排除対象、確認。ゼロ、支援開始。」
《了解。前方三体、左後方に高速接近体──ナノブレード、展開》
シュン──音もなく、リュウの手首から銀色の刃が滑り出す。右手に一振り、左手に一振り、ナノブレードが展開された。今、黒衣の女神が、死神の儀式を始める。
獣が牙を剥いて跳びかかってきたその瞬間、リュウは跳躍した。
風が駆ける。刃が舞う。
宙を舞う身体を回転させ、獣の首筋に正確な蹴りを叩き込む。着地と同時に、ナノブレードで喉元を切り裂いた。霧のように散る鮮血が、紅に染まる空をより鮮やかに彩る。
さらに振り向きざま、太ももをしならせた回し蹴りが、獣の頭部を粉砕する。その一連の動きは、舞踏のように流麗でありながら、一撃ごとに死を約束する冷徹なものだった。
《背後、三秒後に接近。回避経路E-2、ブレード軌道C-4推奨》
ゼロの冷静な指示が、彼女の耳の奥に響く。リュウはひらりと後方へ身を翻す。しなやかな足が空中を裂き、黒髪が風とともになびいた。
── 一閃。
斜めに振り下ろされたブレードが、異形の頸部を断ち切る。飛び散る鮮血がボディスーツに飛沫となって弾け、谷間に流れる汗と混ざり合う。赤く染まったその身体は、なおも女神のような威容を放っていた。
「……次。」
その静かな声には、凍てつくような決意が宿っている。リュウは再び走り出した。矢のように飛び込み、敵の懐に滑り込む。肘で鳩尾を打ち抜き、膝で顎を砕く。連撃は流れるようでありながら、刃を用いずとも致命傷を与える。まるで、戦場を舞う黒い蝶。その動きは、命を刈り取る舞そのものだった。
《四方から包囲。左下方、回避限界──ゼロフラッシュ起動まで3秒》
「──間に合う。」
刃のように鋭いその声とともに、彼女は背を反らし、両腕を交差させた。
──閃光。
ゼロが放った強制光干渉が、敵の視覚を白く焼き尽くす。その隙を逃さず、リュウの刃が間合いへと滑り込み、敵を切り裂く。紅く染まった汗が、谷間から雫となって滴り落ちた。ボディスーツの光沢が太ももに張りつき、戦場のなかでも美しさを湛えていた。その指先さえ、命を宿したかのように艶やかに光っていた。
《……この世界、すべてが未分類。生物、物質、構造──我々の知る何ものでもない》
ゼロの声が、困惑と分析の狭間で揺れる。リュウは赤みを帯びた瞳を細め、風に黒髪をなびかせた。血と汗に濡れたボディスーツが、静かに光を反射する。
「理解した。ならば──」
その声は、死神の宣告のように冷たく、そして燃えるような決意に満ちていた。
「──全てを、排除するまで。」
紅に染まる空の下、リュウは再び走り出す。刃が舞い、血が弾ける。この未知の世界で、彼女の戦いは、終わらない。