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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

間違い

 私は頭をバッグの中にしまった。傷まないようにそっと優しく。だって、かつて永遠の愛を誓った人ですもの。


 もう二度と開かないその瞳に、自分が映るのが好きだった。笑った顔が何度私の心を癒してくれたか、きっとあなたは知らないでしょう。


 表情のなくなった愛しい人のほおに手を当てると、ひんやりとしていた。それもそのはずね。こんなに真っ白な顔をしているんですもの。


 私はその黒いバッグを持って、バスに乗った。椅子に座ると疲れが思い出したかのように襲ってきた。昨日は大変な重労働をしたんだったわ。


 愛しい人を切り分ける作業。


 バスの窓に映る自分の顔に一瞬驚く。こんな老けた顔をしていたかしら?


 目の下は黒く、見るからに疲れた顔をしていた。あなたも言っていたわね。最近老けてきたって。それはあなたも同じでしょうに、まるで私だけがお婆さんになったかのような言い方。


 私だけに向けられていた瞳も、私だけに向けられていた笑顔も、私の知らない女に向けるようになったことに、私が気づいていなかったとでも?


 そう告げた時の彼の驚いた顔を思い出して笑ってしまった。他の乗客に気づかれないようにそっと小さく。


 バック越しに愛しい人を撫でる。小さく切り分けたけれど、頭って思ったより重いのね。でもちゃんと大事にもっていくから安心してね。


 こんなこと私にしか出来ないわ。だって私は世界で一番あなたを愛しているんだもの。


 あなたを持って、これからあなたとの思い出の地に向かうけれど、あなたは覚えているかしら。初めてデートをした場所なのだけれど、確かに、デートには不似合いな場所だったわね。



 

「乗らないですか?」

 


 男性のマイク越しの声に、横山誠はハッとして顔を上げた。バスがドアを開いて待っていた。いつきたのかも気づいていなかった。


「す、すみません!乗ります」


 慌ててバスに乗り込むと、間髪入れずにドアが閉まる。


 あまり乗客がいなかったとはいえ、若干の気まずさを感じながらバスの後方の座席に座る。


 席に座って、手に持ったままの小説に目を落とした。『間違い』というタイトルのクライムサスペンスだ。新人賞受賞作、という帯に惹かれて手に取った。誠自身、趣味で物語を書いているが、書くより読むほうが好きなのは事実だ。没頭しすぎて周りが見えなくなることがよくあるのだ。自分でも気をつけなければ、と思うが本が面白過ぎるのがいけない。


 指を挟んでいたページを開き、続きを読もうとどこまで読んでいたか文章に目を走らせていると、録音された女性のアナウンスが耳に届いた。


「次は、宮木病院前。宮城病院前でございます」


 え、と小さく声を漏らして顔を上げる。バスの前方にある料金表と次に停車するバス停名が目に入る。確かに、宮城病院前、と書かれていた。


 そこでようやく間違ったバスに乗ったことに気づいた。慌てて飛び乗ったため、どこ行きかをきちんと見なかった自分の失態だ。


 思えば乗客にお年寄りが多い。そういうことか、と小さくため息をつくとほぼ同時にバスが止まり、ドアが開いた。お年寄りに混じって自分も降りようと腰を浮かしかけるが、バスに乗ってきた女性を見て無意識にその態勢のまま固まってしまった。


 とても美しい女性だった。長い髪に長いまつ毛。物憂げに見える表情が逆に彼女の魅力を引き出しているようだった。スラリとした体にぴったりの白いワンピースから伸びるふくらはぎが、まるで白百合を支える茎のように細く魅力的に感じられた。


 そんな女性が、通路を挟んだ自分の隣の座席に腰を下ろした。誠もそのまま腰を下ろした。ふんわりと香る香水が上品な甘さを漂わせている。


 小説に顔を向け、チラリと女性を伺う。こんなに綺麗な人と知り合いなわけがないのだが、どこかで見た気がする。テレビだろうか、ネットだろうか。


 そんなか細い女性は大きな黒いバッグを膝の上に乗せていた。携帯と財布くらいしか入らなそうな、小さなバッグとサブバックと呼ぶには大き過ぎる黒いバックが不釣り合いすぎて違和感を覚えた。


 そのバックを見て、誠はより違和感を覚えた。だがその違和感は一瞬で消え、寒気へと変わった。


 黒いバックから何かがはみ出ていた。それはどう見ても、髪の毛だ。


 誠は女性のバックから小説に視線を戻した。そういえばこの小説は、愛する夫の浮気を知った女性の殺人のお話だった。頭をバックに入れ、バスに乗っていた。


 流石に小説と同じことが目の前で起きていると考えるほど子供ではない。頭をふり、意識を払い除けようとする。


 ちょうどバスが走り出した。その振動ではみ出たものに気づいたのか、女性がバックを開けようとしていた。だがチャックが噛んでしまったのか、開けようとしたり閉めようとしたりと持ち手を動かしていると、予想に反して思いっきりバックが開いてしまった。


 誠は見てしまった。

 あれは女性の頭だ。


 顔は見えなかったがあの丸みは後頭部だ。肩より少し長いくらいの髪の毛がバックの中に広がっていた。


 見えたのは一瞬だった。女性がすぐさまバックを閉じてしまった。慌てて小説に目を向けるが、心臓の音が大きく鳴っていた。


 女性がチラリとこちらを見ているのが目の端でわかった。女性は誠の方を見ていたがしばらくして視線を自分の手元に落とした。彼女の方を見ていたことはバレていないと思うが、怪しまれたのかもしれない。頭をバックに詰めるような女に目をつけられてはたまらない。


 物憂げな表情が妖艶に見えた女性が、今では何気ない日常に潜む化け物のように思えた。


 彼女はこれからどこへ向かうのだろう。もしかしたら、バックをどこかに捨てようとしているのかもしれない。

 もし本当に彼女が誰かを殺して処分しようとしているのだとしたら……。それに気づいたのが自分だけだとしたら……。


 顔は歯形から身元を特定しやすいだろう。体のパーツが見つかっても、それだけで誰かを判断するのは難しいはずだ。


 彼女が人里離れた場所に頭を捨ててしまって、誰にも見つからなかったら、亡くなった人はいたたまれないだろう。全くの見ず知らずの人とはいえ、それはあまりにかわいそうだ。



 彼女の後をつけよう。



 あのバックを彼女が手放した後、自分が確保し彼女を警察に突き出せばいい。線の細い女性だ。抵抗したところで鍛えた体ではない自分でも押さえつけることはできるだろう。


 湧き上がる高揚感で小説を持つ手に力がこもる。ふと開いたままの小説の一文が目に止まった。


 

 こんなこと私にしか出来ないわ。

 


 その言葉は殺人を犯した女性の言葉だったが、誠は今完全犯罪を犯そうとしている女の存在を知った世界で一人の人間だ。自分にしか出来ないことがある。


 ——大丈夫だ。落ち着け。


 呼吸を整え、チラリと女性を見ると何か考え事をしているのか、あいかわらずの物憂げな表情でバックを見つめていた。


 誠の視線に気付いたのか女性が誠に目を向けた。しまった、と思ったが意に反して、女性ははにかんだように笑って会釈をしてきた。


 可愛らしい笑顔だった。鳩が豆鉄砲を食ったよう、という表現をずっと意味がわからないと思っていたが、こういうことかと、理解出来た気がした。


 ギクシャクしながら誠も小さく頭を下げ、何事もなかったように小説に目を向ける。


 男性ばかりの職場で、思った通りに動かないパソコン画面に向かい合う毎日。日々の楽しみは読書くらいの生活を十年以上続けてきた誠にとって、目を見張るような女性から笑顔を向けられることなんてなかった。


 自分だけを捉えた瞳に、自分だけに向けられた笑顔。


 ——美人の笑顔ってすごいな……。


 笑顔を向けられただけで、彼女は自分に気があるのではないか、いや、あるに違いないと男たちを勘違いさせるには十分な破壊力をもっていた。


 チラリとバックを抑える左手を見ると、薬指にきらりと光る銀色が見えた。


 どうやら彼女は既婚者のようだ。


 心の中で思いっきり舌打ちをする。ほんの少し期待をしていた自分に気づき、頭を振った。


 ——彼女は殺人者の可能性があるんだ。ほだされるな!


 小説に目を向ける。小説の中の女性は愛する人の頭と一緒にかつてデートした場所に向かうところだったはずだ。彼女のことは気になるが、下車するまでできることは何もない。気になっていた小説の続きを読み始めた。

 

 


 結構急なこの斜面が大変だったのを思い出したわ。


 初めてあなたとデートしたのは◯◯神社よ。覚えているかしら?


 あなたは嬉しそうに急かして、この神社があまり知られていないけれど、どれほど歴史があるのかを聞かせてくれたわね。


 私は疲れて話してくれたことをあんまり覚えていないけれど、嬉しそうなあなたを見て、私も嬉しかったわ。

 そうそう、バス停、一つ前で降りたわよね。


 もう一つ先で降りれば、この坂道を登らずに済んだのに。


 私が見つけたバス停を指差して文句言ったら、この坂道も思い出になるから、なんて言っていたわね。懐かしいわ。


 あの時と同じように、間違えて一つ前で降りてしまったわ。あなたを抱えているから、余計大変な思いしてるのよ。わかってる?


 

 

「ごめんなさい」


 ぶつかられたことに気づいて顔を上げた。


 隣に座っていた女性が降りるようだ。バックを持って難儀そうにバスを降りていく。彼女が降車ボタンを押したことにも気づかなかった。


 慌てて本に栞を挟み、少し遅れて誠も下車をした。そこは住宅街から少し外れたバス停だった。雑木林や畑があり、カーブした坂道は崖崩れを防ぐブロックが続いていた。車通りはあるが、穏やかな場所だ。


 女性が黒い大きなバックと共に坂道を進んでいた。本をバックにしまうと、バレないように少し距離をとりながら誠も続いた。


 彼女は時々立ち止まり、バックを持つ手を左右変えながら進んでいた。


 携帯で調べたところ、人間の頭の重さは四〜六キログラムあるそうだ。あのか細い女性には大変だろう。


 見失う可能性もない道は、つまり隠れるところもない道でもあった。彼女が振り返ったらすぐにバレてしまうだろうが、重い荷物に苦労していて、後ろを振り返る余裕はなさそうだ。


 道路の反対側に個人経営のようなカフェがあった。こんなところに客が来るのかと思っていると、ブロックが途中で途切れているところに彼女が入っていった。木に隠れているが白い鳥居が見える。長い階段が続いていた。


 周りは昔からそこに生えていたであろう木々に覆われている。現代と違って、一段一段の高さがあって上りづらそうな階段は不揃いな石でできていて、踏まれてすり減っていた。昔からある神社のようだ。


 木漏れ日を浴びながら階段を登り終えると、思っていたより大きな神社があった。階段の周りに生えていた木は手入れがされていない感じがしたが、神社は常時人がいるのか綺麗に掃き清められていた。


 見慣れた神社と一つ違うといえば、砂利の上に山となって何かが積まれていることだ。


 水の音が心地よい手水舎の近くに、女性の後ろ姿を見つけた。箒を持ったままの神主と向かい合い、何やら話している。そして笑顔で神主が黒いバックを受け取り、女性が頭を下げていた。


 ——神主にバックを……?


 神主はバックを開ける様子はない。にこやかに何かまだ話している。神主が指をさす。女性も習ってその指の先を見ていた。誠も二人の視線の先を追うと、山のようになっている何かだった。よく見るとしめ縄やお札、掛け軸や仏像以外にも、おそらく大事にされていたであろうアルバムや人形などもあった。


 神主と女性は一緒に山のそばに近づき、そこへバックを置いた。


「……お焚き上げ?」


 誠の口から思わずこぼれたのは、神社や寺で行われる火を使った儀式だ。捨てるには忍びないものを火の神の力を借りて天に還すのだ。焚くことが目的のため、中身を精査することはあまりないのかもしれない。


「それを焼いちゃダメだ!」


 思わず大声を上げていた。驚いた神主がこちらを見ている。女性が振り返り目を見張るのがわかった。


「あなたは……」


 驚きを含んでいた彼女の声が聞こえるほど、誠はずかずかと二人に近づいていく。


「そのバックの中身、神主さん見ていないんですか!」


「え…えぇ」


 誠の勢いに気圧されているのか、神主が短く答える。誠の言葉を聞き、女性がハッとしたような顔をする。


「もしかして…中身見えちゃってました?」


 女性を睨みつけるように見ると、困り顔をしていた。そんな顔も可愛らしく見えてしまうが、今の誠はもうほだされることはなかった。


「見ました。神主さんにも見てもらいましょうよ」


 力強く言う誠の言葉に、神主は不思議そうに誠と女性を見る。女性はふっと小さなため息をついた様子だった。


 自分一人なら有耶無耶にされたかもしれないが、神主もいるこの状況で、言い逃れも逃げ切ることもおそらくできないだろう。


 鼻息荒い誠の言葉に観念したのか、山の中に置いたバックを拾い上げ、迷うことなくチャックを開けた。


 そして女性がバックの中に手を入れる。掴み出すものを見て卒倒しない自信はない。死んだ人間の顔なんて、子供の頃に見た祖父以外ないのだ。


 まるで時間がゆっくりになっているかのようだった。心臓がドキドキとうるさい。女性の手がゆっくりと見えてくる。

 


 ぴーひょろろろろ。

 


 突然のトンビの鳴き声が、時の流れを元に戻したようだった。そして、バックから取り出されたのは、女性の髪だった。


「バックに入っているのはウィッグですよ」


 言葉を失う誠に、神主さんがまだ使えそうなのにねぇ、と言いながら自分の剃り上げた頭を撫でた。女性がくすくすと笑う。


「ま、待った!まだバックに何かあるだろう?」


 食い下がる誠にバックの持ち手を持って左右に広げ、バックの中身を見せた。


「ウィッグを置いておくウィッグスタンドのマネキンです」


 中に入っていたのは、人間の頭と同じ大きさの白いマネキンだった。そこそこしっかり作られたものなのか、顔の造形もリアルだった。白くなければ本当の人間と間違えてもおかしくないかもしれない。


「な……」


 絶句と同時に恥ずかしくなる。


 読んでいた小説のせいもあるだろうけど、カツラの可能性は一番に考えるだろうに頭から抜け落ちていた。事件だ。それを知っているのは自分だけ。なんとかしなければ。そんな子供のようなヒーロー願望が先行して、とんだ勘違いをしてしまった。


「な、なんでこんなものを?」


 上擦った声で聞く誠に女性は微笑んだ。


「友人が使っていたものなんですけど、もう治ったから必要がなくなったんです」


 神主がご病気か何か?と誠も気になったことを代わりに聞いてくれた。


「はい。今はちょっとの剃髪で済むんですけど、彼女おしゃれな子だったので、ちょっとだとしてもも見られたくないって」


 困ったように笑い、神主から誠に視線を戻した。


「捨てにくかったのでお焚き上げをお願いしにきたんです。このままだと誤解されそうなのでバックごと焼いてもらおうと思ったんですけど…」


 その前に誤解させちゃいましたね、と彼女が恥ずかしそうに上目遣いでおどけて見せる。その姿も可愛らしくて、思わず見惚れてしまった。


「お兄さん、誤解は解けたかな?」


 かけられた声に気づいて神主を見ると、バックを受け取り再びお焚き上げの山の中に置いていた。


「あ、はい。…いや、えっと」


 誠は勢いよく頭を下げた。


「大変失礼いたしました!」


 こんなに華奢で可愛らしい女性を、殺人犯などと誤解して、わずかな間とはいえ後をつけてしまった。全くの見ず知らずの男に詰め寄られて恐怖心を抱かせてしまったかもしれない。


 ヘマをしまくっていた新人の頃のような謝罪を、まさかプライベートでするとは思わなかった。女性に罵られたり、警察に誤解とはいえつけていたことを通報されるかも、と冷静さを欠いた頭がどんどん悪い方悪い方に考えを巡らせる。


「大丈夫ですから、どうか頭を上げてください」


 予想外に、女性の声に怒りもなければあきれもなかった。


 顔を上げると、にっこりと微笑まれる。


「よかったら、少しお話ししませんか?」


 美人の誘いを断る男がいるだろうか。いやいない。


「はい。ぜひ」


 誠は考えるよりも先に言葉を口にしていた。女性がくすくすと笑う。やはり可愛らしい笑顔だった。


「十八時ですよね?」


「はい。お待ちしておりますよ」


 神主と言葉を交わすと、女性は誠の方を向き直った。


「神社の階段を降りた先に、カフェがありましたよね。そこでお茶しませんか?」


 女性の言葉で、ここに来る途中で見かけた個人経営らしいカフェを思い出す。



 

 ゆったりとしたジャズの流れる店内は、仕事を引退して個人の趣味で始めました、と言わんばかりの男性が店主なのか、革張りのソファにレコード、ピカピカのブロンズ色に輝くコーヒー焙煎器に、サイフォンが並ぶ。店内はコーヒーのいい香りに包まれていた。


 女性はブレンドコーヒーをブラックで注文していたが、誠は甘い缶コーヒーくらいしか飲んでこなかったため、カフェラテを注文した。


「あの、ホント…申し訳ないです」


「もう謝らないでください。私のせいですから」


 女性の気遣いが余計に惨めさを覚える。本を読んでいたとはいえ、恥ずかしい勘違いだった。


 そうだ、本のせいにしてしまおう。


「実はバスの中で読んでいた本が、夫の首をバックに入れて運ぶ女性の話で…」


「うふふ。そう。だから私のせい」


 訳がわからず顔を上げると、女性はニコニコとしていた。


 女性に促されるまましまっていた本を取り出し、言われるがまま本の折り返し部分を見る。


 そこには著者の物憂げな女性の横顔が映っていた。顔を上げて目の前に座る女性と、本の横顔の女性を交互に見る。


「その本、私が書いたの」


 バックの中身を知った時よりも言葉が出なかった。口を閉じるのを忘れて彼女を見つめる誠に、彼女が本の写真と同じように横を向いて、ほらね、と笑った。


 表紙に書かれている名前は愛知君葉だった。


「それ、ペンネームなんだ」


 本名は内緒、といたずらっ子のように笑う。ちょうどコーヒーがやってくる。誠も自己紹介をして、お互い一息ついた。


「愛知さんすごいですね、新人賞受賞!…俺もちょろっと書いてたりするんですけど、ここまで人を引き込む話は書けなくて」


「そんな褒められてもコーヒー代くらいしか出しませんよ?」


「いや、マジで言ってますからね俺!」


 上品な彼女の笑い方に見惚れてしまう。


「そう言われても、神社とかさっき行ったところがモデルだし、女の恋愛感情とかってこうだよねーって思いながらほとんどその場の勢いで書いてたんですよ」


 愛知は困ったような物憂げな表情で、コーヒーカップの縁を指でなぞる。その所作をする姿さえ、誠には一つの絵のように美しく見えた。


「…私ね、女性が好きなんです」


 突然の告白に誠は驚きと残念さと、彼女には合っているような妙なしっくりさも覚えた。だが愛知の左手の薬指には確かに指輪があった。


 誠の視線の先に気づいた愛知は、指輪を外してことりとテーブルの上に置いた。


「これは男性避け用の指輪。出かける時にしかつけないの」


 その言葉通り、彼女の薬指には指輪の跡がなかった。ずっと身につけていないのは本当のようだ。


「あのお焚き上げしてもらう髪の持ち主だった子がね、ずっと好きだったの」


 病気になった時にも、入院手術する時にも、誰よりも早く駆けつけて、不安を覚える彼女を励ましていた。


 そんな愛知の献身的な思いが吐露される。ひょっとしたらずっと誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。誠がそう思ってしまうくらい、彼女はポツポツと話し続けていた。


「手術が成功して、ようやく退院できるってわかった時にね、彼女が教えてくれたの。結婚するって」


 結婚という言葉を重々しく話す彼女を見て、それを言われた時いったいどんな気持ちだったのだろうと思いを馳せるが、おそらく彼女の気持ちを理解するには及ばないだろう。


「たまに彼氏が来ていることはわかってたの。彼が、手術が成功して元気になったら結婚しようって、そう言ってくれたから頑張れたって言ってて……」


 そこで彼女の言葉が切れる。


 一番側で支えていたのは愛知だったのではないだろうか。誠はその考えに至り、愛知よりも彼氏を優先させたその友達に恩知らず、と思う気持ちが湧く。だが彼女からしたら愛知は友人でしかなかったのかもしれない。どうにもやるせない感情を抱いた。


「その…友達に気持ちは伝えてあったんですか?」


 愛知がゆるく首を振る。同姓を好きになるというのは友達でもいられなくなる可能性がある。だとしたら、伝えずに友達でい続けた方が幸せなのか、いっそ気持ちを伝えてけじめをつけた方がいいのか。


 誠にはわからなかった。


「彼女の結婚を知っちゃったからさ、私のこの、行き場をなくした気持ちも、お焚き上げしてもらおうと思って、彼女の一部だったものと一緒に燃やしてもらいにきたの」


 物憂げな顔で窓の外を見る。外はもう暗くなり始めていた。


「ごめんなさい、こんな話聞かされても困っちゃいますよね」


「いえ……」


「私が書いた本を読んでくださっている方を目の前で見れて浮かれちゃって」


 おどけつつ目の端を擦る彼女は、気持ちを伝えられなかった女性を思い出して泣いていたのかもしれない。


 目の前の綺麗な女性の心を救うことは、自分にはできないと思った。ヒーローには簡単にはなれないようだ。


「私、お焚き上げを見て行こうと思うので、これで失礼しますね」


 伝票をさっと手にして歩き出す彼女の背中に声をかけるが、振り返っていたずらっ子のように笑ってこういった。


「続きも、読んでもらえたら嬉しいです」


 会計を済ませた彼女が、再びあの登りづらい階段を登っていくのを窓越しに見送る。


 ふとテーブルに出しっぱなしだった本を開いた。この本をあの華奢で可憐な女性が描いたとは想像できなかった。だが読みやすい文体で紡がれる、健気で痛々しくも感じる生身の女性の気持ちが今ならわかる。彼女はこの物語の女性のように傷ついていたのだろう。


 のめり込むように読んでいた今までと違い、まるで愛知の心の叫びを話してもらっているような気持ちになりながら読み進める。


 最終的に女性の完全犯罪は失敗に終わっていた。持っていった頭をお焚き上げしてもらおうとしていたのだが、それがバレてしまった。そして彼女は取り押さえようとする人々の手をすり抜け、火の中へ飛び込んで泣きながら笑って死んでいった。


 後味は確かに悪いが、純文学的な美しさと儚さが胸に突き刺さった。しばらく最後の一ページの文章を何度も読み返して味わう。彼女を幸せにすることはできなかったのだろうか、どうしてこんな結末になってしまったのだろうか。


 複雑な思いを抱きながら、ページをめくると後書きが続いていた。そこには、先ほど目の前で話していた愛知ほどの気さくさはないが、柔らかくとっつきやすい彼女の言葉が並んでいた。


 出版社や家族への感謝ののちに綴られていた文章に息を呑む。


 

 この本が出る頃、空を飛んでいるであろう最愛の君へ捧ぐ。

 


 これは、先ほど愛知が話してくれた手術をした友人のことだろうか。


「空を飛んでいる……?」


 その表現は、おそらく死を意味するだろう。


 先ほどの話では、手術は成功し、退院することになったと。そして彼氏と結婚する、と言う話だった。


 そう彼女は言っていた。


 ざわりと胸騒ぎを覚える。そういえば、あのウィッグスタンド、すごくリアルにできていた。間近で見たわけではないし、バックに入ったままであまりはっきりと見えていなかったけれど、白かった。歌舞伎の化粧のように真っ白だった。


 それに彼女はこう言っていた。


 

 彼女の一部だったものと一緒に燃やしてもらいにきたの。


 

 窓の外を見ると、お焚き上げがされているのか、神社の上空がほんのりと火の色をしている。


 誠は立ち上がり、急いで神社の階段を駆け上がった。


 神社の中央に近いところで、火が燃え盛っていた。その火の手前に、今日ずっと追いかけてきた背中を見つける。


「愛知さん!」


 声を上げると、彼女はゆっくりと振り返った。そのほおを流れるのは悲しみなのか喜びなのか、誠にはわからなかった。火に照らされた彼女は流れる雫をそのままに、笑った。


 あぁやっぱり、彼女の笑顔は美しいと思う。


 お焚き上げの山が崩れ、鼻をつく臭いがした。


お読みいただきありがとうございました!

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