蜘蛛と、骸骨と、人間と、イエティ。
ロイドと呼ばれた茶髪の少年は、蜘蛛男が私の肩を掴んで狂喜乱舞している最中、大慌てで「陛下に連絡してくる!」と出て行ってしまっていた。
つまりこの部屋にはいるのは現状私一人。扉も開いたままなので外に出るのは容易い。
ごくりと生唾を飲み込み一つ頷いた私は、震える体を叱咤して外へと飛び出した。
解剖されてたまるか。その一心で私は足を動かす。絶対あの蜘蛛男はヤバいやつだ。
白衣を纏っていたし自分のことをサイエンティストって言っていたから多分研究者とかなんだろう。
それも禁忌とか倫理とか全部無視する系のやばめのやつ。私の勘がそう告げている。見つかったら腹捌かれたり手足持っていかれる。絶対そうだ、そうに決まっている!
恐ろしい想像にぶるりと震えながら蛍光灯に照らされた無機質な廊下を進むことしばし。上に向かう階段を見つけた私は恐る恐る足を掛けた。
先ほどの蜘蛛男や少年と出くわしませんように、と祈りながら駆け上がる。何階分かは分からないが、やがて息が弾み始めるほど登り続けた私は「EXIT」の標識が出ているフロアに出た。
周囲を気にしながら、足音を立てずに、しかし全力で走る。すぐに出口らしき扉が見えてきた。
近づくと扉は自動でカシュンと開く。転がるようにして外に飛び出た私は、突然足に感じた刺激に小さく悲鳴を上げた。
「な、なに……雪!?」
息を吞む。辺りは一面雪景色であった。
雪に埋もれた足は何も履いていないので、雪の冷たさがダイレクトに伝わってくる。
靴を探しに戻るべきか一瞬悩んだが、しかしいつ蜘蛛男が私が逃げ出したことに気付き追ってくるかわからない。最初こそ予想外の刺激に驚いたが、数歩歩いてみたところ思ったよりも冷たさを感じないこともあり、このままこの施設から遠ざかることが先決と私は歩を進めた。
モタモタしている暇はない。足に力を込めて、再び私は駆けだした。
幸い出入り口っぽい門に人の気配は全くない。警報システムとかが作動しやしないかとビクビクしながら敷地の外に出て、そして目の前に広がる光景に言葉を失った。
先が見えないほど真っすぐな針葉樹が立ち並ぶ並木道。その両脇は広大な雪原。
雪原の向こうには雄大な山々が連なっており、まさしく山脈と言うべき光景が広がっていた。
昔家族旅行で行った、自国で一番高い山の麓は確かこんな景色だったことを思い出す。
私が住んでいた地域は都心まで電車で一時間もかからないそこそこの都会だったため、自宅付近でないことは確かだ。
そもそも記憶では今は春だった筈で。まず間違いなくこんなに雪が降り積もるような季節ではない。もしかして昨日だと思っていた友人たちとの飲み会は昨日のものではなくて、実は数か月も寝ていたのだろうか。もしくは何者かにはるか遠くの外国まで連れてこられてしまった、とか……?
焦燥感と悪い想像が浮かんできたところで頭を振る。まずは人に会おう。助けを呼んで、それからここがどこか確認すればいい。今はただ人里に向かって走り続けよう。
願わくば出会った人と問題なく言葉が通じますように、と一心に祈った。
雪の中を裸足で駆けるなんて無謀かと思っていたが、しかし足に痛痒は感じず問題なく走り続けられている。何だったら今までになく軽やかに走れている気までした。
デスクワーク続きで体が鈍っていると思っていたが、存外まだまだいけるようだ。
あるいはこれが火事場のバカ力というものなのだろうか。
曇天のせいで今が朝か昼かもわからない。今にも雨か雪が降りだしそうな分厚い雲を睨みつける。走っているせいで体が温まっているのか寒さもあまり感じていないが、さすがにこの薄着の状態で雨雪に打たれたら体力の消耗は免れないだろう。早いところ人のいるところまで出なくては。
「……って、ぬぉ、わわわ、わぁぁ!?」
ズルッと右足が雪に取られてバランスを崩す。慌てて反対側の足で踏ん張ったものの、結局着いた足も重心が傾いたことで雪に滑り、どっしーんと大きな音を立てて私はその場に転がった。
いくら体の調子がよくとも慣れない雪道を考え事をしながら走るものではなかった。強打した膝と両手にジーンと響くような痛みが骨身に染みる。
転んだ振動で近くの木の枝から結構な質量を含んだ雪の塊がドサドサと降ってきた。
大人になってから転ぶとなぜこんなにもダメージが凄いのだろうか……。
思わず目じりに浮かんだ涙に気付かない振りしながら、何とか立ち上がろうと踏ん張った、その時。
「おーい。そこの嬢ちゃん、大丈夫かー?」
遠くから、男の人の野太い声が響いてきた。
ハッとして辺りを見渡すと、進行方向から大きく手を振りながらこちらへ走ってくる大柄の人影を見つけた。
よかった!人だ!
大喜びで私も大きく手を振り返す。「助けてくださーい!」と叫べば、人影は更にドスドスと大きな足音を響かせながらこちらへ向かってきた。
助かった、本当に良かった。このまま人に会えないままだったらどうしようかと思っていた。言葉も通じそうだし、すごく親切そうだ。この辺に住む人だろうか。頼むどうか助けてくれ。私を警察まで連れて行って。もしくは電話とか貸して欲しい……いやもう道を教えてくれるだけでも助かります!
安堵から目じりの涙がほろりと落ちた。今になって走った疲労が出たのか足が震えて立ち上がれず、仕方なく私はその場に座り込んだまま大きく大きく手を振って、向こう側の人影に自分の居場所を知らせるように叫び続けた。
しかし人影が近づくにつれなんだか違和感を覚えていく。
───なんか、んー、人間にしてはでかいような?
───そんで、なんか、毛むくじゃらっぽいような?
───えーっと、なんかシルエットが部妙に人間とかけ離れているような……?
歩みとともに巻き上がる雪煙の向こうから、徐々に姿を現すソレ。
嫌な予感にひくりと口の端を引きつらせながら目を凝らした。
ごくり、とやけに大きく喉が鳴る。やがて現れたものを見て、私は───大絶叫した。
「ぎゃあああああ!?イエティィィィ?!イエティナンデェ!?!!?」
かの有名な、雪山に存在するといわれる未確認生物。全身に真っ白な体毛を持つ、二足歩行のゴリラのような生き物が現れた。
パッと見、私の1.5倍は縦にも横にもデカそうなその体躯に顎が落ちる。
嘘だろ存在していたのかUMA!?っていうか人間の言葉喋るんだ!?
待ってっていうかやばい猛スピードでこっちに来る───!
こちらの狂乱なんて露知らず、実にいい笑顔で「大丈夫か~?」とこちらに駆け寄ってくるイエティ。
しかし彼(?)も異変に気付いたのか、手を振り振り駆け寄りながらもその顔は徐々に怪訝なものになっていく。
次第に走るスピードが緩まり、手は困惑するように下げられ……腰が抜けて尻餅をついた私が顔を見るためには見上げなくてはいけない程の距離まで近づいたイエティは「んんん……?」と顎に手をやり眉をひそめて首を傾げた。
しばらく目と目が合った状態で膠着状態が続く。
今にも襲われるのではないかと気が気でない私は、ガクガクと震えながらも目をそらせずにいた。
イエティの顔色も何故か青くなっていき───そして、突然ぶわわっと大量の冷や汗らしきものを顔中に浮かべた。
「ギャアアアアアアア!?に、ニニニニニニニンゲェェェエンンンン!???!」
「びゃああああああああああああ!?」
突然の大音量な絶叫に釣られて大声で叫ぶ。
自分の倍の体格はありそうな生き物の咆哮を間近でばっちり聞いてしまい、キーンッと耳が鳴る。
その場でバタバタと両手足を振り回したイエティは、たっぷり雪の上で慌てた後、どっしーんと凄まじい衝撃を伴ってその場に尻餅をついた。
そのままズリズリと高速尻歩きで後退していく。
「ひいいい、に、にににニンゲンが来てるなんて聞いてないぞ!!誰か助けてぇ!あばばばばばばば」
助けてほしいはこっちのセリフだ、という言葉は恐怖で飲み込まれた。
巨体のイエティと矮小な人間の私が、まったく同じ体勢で雪の上で向き合っている。
何故イエティ側がまるで殺人鬼にでもあったかのような怯え具合で私を見ているかは分からないが、私も十分に混乱し腰が抜けていた。
体が大きいというのはそれだけでアドバンテージである。その内私が自分より非力な存在だと気づいて襲われたらどうしよう。その太い腕で殴り飛ばされたら痛いでは済まされないだろう。
今すぐに逃げ出さなくては。でも一体どこへ。
後ろは蜘蛛男、前はイエティ。逃げ場なんてどこにも───
「なんかあったかー?大丈夫かー?」
「すげえ悲鳴が聞こえたぞー」
イエティの更に向こうから聞こえてきた二つの野太い声に、私は一瞬で絶望の淵に突き落とされた。
終わった。これもう絶対死んだ。仲間がいるなんて聞いていない。またイエティかは分からないが、雪煙の向こうから見える巨影とズンズンと響く足音からして、小さい生き物が来ることはないと悟る。
どうしよう、仲間と一緒に囲まれたらいよいよ逃げ場がない。
このままここに居たら不味いことは分かっているが、体に力が入らず立ち上がれない。
隠れる?こんな見晴らしの良い道のどこに?命乞いする?話を聞いてくれなかったらどうする?
どうしようどうしようどうしよう!
焦りと恐怖で呼吸が荒くなる。酸素が足りない。息苦しさを感じて胸元をぎゅうっと握りしめた。
その時だった。
───チリッ、と火花が散るような音がした。
ハッと顔を上げると同時に、私の眼前に複数の紫色の火の玉がボボボボッと音を立てて突如現れた。
肌を舐める熱さに慌てて後退する。イエティも「ヒイイイ!?」と叫びながら私と火の玉から逃げるよう更にのけ反った。
「な、なななななにこれぇ……!?」
次から次へ起こる異常事態に目を白黒させる。
みるみる内に大きくなる火の玉は私をぐるりと取り囲んだ。地面の雪がジュウジュウと音を立てながら急速に溶けていく。
火の玉の勢いが強くなるにつれ、周辺の空気が急速に失われていく感覚に陥る。
喉を焼く熱い空気に、かは、と思わず咳き込んだ。
次から次へと一体何が起きている?
疑問は今まで生きてきて感じたことがないほどの息苦しさによって掻き消えた。
苦しい。熱い。喉が焼けてうまく息が吸い込めない。眼球を保護するために分泌される涙は溢れる端から蒸発していった。
耳がキンキンと鳴ってうるさい。頭が思い切り壁に何度も叩きつけられているかのように激しく痛み出した。
紫の火花がバチバチと視界を踊る。急激な体調の変化に今にも倒れそうだ。
死にたくない。誰か助けて───薄れかける意識の中で、そう呟く。
「はいストップ」
────突如、バサリという音と共に視界から紫の炎が消えた。
今日から書きだめが無くなるまで毎日投稿です。