⑧ 君は路上の月
陸は目を閉じて、深呼吸をした。
長い沈黙。
その沈黙は、異様に長かった。
とうとう会場が、騒めき出した。
中には「どうしたんだよー! 早く歌えよー!」といった声さえ飛んだ。
……やがて、陸は目を開いた。
そしてギターに視線を落とす。
次の瞬間。
アルペジオ(一つ一つの弦を弾く演奏)が、そよ風のように流れた。
その美しい音色は、一瞬で会場の騒めきを、吹き飛ばすものだった。
——圧倒された。
アコースティックギターの音が、こんなにも美しいものとは知らなかった。
ほとんどの観客が、そう思った。
コードを変えた時の、キュッ、キュッ、という、指が弦を擦れる音さえ心地よい。
いつまでも、その音色を聴いていたい。
神々しいほどの陸のギター音は、人々の心を魅了した。
イントロが終わると、陸はマイクに口を近づけた。
スゥ……と、息を吸い込む音が、マイクに入る。
会場にいる全ての人が、耳に全神経を集中させた。
その第一声。
——♪
全ての観客が、度肝を抜かれた。
それは、雷に打たれたような衝撃だった。
心の底から震え上がり、言葉を失ったのだ。
なんだこれは?
こんな歌声があるのか?
こんなにも美しいものが、地上に存在するのか?
雪の結晶ように、儚く美しい声質。
それでいて、火山のような激しさを感じさせる、突き抜けた声量。
音の強弱、深いブレス、言葉の一つ一つ、全てに深い感情がこもっている。
その唯一無二の美声に、深いリバーブ(エコー・残響)がかかり、会場の隅々まで響き渡った。
感動。
感激。
感涙。
自然と涙が溢れる。
ハンカチで涙を拭う人。
しゃがみ込み、嗚咽を漏らす人。
気絶しかけた人。
中には失禁した人さえいる。
これはもう、心に染みる、なんてものではない。
その声は、聴く人の心を強く握り、激しく揺さぶるものだった。
もはや凶器と言っても、過言ではない。
しかし、その凶器は、猛烈な快感でもあった。
その後も、陸の歌声は会場内の時間を止め、厳かに響き渡った。
——♪
『君は路上の月』
作詞・作曲/吉沢陸
(Aメロ)
行き交う人の隙間に 君を見つけた
その温もりに触れたくて 手を伸ばす
だけど泥だらけの 僕のこの手じゃ
綺麗な君を汚してしまうだろう
(Bメロ)
あぁ 思い出す 遠い日の約束
二人の秘密基地 見上げた未来
Do you remember that day?
(サビ)
逢いたい ただ逢いたい
ありがとうと伝えたい
歌いたい ただ歌いたい
言葉に出来ない この想い
夜空に月が見えなくてもいい
優しく 僕を照らす人がいる
君は路上の月
歌が二番に入ると、ピアノやベースが、さりげなく入ってくる。
ピアノを弾くのは、福田だった。
彼は演奏しながら、陸の背中を感慨深く見つめた。
——やはり、自分の直感は正しかった。
本当に陸は、想像以上だった。
ベートーヴェンの生まれ変わりとまで言って、良いのかもしれない。
間違いなく、彼は百年先、二百年先も語り継がれるべき天才だ。
障がいを持って生まれた子は、特定の分野において、並外れた能力を発揮する事がある。
吉沢陸は、まさにそれだった。
二番が終了し、ここで間奏に入る。
オーケストラのストリングスも加わり、壮大な音の波が人々の胸を、高揚させた。
やがて間奏は終わり、三度目のサビ。
ここでトーンを落とした。
陸の歌声と、ギターだけになったのだ。
優しく、語りかけるように歌う陸。
いわゆる『落ちサビ』と言われるものだ。
その押さえたサビが終わると、陸は「Oh〜」と、徐々に声を張り上げた。
それに合わせて、ドラムやベース、ギター、オーケストラ、全楽器が嵐のように吹き荒れた。
会場内の空気が、ビリビリと震える。
そこで一瞬、全ての音が、ピタッと止んだ。
ブレイク(一時停止・空白)の後、爆発したように、ドーンと音が響き渡った。
それは、地球が爆発するかの如くだった。
ラストのサビ。
ここだ、ここが勝負だ!
転調してキーが半音、高くなった。
より感動的に、するためだ。
全ての楽器が、フィナーレとばかりに音を鳴らした。
まさにピーク。
もちろん、演出面でも抜かりはない。
キラキラとした紙吹雪が、ステージと会場に降り注いだ。
それは、とても幻想的な光景だった。
陸は、歌いきった。
全てを歌いきったのだ。
その後、ストリングスを全面に押し出したアウトロが流れる。
その間、陸は天井を見上げた。
そして深く目を閉じた。
——小学生の時に交わした、美月との約束。
美月が車椅子生活となり、すっかり疎遠になってまった高校時代。
日本一下手くそなストリートミュージシャンと呼ばれ、からかわれ、罵倒され、殴られた日々。
美月と恋人になり、幸せな時間を過ごした夏。
アメリカに渡り、みっちりとレッスンを受けた一年間。
それらが走馬灯のように、陸の脳裏を流れた。
涙が出た。
止めどなく溢れた。
三十秒ほどのアウトロが、陸には一時間以上に感じた。
会場の最前列で見つめる美月も、泣いていた。
ハンカチで拭っても、また次の涙が溢れてくる。
やがて音が小さくなる。
最後に、陸のギターで曲を締めくくった。
◇ ◇ ◇
……とんでもないものを、見てしまった。
衝撃を受けた一万人の観客は、声を失った。
誰一人、身動きが取れなかった。
やがて一人の観客が、思い出したように拍手を送る。
それが合図になった。
怒涛のように、温かい拍手が沸き起こった。
鳴り止まない、拍手と歓声。
美月はもちろん、美月の家族も、陸の家族も、皆が涙を流し拍手を送った。
福田もだ。
陸の後ろ姿を見つめながら、拍手を送る。
ステージ全体が明るくなると、後方にある大きなビジョンに、陸の顔が映し出された。
陸は「ありがとうございました!」と言って、一礼をした。
より一層、拍手が大きくなる。
ここで、大型ビジョンは一人の女性を映し出した。
それを見て、美月は目を剥いて驚いた。
大型ビジョンに映るのは、自分の顔だったのだ。
思わず両手で口元を隠し、戸惑った。
陸は、ステージの上から美月を探した。
照明スタッフが、美月を確認出来るように、客席側を明るくしてくれた。
陸は、最前列にいる美月に気付く。
ステージに上がっておいで、と言うように、そっと手を差し伸べた。
すると、スタッフ達がステージへと登る、スロープを用意した。
緩やかに傾斜した道が、掛けられたのだ。
車椅子で上がるための物だった。
美月の母は、美月の耳元に顔を寄せた。
「……美月、行く?」
戸惑っていた美月だが、ステージにいる陸の顔を見て、決心した。
コクリと頷く。
美月の母は、車椅子を押した。
そして、スロープの手前まで来た時、美月は母を見上げて首を振った。
「どうしたの? 行かないの?」
美月は深呼吸して言った。
「私、自分の足で歩く……」
美月は立ち上がった。
そして一歩二歩と、歩き始めた。
これには陸はもちろん、観客も驚いた。
母は、美月が転ばないように、背中に手を添えた。
実は、陸のいない一年間、彼女は脚を手術し、リハビリに専念していたのだ。
今では、ゆっくりだが、歩行が出来るまで回復していた。
「お姉ちゃん、頑張って!」
美月の妹、桃香が叫んだ。
やがて客席からも、美月を応援する声が飛び交った。
沢山の声援を受けながら、美月は慎重に歩を進めた。
陸のいるステージ上まで、あと少し。
お互いが手を伸ばす。
その光景が、ビジョンに映る。
やがて美月の手が、陸の手を掴んだ。
二人はステージの上で、熱い抱擁を交わす。
会場からは、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
カメラマンは、抱きしめ合う二人の周りを、グルグルと回った。
大型ビジョンには、360度の二人の抱擁を映し出す。
まるで、映画のラストシーンようだった。
「おかえり、陸ぐぅん……グスッ」
「ただいま」と陸。
「ビックリしたよ。陸君の歌……感動した……」
「ありがとう。僕もビックリしたよ。美月ちゃん、歩けるようになったんだね……」
「うん。陸君がアメリカで頑張ってるから……私もリハビリして、頑張りたかったの……グスッ」
陸は微笑みながら、美月の涙を、手で拭ってあげた。
ここで、ふと美月は意味深な顔をした。
涙で赤く腫れた目を、陸に向ける。
「私……実は……謝りたかった事があるの」
「え?」
「私、嘘ついてた……。小学生の頃にした陸君との約束……路上ライブ始めたら、私がファン第一号って話……。私、忘れたって言ったけど、あれは嘘……。照れちゃって、あんな事を言ったの……」
「……そうなんだ……」
「本当は覚えてる。昨日の事のように、ちゃんと覚えてる……。秘密基地にしていた、あの廃車置き場だよね。錆びた車の上で話したよね……」
「美月ちゃん……」
「あの時に着ていた陸君の服も、一緒に食べたお菓子も、古木アキナの曲を一緒に聴いた事も、帰る時に月を見た事も……全部……全部……全部、覚えてるよぅぅぅ!」
また美月の目から、大量の涙が溢れ出した。
「うん……僕も全部、覚えてるよ……」
陸は、優しく美月の頭を撫でた。
やがて二人は、鳴り止まない拍手を送る客席を見渡した。
ほどなくして、照明が次々に消えて暗くなる。
ふと美月は、何かに気付いた。
「陸君、見て。月だよ。月が見えるよ」
美月の指差す方に、陸も顔を向ける。
スポットライトが一つだけ、二人を照らしていた。
それは、徐々に光を弱くし、黄色い満月のように見えた。
——その時。
どこからともなく、懐かしい風が吹き抜けた。
ふわりと広がる、美月の黒髪。
キラキラと揺れる眼差し。
陸は、その手をそっと握った。
おわり