② 遠い日の約束
——8年前、陸が小学五年生の時だった。
「おらぁ、陸! ギブか? ギブアップか?」
騒がしい、昼休みの教室。
身体の大きい東昌大が、陸にプロレス技をかけたていた。
アルゼンチンバックブリーカーという、相手を担ぎ上げ、背骨を痛めつけるという荒々しい技だ。
「ううう……」
苦しそうに、呻き声を漏らす陸。
すると昌大は、陸を床に降ろした。
しかし、やめたわけではない。
今度は、陸の両足を掴んで、教室中を引きずり回した。
そんな陸を見て、ニヤニヤと笑う、同級生達。
そこへ、一人の女子が駆け寄った。
「昌大君、やめなよ! 陸君が嫌がってるじゃない! 先生に言うよ!」
注意したのは、美月だった。
坊主頭の昌大が、顰めっ面で後頭部をボリボリと掻く。
「なんだよ、またお前かよ!」
先生に告げ口されては、堪らない。
昌大は大きな舌打ちをすると、仕方なく教室から出て行った。
「あ、あ、ありがとう。み、みみ、美月ちゃん……」
それは、数年前からだった。
陸の、どもる喋り方と、手が震える障がいを真似て、からかう同級生が増えてきたのだ。
特に昌大は、からかうだけでは飽き足らず、一方的にプロレス技をかけては痛めつけるという、虐めを繰り返した。
そして、それに気付いた美月が止めに入る、というのが、ここ最近のパターンになっていた。
陸と美月は、幼馴染だ。
保育園の頃から、ずっと一緒だ。
小学五年生になった今でも、二人は近所で遊ぶ事が多い。
この日も、学校が終わると、陸と美月は『秘密基地』と名付けた廃車置場に向かった。
タイヤもドアもない、錆びついたトラックの荷台に、腰掛ける二人。
ふと美月が、秋空を見つめる陸に、話しかけた。
「ねえ、陸君、音楽聴こうよ」
美月は、音楽プレーヤーのイヤホンを片方、陸に差し出した。
陸は震える右手で、受け取った。
「古木アキナっていう、シンガーソングライター。今、凄い人気があるんだよ」
二人は、イヤホンの左右を分け合い、お互い片方の耳で音楽を聴いた。
声量のある歌声と、ピアノの音色が流れた。
〜♪
陸は、音楽に興味が無かった。
シンガーソングライターの意味も分からない。
だが、耳から入ってくる歌声とピアノ、メロディ、リズム、それらに不思議な心地よさを感じた。
「私、今からでもピアノ習おうかなぁ」
ボソリと呟く美月を見て、陸が言う。
「ぼ、ぼ、僕もやろうかな……?」
美月は、意外そうな顔を陸に向けた。
その顔が笑みに変わる。
「本当? でも陸君は、ギターの方が似合いそうだよ。私、K駅でギター弾きながら歌ってる人、見た事あるんだ。それ、路上ライブって言うらしいよ。かっこいいよ」
「……も、もし僕がそれ、やったら、き、き、来てくれる?」
「絶対行くよ! 陸君のファン第一号になるよ!」
「じゃ、じゃあ、僕、ギギギ、ギター買わなきゃ」
「えーっ、気が早いよ、陸君! あはは」
白い歯を覗かせる美月。
直後に、空を見上げた。
「あれ? もう暗くなってる」
いつの間にか日は沈み、夕闇が訪れていた。
「陸君、そろそろ帰ろうよ」
「う、うん」
二人は、トラックから飛び降りた。
そして、歩き出した瞬間、美月は「わあっ!」と感嘆の声を上げた。
「見て見て、陸君! 満月だよ!」
「ほ、ほ、本当だ……」
夜空の向こうに、丸々とした光が見えた。
——その時。
どこからともなく、優しい風が吹き抜けた。
ふわりと広がる、美月の黒髪。
キラキラと揺れる眼差し。
ふと陸は、その手を握りたくなった。
◇ ◇ ◇
ビーン……。
寒空の下、ギターのチューニング(音の高さを調整)をする陸。
今日も駅前にて、路上ライブを行おうとしていた。
そこへ、大きな影が近づいて来る。
「……陸か?」
どこかで聴いた、男の声。
その声には、懐かしさと共に、胸が締め付けられる様な嫌悪感があった。
陸は、名前を呼ぶ人物に顔を向ける。
声の主は、かつて小学校の頃に陸を虐めていた、東昌大だった。
やはり、と陸は思った。
昌大は、別の中学校へ行ったため、会うのは実に六年ぶりとなる。
「……陸だよな」
二度目の呼びかけに、陸は少しだけ頷いた。
すると昌大は、口の端に笑みを作った。
「お前、今、ネットで有名じゃないか。悪い意味で。本当、良くやるよな」
この威圧感。
息が詰まりそうな、空気感。
あの頃の恐怖、悔しさ、情けなさが蘇る。
「お前、そんな下手くそな歌うたって、恥ずかしくないのか? まさか本気で、デビューしたいとか思ってるんじゃないだろうな?」
昌大は呆れたように、鼻で笑った。
「もう十八歳だぞ。現実見ろよ。頭、大丈夫か? 脳みそ腐ってんじゃないのか?」
その時、昌大の後ろで、二十代の女性二人が足を止め、ヒソヒソ話を始めた。
(ねえ、あのギター持ってる人って、あの動画の人じゃない?)
(ほんとだ。結構イケメンじゃん)
(じゃあ聴いてく?)
(ええっ、それはいいよ)
昌大はチラリと、その女性達を見た。
女性達の後ろにも、足を止めて見ている人がいる。
昌大は、視線を陸に戻した。
「……まあいいや」
居心地が悪くなったのか、昌大は立ち去ろうとした。
「そうやって一生、笑われてろ。ばーか」
そう言い残すと、昌大はプイと顔を背けて、駅の方へと歩いて行く。
陸は解放されたように、安堵の息を吐くと、去っていく昌大の背中を見つめるのだった。
◇ ◇ ◇
今夜も、陸の路上ライブが始まった。
「あ、あ、逢いたい、た、たー、ただ、逢いたい〜♪」
言葉がすぐに出ず、何度も繰り返してしまう。
ギターのコード音も、ハッキリしない。
相変わらず、陸の演奏は、道行く人に笑われた。
曲が終わると、ピックを咥え、両手を揉んだ。
四月にしては、指先が凍るほど寒かった。
すると突然、陸は驚きの表情を見せた。
咥えていたピックが、ポロリと落ちる。
美月が現れたのだ。
「陸君……だよね?」
車椅子に座る美月は、白いニットのセーターに、フワリとしたスカートを履いている。
陸は感慨深そうに、美月を見つめ目を細めた。
「み、み、美月ちゃん……」
二人が会うのは、三年ぶりだった。
小学生の頃は、よく遊んだ陸と美月。
だが、中学生になり思春期を迎えると、二人の間に微妙な距離が生まれていた。
そして、二人の仲を完全に裂く出来事が、起きてしまった。
中学三年の夏だった。
下校中の美月が、、信号無視の車に跳ねられてしまったのだ。
その後、美月は車椅子生活になってしまった。
陸は度々、病院に訪れたが、美月は会おうとしなかった。
絶望に、打ちひしがれていたからだ。
それに、こんな姿を陸に見せたくない、という思いが美月にはあった。
美月は退院してからも、陸とは距離を取るようになった。
高校も別々になり、二人が会う機会は、完全になくなってしまった。
「久しぶりだね、陸君。路上ライブ、凄いね。ハンデがあるのに、頑張って演奏して……偉いよ、陸君」
陸は少し照れて、眉のあたりを掻いた。
「や、や、約束……だから……」
「約束?」
そこへ、ノソノソと小松がやって来た。
いつものように、三脚スタンドを立てると、カメラをセットする。
今夜も、イタズラ動画を撮影しようとしているのだ。
彼のバッグには、バナナの皮やブラジャー、オシッコを入れた水鉄砲などが入っている。
今回のイタズラで使おうと、用意した物だ。
美月は躊躇したが、意を決して、小松に近づいた。
「あのイタズラ動画を、撮ってる方ですよね?」
小松は訝しげな目で、美月を見下ろした。
その視線は、美月の顔に向けられ、次に車椅子へと移動し、また美月の顔へと戻った。
「……だったら、何だよ」
「やめてもらえませんか? 本人は一生懸命、演奏してるんですよ。そんな事されたら迷惑です」
小松は、ギロリと美月を睨む。
その眼鏡の奥の眼光に、美月は怖気付いた。
「何が迷惑だよ。路上で勝手に演奏するのだって、迷惑だろうが。ちゃんと許可を取ってるのかよ?」
「それは……」
美月は口篭った。
「それによ、この子は俺の動画で知名度が上がったんだからな。むしろ俺に感謝して欲しいくらいなんだけどよ」
美月は勇気を出し、負けじと食い下がった。
「なんで感謝しなくちゃいけないんですか? あなたは、ただ陸君をネタにして、馬鹿にして、お金を稼いでるだけでしょ? ちゃんと陸君にも、出演料を払ってるんですか?」
出演料という言葉を聞いて、小松は激昂した。
鬼の形相で、美月に詰め寄る。
「なんで、俺が金を払わなきゃいけないんだよ! そもそも、こんな下手くそな演奏を公共の場でやる事自体、頭いかれてるだろ! もう行けよっ! 車椅子に乗ってるからって、容赦しねえぞ!」
美月は首を振って、小松を睨み返した。
「とにかく、もうやめて下さい!」
美月の頑なな態度に、カッときた小松。
とうとう美月に手を出した。
「行けって! 邪魔すんなっ!」
美月の肩を突き飛ばす。
「きゃっ!」
美月はバランスを崩して、車椅子ごと地面に倒れてしまった。
ガシャン!
「いったぁい……」
地面に倒れた美月が、顔を上げた瞬間、不思議な光景が目に飛び込んだ。
小松が、宙を舞っているのだ。
「えっ?」
それは陸が、小松をぶん殴ったからだ。
つづく……