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オレの推しが隣の部屋に!?

作者: hajimemasite

第一話 Fork


「うっ…ふぅ…」

昼下がりでも薄暗いアパートの一室のさらに片隅で床に敷いた4枚程度のティッシュに男の情欲を満たした行為の先に出る飛沫が落ちる。


「さあ、仕事再開」


男は下半身裸のままスマートフォン、タブレット、パソコンの三刀流で画面を睨む。


男の名前は橋村(はしむら) (とおる)

最近になって仕事でこのアパートに引っ越してきた。仕事というのは人気配信アプリ

Forkのサービス管理である。

昨今の配信アプリの中でも音声だけでできるという手軽さから年齢、容姿を問わず気軽に始められるアプリとしてForkを利用している人が多い反面、規約違反に当たる行為をしている者も多い。

日夜配信を周って規約違反の恐れのあるものに注意勧告、ひどい場合は容赦なく垢BAN(アカウント停止)をかけるのが主な仕事である。

ふと男はスマホに映る配信者のアイコンをまた眺める。画面には物憂げな表情のキャラクターのアイコンにルナと書かれている。

「…」

最初は仕事として配信を回っていたこの男も

このルナという配信者の声に惹かれてしまい、配信のないときは彼女のキャストで声を聴いては妄想を膨らませては、男の本能のまま1人ひっそりと欲望を発散していた。


実はそのルナという配信者は垢BANに当たるような配信をちょくちょくするため、本来なら男は仕事としてアカウントの停止をせねばならないが、ファンとしての熱意が勝ってしまい野放しにしている。

「…会ってみたいな」

そう男がつぶやいたとき、部屋が大きく揺れた。地震だ。男の身体は緊張しその場にうずくまる。


30秒ほど大きく揺れたのち、Twitterを確認。震度は5程度。しばらくしてから玄関のインターホンが鳴る。


男は素早く下着とズボンを履いて玄関の扉を開けた。そこには隣の部屋に住んでいる女が困った顔をして立っていた。 


第2話 リア凸


「ん〜…」

女は大学の課題の手を止めて伸びをした。

吸い付けるようにスマホを手に取り、アプリの1つであるForkを開く。


物憂げな表情のアイコンとファン数約1000人の表示。

「配信しようかなあ…」

女の名前は海野叶(うみのかなえ)Forkの配信でも多くのファンを抱えている。主に料理を作りながら雑談をする配信をしているが、時々ちょっとグレー、運営的にはアウトな配信もしている。女は最近ファン数の伸びが悪いことに悩んでいた。というのも、彼女は大学に通う傍らイラストを描いたり、オーダーメイドのブレスレットを作ったりして収入を得ているのだが、それだけではもちろん足りない。Forkで配信して投げられる、いわゆる投げ銭が主な収入で生計を立てている。普段はショタボイスで、サブ垢では声の調子を変えて美人系の声で配信をしている。

おもむろにメンバーズの確認をする。メンバーズとはファンが有料で推しの配信者のメンバーズ配信を聴くことができる特典であるが、その中にいるファンのハヤという名前とモノクロに包まれた洒落たアイコンを眺める。


叶の中で暖かいなんとも言えない感覚が込み上げてくる。叶はこのハヤというリスナーをハヤくん。と呼びその配信中のコメントの感性やTwitterにあげられたファッションの写真、趣味、全てが好みだった。DMでも話が弾み、毎日のようにやりとりしている。声は知っているが会ったことはない。

その事がより叶の妄想を掻き立てる。

「…配信したらきてくれるかな」

叶はその会ったことのない人物に好意を寄せており、時折妄想を膨らませてはときめいていた。

思い直してFan限定で作業枠をしようと考えた時、地震がきた。

身体を緊張させる。部屋のどこからなドンっという鈍い音がした。

地震はすぐ収まったが叶は途方に暮れた。

タンスが倒れている。さっきの音の原因はこれである。女1人の力で持ち上げられる大きさでも重さでもない。どうしたものかと少し考えてから閃きが降りてきた。

そうだ、最近隣の部屋に引っ越してきた、確か名前は…橋村さん?だったかな?この間挨拶に来たけど雰囲気がよく洒落ていて、愛想もよかった。他に頼れる人もいないし、それよりも…。叶は正直なところ隣人が気になっていた。引っ越しの挨拶で来た橋村という男、どこか知っているような気がする。

叶にとって今回の地震は良くも悪くも千載一遇のチャンス。タンスを持ち上げる手伝いの依頼で堂々と彼の部屋のインターホンを鳴らす事ができる。

叶は小走りで玄関を出て隣の部屋のインターホンを押す。しばらくして扉が開いて、

気だるい顔をした男が立っていた。

続く


第3話 コラボ


「ありがとうございました」

叶がお礼を言って男に頭を下げる。

地震で倒れたタンスも普段からジムで鍛えている男からすればすんなり元の位置に戻った。男はいざ用事が終わってみると改めて女性の1人暮らしの部屋にいるのだと実感した。

それにしても、男はこの女の声どこかで聞いたような。しかし、会ったこともない。でもどこかで。そう感じていた。

 叶は男の腕時計を見た時、あれ?と気になっていた。それはForkにいるファンのハヤと同じ腕時計。そして最近ハヤがTwitterに写真をあげていたベルト交換をしたものとまさに同じである。まさかね。叶はタンスを持ち上げさせただけですぐ男を帰られせるのも気が引けたのと、もう少しこの気になる男をここに引き止めたいという思いからお茶と菓子を出そうとキッチンへ向かうことにした。

「せっかくなのでお茶だけでも」そう言う叶に男は社交辞令では遠慮はしたが、男はも内心この女のことが気になっていた。何か芸術的感性を持ったような、髪はやや短くクセ毛でウルフヘア、スラっとしたボディラインにメタルフレームのメガネ。何か惹かれるものがあり、もう少し話そうとお茶をもらうことにした。

 ソファーの上で2人世間話をしていた時、

女のスマートフォンが振動し画面にバナーが降りてきた。Forkからの通知だ。

女はアプリを開きアカウントを確認するが、男はそこを見逃さなかった。その画面に自分の推しである物憂げなアイコンと共にあるルナという名前。

 女は試していた。この画面を見せた時に男がどんな反応をするか。確信が欲しかったが、8割確信に変わる。Forkの画面を見せてからずっとこちらを見る男

「ハヤくん」

「ルナ」

同時に名前を呼び合った。

その後は早かった。配信のあれこれの話もそうだが、まさかこんな奇跡的なことがあるのかと2人で思いを分かち合う。

お互いが想像だけの世界で知っていた人物が、まさか現実で気になっていた人物と同一だったことがより一層嬉しさを増した。

しばらく話をしてから沈黙が流れた。

以前Fork上で惹かれあった2人は他のリスナーに秘密で2人だけのコラボ通話をした話になった。配信上で会話する機能でお互いの気持ちを伝え合ったこと。最初は思い出話として笑って話した後沈黙が流れた。

待ちかねていたこの瞬間。お互いが会ったことのないのに惹きあっており、想いあっていただけであったのに、今現実に対面している。長く感じられた沈黙の延長上で2人はほぼ同時に顔を近づけてキスをした。

続く


第4話 沼る


昼の温かな日差しがカーテンの隙間から一直線に伸びてきて、ベッドに潜る男と女の2人の身体の一部を照らす。白い布団から覗く2人の肩は衣類を纏っていなかった。

これまで現実で会ったことなく、ネットだけの精神的な結びつき。それは、肉体と切り離されたある種崇高なものと思われていたが、

互いに好意はあるのに触れ合う事のないもどかしさを感じていた。それが今日触れ合えたのだ。2人は有無を言わずについに肉体とも結ばれた。

行為の余韻に浸りながら、改めてお互いの本名を明かして貪欲に2人は話すのであった。

「まさか、叶ってこんなに若いと思ってなかった。しっかりしてるからオレと同じアラサーくらいだと思ってたよ」

「徹くんも、年齢より若く見える。仕事でこっちに来たの?どんな仕事?」

徹は一瞬押し黙ってから「ネット関係」とだけぶっきらぼうに答えた。「ふーん」と叶は特に疑問を持たず答えた。

徹はForkの運営の仕事をしている。それを打ち明けるのは少し早い気がした。というのも、2人の関係がどんなに良くても運営側と配信者側では微妙な関係である。もう少し時期を見よう。徹はそう思った。

 叶は改めてまじまじと徹のことを眺めた。華奢な叶と違って、身体を鍛えている徹は筋肉質な身体をしていて身長も高い。髪は伸びるとクセになるからと、万年ツーブロックであると本人は話していた。

徹は配信の会話の中でも筋トレや読書、瞑想が趣味といったような何事も1人で黙々とするストイックな性格であった。そんな徹だからこそ自分にない芸術家気質でありながら、垢BANされそうなアウトローな配信をする叶に惹かれたのかもしれない。

「叶、オレこれからの生活楽しくなりそう」

「私もだよ。徹くん」

改めて2人はお互いの肉体に触れ合えるという現実を確かめるように肌を擦り合わせた。

一通り満足してから、永遠に続くかと思えるような平日の午後をダラダラと贅沢に過ごすのだった。何も言わずともその永遠に疑問を持つことなど今は何一つなかった。

続く


第5話 推し

「入って」インターホンを鳴らしてしばらくして、叶が玄関を開けて徹を出迎えてくれた。

2人が奇跡的な出会いを果たした日の次の週末に改めてその出会いを祝して食事会をしようと2人で決めていたのだった。徹が初めて来た時より叶の部屋は片付いていたが、窓際に置かれた年季の入った木製のテーブルは乱雑なままで、本や描きかけのイラストで埋もれていた。恐らくイラストレーターの仕事や大学の課題をこなす作業台なのだろう。

リビングでしばらく2人は談笑してひと段落してから、おもむろに叶は立ち上がりエプロンをしてキッチンに向かう。

「今日は徹くんのために張り切っちゃう」そう無邪気な声で叶は言うと部屋に食材を切る音が小刻みに、テンポ良く響く。

改めて料理をしている叶の背中を眺めながら、未だにこれは夢ではないかと徹は思った。叶はルナという配信者で1000人以上のファンを抱えている大手配信者だ。キッチンライブと称して料理を作りながら雑談をする配信をしている。その当人がその1000何人分の1のファンである徹のためだけに目の前で料理している。そんな日が来るとは夢にも思っていなかった。

 徹も叶ほど料理は得意ではなかったが、2人してキッチンで和気あいあいとしながら一品だけ作ってみせた。あまり見た目はよくなかった。

「じゃあ、2人の出会いに感謝して…、ん、なんて言えばいいのかな」

いざ食事会が始まるとなると、開会の挨拶はどうしようかと徹は少し困った。

その姿をニコニコして眺めていた叶は間髪入れずに「乾杯!」とだけ述べて2人は酒の入ったグラスを鳴らす。

「美味しい!」

叶が頬を緩ませる。本当に大したものは作ってないが、それでも叶は徹の作った料理を食べて心から喜んでくれた。それだけで徹は嬉しかった。徹も同様に叶の料理は作る工程しか知り得なかったが、初めて実際に口にして心から美味しいと思った。

「本当に上手なんだね」

徹は感心していた。

 食事がひと段落して、夜も更けてきた。

「オレさ叶に会うまでの、配信者としてのルナと知り合った時ネコみたいな奴だなと思ってたんだよ」

ふと徹が口を開く

「なに急に」叶は微笑を浮かべて反応する。

「なんか急にふらっと、何の前触れもなくいなくなってしまうのかなって思いながら配信聞いてた」

徹のその言葉を聞いて叶はついにケラケラ笑った。落ち着いてから叶は言った。

「急に何言い出すかと思った。私はどこにも行かないよ。もう隣の部屋にいるんだから」

「これからよろしくね」

「うん。こちらこそ」

徹の言葉に叶はニコニコとして応えて、その日の食事会はお開きになった。

続く


第6話 運営

「フォークDJルナでしたまたねー」

ルナとしての配信が終わり、iPadの画面には配信終了と出る。

「配信お疲れ様」

少し離れたところから徹がそっと声をかける。

2人が出会ってからは、プライベートの時間も一緒に過ごすことが増えてきたが叶も大手配信者の手前、不定期ながらも配信を続けていた。

それでも配信時間が減っていくのに合わせてファン数も徐々に減っていく。しかし、この2人の愛おしい時間の前にはもうそんなことはどうでもよくなっていた。

 徹はと言うと、仕事は前ほどの熱心さはなくなって最低限の働きに留まっていた。

Forkのサービス管理の中でも上の立場にいるため部下からは指示を仰ぐ電話やメールが飛んでくる。中でもルナという配信者が危うい配信をしているが、凍結するかどうかの確認の連絡がちょくちょく来る。その件に関しては自分が責任を持ってもう少し様子を見る、と徹は答える他なかった。叶の収入源の根幹を断つことはしたくなかったし、今や精神と肉体が入り混じる2人は愛し合っていたのである。

 しかし、2人が知り合って1か月ほど経過しようとしてる現在でも徹は自分がどんな仕事をしているかという話は叶には打ち明けてはいなかった。叶に尋ねられても曖昧な返答だけを返すのだった。

 「何を作っているの」

作業台に向かう叶の背中に徹は言葉を投げる。最近では叶の部屋に入り浸り、寝食を共にすることも多くなっていた。

「オーダーを受けて天然石のブレスレットを作ってるんだ」

叶は色とりどりの石を何やら器用に組み合わせ細かい作業に没頭しながらもそう答える。

「ふーん…」

これ以上作業の邪魔をしまいと残るはソファーに寝転んだ。

 ある晩のこと出先から帰宅する徹は早足でアパートに向かっていた。飲みの席がありほろ酔いで身体が火照り、少々息も荒い。

急いで帰路に着くのはもちろん、叶の部屋へ直行するためである。

やっと玄関前に着いてインターフォンを押したとき、仕事用のスマホに通知がくる。

画面を操作して本社や部下からの連絡を素早く目を通している途中にガチャりとドアが開いて叶が抱きついてくる。スマホをそのままカバンに押し込み、2人はなだれ込むように寝室に直行した。

 その日は叶も軽く飲んでおり、お互いに記憶は曖昧ではあったが酔いも手伝ってか濃厚に愛し合ったのであった。

 徹が目を覚ました時には自分の部屋にいて、外は明るい。いつどう帰ったか思い出せないままでいると、玄関のインターフォンが鳴る。

「忘れ物だよ」

叶が徹の仕事用の黒い鞄を渡しにきてくれたのだ。

「ありがとう」

お互い用事があり、軽くキスだけすると部屋に戻る。

改めて自分の推しが隣の部屋にいる。それだけでなく、お互いが求め合っている。そう思うだけで徹は幸福感に満たされた。

そろそろ仕事に取り掛かろう。そう思った時

スマートフォンが鳴る。

画面を覗くと本社からである。

徹は不安を覚えた。本社からの着信は大抵悪い知らせばかりなのであった。

続く


第7話 転生

「徹くんって、次の出張いつだっけ」

作業台に向かいながら叶がソファーでダラダラしている徹にふいに話しかける。

「5日後だけど、なんで?」

2人の関係も時間がある程度経って、落ち着いたものになってきていた。叶が徹の仕事について言及することはここ最近になってなかったし、Forkに勤めていることも未だ教えていない。珍しく予定を尋ねられて反射的に出張の日にちくらいならと、徹は答えた。

「ほら、徹くんと私っていつも部屋の行き来ばっかりだからさ、たまには外で買い物したくって。出張終わったら行こうね」

お互いが恋人であると明言したことはなく、恋人のような関係は続いている。どちらかが告白するでもなく、居心地の良さだけで満足できていた。

 作業をしている叶の背中を見つめながら、徹は物思いに耽っていた。

徹は物心つく前に両親が離れ離れになり、親戚の叔父にあたる人物に預けられて我が子のように育てられてきた。

その叔父がまさしく先日本社から電話をかけてきた人物で、Forkの運営会社の重鎮である。案じていた通り電話の内容は暗かった。運営のサービス管理の長である徹が特定のアカウントの粗暴ぶりを私的な理由で見逃し、庇っているのではないかと管理部門で話題となり叔父の耳にまで届いたのである。本来なら会社から調査を受ける事態だが、会社の上層部で働いてる叔父が先手を打ってなんとか働きかけ、我が子でありながら部下である徹に苦々しく忠告をしてくれたのである。

 元々学も技術もない徹は叔父の力でいわゆるForkにコネ入社したのであって、本来なら頭があがらない。しかし、叶の生活は配信にかかっている。叔父の忠告通りルナのアカウントを凍結すれば彼女は破綻。忠告に従わなければ徹が会社を辞めなくてはいけない。そのジレンマに悩まされていた。叔父が与えてくれた猶予期間は出張後にはそのアカウント、ルナという配信者をFork管理サービス部門の長として、責任を持って処理するようにとの事であった。

叶に近づいた徹は背後から叶の着ているTシャツの襟元から手を滑り込ませて胸を揉む。

「今日はダメ、この作業を終わらせないと」

叶は珍しく愛し合う行為よりも作業を優先した。

作業台にはブレスレットになるのであろう青い玉がいくつか転がっている。好みの色だな。徹はそう思った。

「なんて言うの?…その石っていうのかな」

「カイヤナイト。仕事運があがるんだってさ」

作業をしながらでも叶は素っ気ない返事をすることなく、温かい声色で教えてくれた。

夜も更けており。寝る準備をもう済ましていた2人。いつもなら吸い込まれるように2人で寝室に行く時間だが今日は違った。

叶はもう少し作業の続きをすると、小さな照明の下で手元に集中している。

 寝室のベッドから作業をしている叶の真剣な顔の美しさに徹は見惚れ、ウトウトしていたと思うと眠りに落ちた。

出張後に2人で買い物に行く。そんなありふれた約束が果たされることがないと夢にも思わずに。


続く


第8話 通知


時刻は20時を過ぎていた。出張の準備も終えて、あとは夕飯を済ませてからシャワーを浴びて寝るだけというところでスマートフォンにTwitterのDMの通知が来た。

叶からだ。「今夜家に来て欲しい。」徹は迷った。

決して明日の出張に出かける時間が早いわけでもないが、体力を要する。前夜はゆっくりしたい気持ちもあったのだ。

出張から帰ってからではダメなのか返信しようとしたが思いとどまった。

よくよく思い返してみると、叶からDMとはいえ直接的に誘ってくるのは今回が初めてだった。そう考えてるうちに次々にDMがくる。「寝てる?」「早くきてほしい」普段落ち着いている叶が珍しく、少しわがままな様子だった。いつもと違うなと思った徹は部屋に向かう。

 叶はいつも通り迎えてくれたが、いつもより少し真面目な顔をしていた。

「今日の夜は料理配信するんじゃなかったの」徹は尋ねた。

「機材の調子があまりよくなくって、それより今日は2人で過ごしたいなと思ってさ」

 叶はいつも気遣いのできる人間だった。

徹が何かしようと言った時には大抵のことは受け入れてくれる。叶は徹に対して「大人だね」と言うことがあったが、それ以上に叶が大人に感じることが多かった。そんな叶が今日に限っていつもと違う。その違和感を最初から感じていたが、何かあったのか尋ねることもできずにいた。

これが珍しく叶のわがままなら、自分にだけ出してくれるならこんなに嬉しいことはない。今日は何も言わずに受け入れよう。徹はそう思った。

 2人は小さなダイニングテーブルに着いて、叶が作っておいた料理を食べた。普段食べるには少し高価な食材も使われていて、何より手間のかかる料理がいつもより多かった。

食事が進むに連れて、会話も弾んでくる。

徹が最初に感じた違和感が嘘かのように、徹の冗談が飛び交って、叶はそれを聞いて笑っていた。

「美味しい?」

珍しく、いや初めて叶は徹に料理の感想を尋ねてきた。

「うん!相変わらずすごく美味しい。」

叶はにこやかに「よかった」とつぶやくように言った後、徹の顔を見つめた。

本当に大切な人を愛おしむような、穏やかな顔をしていた。数秒見つめ合っても視線を逸らすことはなかった。

「どうしたの」

少し照れもあって、徹は尋ねる。

「ううん、なんでもないの。遅くなっちゃったね。明日出張なのに私のわがままに付き合ってくれてありがとう」

叶が笑顔でそう言った。

「大丈夫だよ!また誘って」

徹も笑顔で答えて、玄関まで向かう。

「それじゃあ」と言ってドアノブに手をかけたとき、ずしりと背中に人の重たさを感じた。叶が抱きついてきたのだった。

黙ったままの叶を背中に感じて、徹は何か言おうとしたが思いとどまった。

どれくらいの時間そうしていたかはわからない。首元に叶の呼吸を感じながら、ただその時を待った。

「またね」

叶はそう言って、腕を解く。

「うん」

徹はそのまま振り向かずにドアを開けて外に出た。振り向いてはいけない気がした。

静まり返ったマンションの廊下に出て、すぐ先の自分の部屋に向かう。

ふと立ち止まって徹は耳を澄ます。

叶の部屋から泣いているような声が聞こえた気がしたからだ。でもすぐに気のせいだとわかって、徹は自室に戻ってシャワーを浴びてから眠りについた。


続く


第9話 配信終了


5日間に渡る出張も終えて、徹は新幹線から乗り換えたローカル線の電車に揺られながら帰路についていた。手元のスマートフォンは電源が落ちてポータブル充電器に繋がれている。この時間なら叶がルナとしてキッチンライブと称して料理配信をしているだろうか。そう思いながらも帰ればまた会える安心と愛おしさを感じていた。

 例によって出張先の電話にも叔父から出張終わりにルナのアカウントを停止するようにと念押しされていた。

徹は出張前に一晩を共にした叶との会話を思い出していた。

叶との食事の終わりかけに2人の言葉が途切れる場面があった。しばらくした後最初に沈黙を破ったのは徹だった。

「なぁ、叶。オレ叶に言ってなかったことがあるんだ」

徹は叶が訝しがると覚悟したが、叶の返事は意外なものだった。

「私も黙ってたことがあるの」

少しした沈黙のうち

「何を黙ってたか今はどうしても話せない。けど、オレが出張から帰ったら全部話す。そのとき叶も話してほしい。だから、待っててほしい」

「…うん。わかった。帰った時ね。わたしもその時話すから待ってる」

今電車にいる自分の脳内でもその会話が再生されて、叶の告白に期待か不安かもわからないものを感じていた。

徹は覚悟を決めていた。

帰ったら叶に自分がForkの管理会社で働いていること。叶のアカウントを垢BANしなければ、仕事を続けられない。でも叶のアカウントか停止しても必至に働くから一緒に暮らそう。そう提案して、告白しようと心に決めていた。

 夕暮れになり、徹は叶の部屋のインターホンを押す。しばらくしても返事がない。あれ?と不思議に思った。この時間には必ずいると出張前は言っていた。少し出掛けているのかな?と思い合鍵で中を開ける。

 徹は玄関で違和感を察知して、リビングの扉を開けた。違和感は確信となった。

叶の部屋はがらんとしており、もぬけの殻だったのだ。

徹は急いでスマートフォンに繋いでいるポータブル充電器を取り外して電源を入れる。ロード時間が長い。早く。と強い焦りを感じる。

TwitterのDMで連絡しようとアプリを開くとルナのアカウントは存在しなかった。まさか、と思いForkを確認すると配信者ルナはそのFork界隈から忽然と姿を消したのだった。

奥の寝室にはマンションに備え付けてある大きな衣装鏡が壁に張り付いていていて、徹の魂の抜けたような姿を嘘偽りなく映し出していた。しばらくして徹はマンション一階の守衛室に走る。途中古くなった郵便受けの改装の工事のためブルシートが壁一面に貼られているところを走ると、シートがバサバサと音がした。

郵便受けの工事期間中、郵便物は全て守衛室の管理人が預かるシステムになっているはず。

「すみません。僕宛にきてないですか」

徹は守衛室の男に話しかける。

「何も来ていませんよ」

守衛の男はけだるそうに奥に行って、すぐ戻ってきた。

「あの…」

と徹は口を開きかけてやめた。

隣の住人、叶がどうしたのか、守衛の男が知っているか尋ねようとした。

しかし、この男、このマンションでも噂好きで有名であり、なんでも噺家をしていると人伝に聞いたことがある。そんなことを尋ねて話のネタにされたらたまったものじゃない。

それに、この時間から酒を浴びたのか、喋るたびに口からアルコールの臭いがする。完全に酩酊状態だ。この男に尋ねるのはやめておこう。そう思った。

「どうしたんだい」

男はさぐるような目つきで次の言葉を待っていた。

「なんでもないです」

徹は素気なくそう答えると自室に戻った。

叶は待つと言っていた。でも、自分の出張中に引っ越した。叶が言いたかったことはなんだったのか。オレが叶に伝えたかった事、それはForkの社員であること。

それを知っていた?まさか、でもどうやって。と、そこまで考えが及んだ時、徹はハッとした!

スマートフォンを開いて会社との連絡用のアプリのログイン履歴と時間を見た。

とある日付の夕方から朝にかけてアプリが開きっぱなしになっている時間がある。

急いでその日の予定を見ると飲み会をした日であった。

その日は酔って帰って、仕事の連絡が来たとほぼ同時ぐらいに叶の部屋に入った。翌日に叶が忘れ物と言って、スマートフォンの入ったカバンを部屋まで持ってきてくれたのだった。

 うなだれるしかなかった。後悔してもしきれなかった。あの日叶はスマートフォンを見て全て知ったのだ。徹がForkの社員であり、叶のことで苦悩していたことも。それを叶はずっと黙っていてくれた。そして、徹がこの仕事以外に就ける仕事もないことも察していたのだろう。

出張中の日にちを珍しく尋ねてきたのも、その間に引っ越しをしようと決めたのだろう。

叶は徹が思っているよりよっぽど大人であった。事情を知っていても悟られないよう努めて、1番に徹のことを考えてくれていたのだ。それが叶なりの気遣いであり、優しさだったのだ。出張の前夜に部屋に呼んだのは、叶なりの最初で最後のわがままだったのだ。最後ぐらいは配信者のルナとしてではなく、1人の恋人として、叶として接してほしかったのだ。

自分が配信を続けることで、徹の仕事に影響が出ている。だから、叶は自らアカウントを削除して黙って去って行った。

全てのことを伝えるには遅すぎた。

もう叶に触れることはおろか、声を聞くこともできない。そして叶が最後に何を伝えようとしていたのかも知る由はなかった。

配信に行こうとしたら、配信が終了していたかのように。背中にはよく後ろから抱きしめてきた叶の温もりが未だに残る。

 「うっ…うっ…」

夕暮れの薄暗いアパートの一室のさらに片隅で4枚程度のティッシュを手に持って、男は嗚咽しながら頬を伝う涙を拭いた。

「さようなら」

そういってForkのアプリをアンインストールした。勤めているForkの本社に辞表のメールを送った。7月なのに梅雨のように雨が降るジメジメとした夏の出来事であった。


エピローグ


冬の寒さの厳しい時分。男は見に覚えのない封筒を見て、おや?と思った。

男は地元でも名の知れた噺家で、弟子からはコエダ師匠と呼ばれている。

噺家だけでは弟子の面倒をみれぬと、噺家の傍らマンションの守衛室で管理人の仕事をしていたのだ。しかしこの度、めでたく売れっ子になったコエダ師匠は落語一本で食っていこうと、この管理人の仕事を後任に譲るために部屋の整理をしていた。その折りにハラリと出てきたその封筒に宛先は書いていない。

中身を見ない事には何もわからないと封を開ける。手紙にはこう綴られていた。


徹くんへ。


徹くん。最後にお別れが言えなくて本当にごめん。そして、私が黙っていたことは頭のいい徹くんなら気づいてると思うけど、徹くんの仕事を知っていました。本当に見るつもりはなかったけど、魔が刺してスマホを見てしまってごめんね。

あれ以来、徹くんが私のことで苦しんでいる姿を見てられなかった。隠してるつもりだったんだろうけど、時折見せる悩んだ顔を見るたびに胸が痛んだよ。

最後までものすごく悩んだけど、私はForkを辞める。でも、私は配信者として生きていきたいからどこか別のところで配信するよ。

だから、徹くんは今の仕事を続けてね。短い間だったけど、本当に楽しかったよ。元気でね。最後は本当の恋人になれて本当に嬉しかった。


仕事運があがるようにカイヤナイトとアズライトでお守りのブレスレットを作ったよ。良かったら使ってね。 叶より


コエダ師匠は手紙を最後まで読んだと同時に、ある記憶が蘇る。

このマンションの郵便受けの工事をしていた夏。女が引っ越すその日にこの手紙を隣人に渡すように言付かっていた。なにぶんあの時期は宴会が多くて忙しく、昼間でも酔っ払っていた。酔いのせいで記憶が曖昧となり、うやむやのままその隣人に渡し損ねたのだった。何かの拍子に他の書類に埋もれていた手紙が今出てきたのだと合点がいった。

この手紙が出てきたのはあれから約半年くらい経った今だ。特にどこからも問い合わせもない上に開封してしまった。処分するしか仕方なかった。

 封筒をひっくり返すと、ストンと青いブレスレットが落ちてきた。

ハンドメイドで1つ1つの青く丸い石が丁寧に繋げられている美しいものだった。


コエダ師匠はこれから落語一本で生きていく景気付けに頂戴するくらいにはバチはあたらないだろうと、青く煌めくブレスレットを腕にはめて満足そうな顔をした。

残った手紙だけ封筒に戻して一瞥した後、ゴミ箱に放り入れた。

カタン、とゴミ箱の底の方で無機質な音がしたのを最後にもう何も語られることはなかった。


オレの推しが隣の部屋に!?


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