悠久の魔女の足跡 ⑤
ポットから紅茶をカップに注ぎ、シアク様の前へと静かに置いた。そして、自分の分も注ぎ、向かい合うように置かれている椅子へと腰掛ける。
シアク様は紅茶に口をつけ、小さく頷いた。
「こうしていると思い出しますね。まだあなたの師匠、メリーヌがいたころのことを。あの頃は私があなたたちの暮らす家に行くことが多かったですが、そのときもリィラはいつもこうやってせっせともてなしの準備をしてくれましたっけ」
「そうでしたね。師匠はそういうことに関してはとても無頓着でズボラでしたので、放っておけば時間や予定関係なくお酒を出そうとしますからね」
「そうでした、そうでした。まだ、リィラが弟子になる前に実際にメリーヌにお酒を出されて、二人ともそのあとの仕事ができなくなったなんてこともありました」
「そんなこともあったんですね」
同じ故人を思っての思い出話に自然と笑みがこぼれてしまう。師匠のことを話せる相手は今では世界にシアク様しかいないので、とても嬉しい気持ちと懐かしさが胸にじわりと広がっていく。
「ほんと師匠が何もしないから私はこういうことばかり……シアク様は私が当時から師匠にどれだけコキ使われていたか、よく知っているでしょう?」
「そうねえ……書類仕事は丸投げ、自分で掃除しないからと散らかし放題、あげく私の貸した大事な文献資料をなくしたから探しておいてと、本当に自由奔放でしたからね」
「ありましたね、そんなこと。それで先生の本を探すために家中ひっくり返して探しても見つからず、師匠が自分の空間魔法内に収めたかもとか言い出したので、魔法の中でさらに一ヶ月探し回って、結局見つかったのが師匠が行きつけのバーに持って行って、汚したらいけないからと預かってもらっていて、そのまま忘れていたですからね」
シアク様は笑顔で私の当時の愚痴を聞いてくれる。師匠の愚痴を言うのは久しぶりで当時は隠れてよく聞いてもらっていた。
「本当にメリーヌには私も手を焼きました」
シアク様はしみじみと言葉を漏らし、紅茶へと手を伸ばした。その所作はゆっくりだけれど洗練されていて、ずっと見ていられる気がした。しかし、シアク様もなかなか強烈なエピソードの持ち主だということを私は知っている。
「先生こそ、師匠に負けず劣らず自由人だったじゃないですか」
「そうでしたっけ?」
「そうですよ。突然、やりかけの研究を放置して、数ヶ月から数年旅に出たり、ふらりと帰ってきたら、お金がなくなったからとか部屋がなくなったから、しばらく泊めさせて欲しいとか色々ありましたよ?」
「そんなこともあったわね。あのころは自分のやりたいことを優先させて、自分の魔法と魔道具の研究にしか見えていなかったからね。お恥ずかしい。でもね、リィラ、お金に困っていたのは一度だけですよ? あれだけはどうしても欲しかったから、国と掛け合って予算をつけてもらったり、おかげでやりたくない仕事回されたり、国外に同行者なしで行くことを禁止されたり……思い出すだけでも、もうね」
シアク様はそう言いながら遠くを見つめる。その目が見ているのは、懐かしんでいるのはなんのだろうかと思ってしまう。
私は近くの眼下のガーデンへと目を向ける。手入れが行き届いていて、本当に色とりどりで、今では図鑑の中でしか見ることのできないような花も混じっている。
深く呼吸をするだけでもどこか心が落ち着くような清廉な空気が満ちているように感じた。
「それにしても……ガーデンの花は本当に綺麗ですね。それだけじゃない。空気もとても澄んでいるように思います。ところで、先生? 不思議に思っていたのですけど、ガーデンの花はどうして咲いているのですか? 花の咲く季節や気候条件が違うものもあるのに、どれも綺麗に咲いている」
私の素朴な疑問にシアク様はクスクスと小さく笑い始めた。
「あなたにも分からないことはあるのね」
「もちろんですよ。分からないことばかりです」
「そうね。それは私もよ。では、久しぶりに講義をしましょうか?」
「お願いしますわ、先生」
シアク様はガーデンに目をやった後、私を真っ直ぐに見つめてくる。
「では、まず最初から。ここの空間はどういう場所か分かるかしら?」
「位相空間……ですよね? きっと空間ごと別の位相に移したというところでしょうか?」
「ええ、その通りよ。じゃあ、ではこの空間が私の魔法によって維持されているということは説明はいらないわね。それで、この空間に対して何か気付くことはないかしら?」
その言葉に周囲を見渡したり、考えを巡らせてみるも思い当たることがないので、静かに首を横に振った。
「そう……あなたには分からないのね。ここの空間に漂う魔力の濃度が濃いのよ」
シアク様の説明に、言われてみればそうだなとようやく気付けた。私が住む森も魔力は濃いがそれに慣れているためそれより少し濃い程度では気付くのも難しかった。そもそも世界最大の尽きることのない魔力源を体内に抱えているので、濃度の濃い薄いを言われても強く意識しなければ気付けないほどの微差程度の話でしかない。
エレナが魔力を使う時に魔力の濃度を意識して使わないと倒れたりして、大変なことになることがあるとお茶会の場で話していたのを思い出すが、現代の魔法師が全員意識していたとしても、私にはそんなことを意識する必要も癖も一切ないので仕方のないことではあった。
「魔力の濃度が濃い理由はこの大樹にあるわ。この大樹は星から愛されているのか、魔力を吸い上げて、他の成分と一緒に空気や大地に拡散させていたの。初めて見つけた時、この辺りは魔力の濃度が濃すぎて、むせるような緑に包まれていたわ。きっと周囲の生命に影響を与え、草花本来の生命力を高めているのね」
話を聞きながら、自分の住む森も似たようなことがあると思った。魔力の濃度が濃いと緑が濃くなり、草花の成長を速める傾向にあることには気付いていた。
私の住む森の場合はおそらく私から漏れ出る魔力が影響を与えているが、ここでは大樹自体が私と同じような性質を持っていると考えれば、すんなりと理解できた。そして、シアク様に言語化されたことで魔力と植物の関係性が知識として私の中に根付く。
「魔力の濃度が濃いということは、魔法師にとってはあの事件以前の世界と同じように魔力を補填できる安寧の場所で、聖地のような場所――」
シアク様は紅茶の入ったカップに視線を落とし、表情には影が濃くなっていく。
「だから、私はここを気に入ったの。最初は他の人に見つからないようにそっと別の空間に隠しただけだった。だけど、あの事件以降は魔法師への風当たりが強くなって、何とかしなくては思い、緊急避難先として幾人もの魔法師をここで匿ったこともあったわ。しかし、ほとんどが手遅れで助からなかった……今はね、都市機能の維持をしたり色々やっているけども、本来の目的はあのときの生き残った魔法師が普通の人に紛れながら生きていくための足掛かりや拠り所にするための隠れ里だったのよ」
私は静かに話を聞いていた。シアク様は私と別れて以降どれだけの苦労を重ねてきたのだろうと考えると胸が痛くなる思いだった。そして、私にはシアク様の手伝いをする力を有していながら、それをしてこなかった。
もしあのとき、シアク様の隣に立っていればと後悔ばかりが渦巻いてくる。
「いいのですよ、リィラ。私には――いえ、誰にもあなたを責める権利はありません。あなたはあなたで自分のことで精一杯だったということは私はよく知っていましたから――」
シアク様は私の気持ちを察してくれたのだろう。その言葉はとても優しくて、温かくて、私はいつまでもこの人には敵わないし、頭が上がらないと思った。
そして、同時にそのことがとても嬉しく、シアク様に優しく包まれているという感覚になる。そういう気持ちにさせてくれるシアク様は私の中ではとても特別でついさっきまで感じていた後悔や苦しみで感じていた気の重さもシアク様の言葉一つで軽くなったように思えた。




