図書館慕情 ⑤
この大図書館に仕込んでいる魔法は図書館内にある本を自由に取り出し、返却するという空間魔法だ。ただ元の場所にきっちり戻すことまでできるがそこまでは面倒なので、適当に館長室にめがけて返却している。
その魔法の起動に必要な魔法陣があるのが、単純な位置関係で言えば館長室の真下にあたる地下書庫へと続く階段の降り口の天井部分にあるのだ。そこに魔法陣を設置した理由は、一般開放されておらず関係者以外が立ち入れない場所で、何かあったときに確認しに行くのに楽な場所だったからだ。
そして、エーレンツという男はよりによってその魔法陣を見ながら、お茶を飲んだり休憩することを密かな日課としていた。昨日もその日課を楽しんでいたそうで、そのときにバランスを崩して勢いよく壁にぶつかり、古い建物ゆえに壁にヒビが入ってしまい、運悪く魔法陣を描いていた天井の石材の一部にまで亀裂が届いてしまったそうだ。些細な傷だったので大丈夫だろうと思っていたが、私が来たという一報が伝わり、図書館内で姿を見かけたときは内心では相当動揺し、ビクついていたそうだ。
「――という次第でございまして、私自身はどんな罰でも受け入れるつもりですので、どうかご慈悲を」
そう釈明の言葉を締めくくり、深々と頭を下げるが、私からの反応がないのでエーレンツは俯いた顔を上げられず、汗のシミをカーペットに広げていく。
しかし、私はというとただ呆れて言葉も出てこなかっただけだった。ため息をつき、「顔を上げなさいな」という私の呆れ声におそるおそると言った感じでエーレンツは顔を上げる。
「まあ、故意の破損というわけではないのでしょう?」
「それはもちろんです」
「じゃあ、もうそれでこの話は終わりにしましょうか。次から気をつけてもらえればいいわ」
「それはもちろんでございます。今後はもっと気を引き締めて――」
エーレンツの改まった言葉を聞き終える前に、
「ただ魔法陣をあなたの見せ物にするのはなんだか癪だから、魔法陣の場所を変えましょうか」
その言葉にエーレンツは驚きの表情を浮かべる。楽しみを奪われたのだから、落胆するのも分からないではないが、「同様のトラブルを避けるためには当然の措置でしょう?」と私が続けると返す言葉もないのか、エーレンツは力なく頷くのみだった。
「そうね、エーレンツ。今度の場所はあなたでは簡単に行けない所がいいわね。今度は地下じゃなく、上なんてどう?」
「上……ですか?」
「そうよ。たしか、鐘楼の最上部のすぐ下に管理用の小部屋があったわよね? あそこなんてどうかしら? 鐘がなくなってからは鐘楼は外観だけでわざわざ登るようなひともいないでしょ? ちょうどいいと思わないかしら?」
「そ、そうでございますな」
エーレンツは本心では反対したいという気持ちを抑えているのだろうか、顔を少々引きつらせながら私の提案に同調してくる。年齢も重ねさらには太い体躯のエーレンツでは以前のように日課をこなそうにも、魔法陣の元に行くだけでも大汗をかいてしまうほどに大変なことだろう。それでも日課にこだわるというのなら、彼の健康面を考えればいい運動になるかもしれない。
そう考えると、エーレンツにはいいお灸になるのではと少し笑えた。
それからエーレンツがこちらの顔色を窺いながら、難しい顔をしているのを眺めながら、紅茶と菓子を楽しむことにした。
紅茶を飲み終えると、「それじゃあ、魔法陣を設置してくるわね」とエーレンツに言い残し、館長室をあとにした。
廊下に出て、鐘楼へと上がる階段に足をかける。初めて登ったときは終わりの見えない階段に戸惑いつつ、窓から見える景色が高くなっていくことに心を高鳴らせた。しかし、今は一階相当を自分の足で登ったところで面倒になってしまい、さっとホウキを取り出して階段をすいすいと飛んで登っていった。
階段を登りきると小部屋に行き当たる。記憶の通り、鐘のある場所へと上がるための短い螺旋階段に続く扉と、鐘楼の清掃用具などが置かれていたであろうスペース。
この小部屋の壁に魔法陣を設置しようと、そっと壁に触れる。壁の石材がわずかに崩れた。経年劣化は仕方のないことなので、まずは魔法で壁を強化することにした。念のため周囲の壁も強化していく。そこまで終えて、空間を繋ぐための魔法陣を描いた。
その瞬間、図書館全体に魔法師でしか気付けない魔法に端を発した振動が走る。その振動が収まるのを待ち、確認のために虚空に手を伸ばす。図書館との空間を繋げて、現れた空間の裂け目に手を突っ込み、そこから一冊の本を取り出した。魔法陣の作動は問題ないみたいだ。取り出した本を空間の中に戻し、視線を上に繋がる扉に向ける。
「ここまで来たのも久しぶりだものね」
上へと続く螺旋階段に繋がる扉に手をかける。鍵がかかっていたが、魔法でそれを外して、重たい感触を感じながら扉を押し開ける。階段をゆっくりと上がり、次第に目の前に広がっていくストベリク市と遠景。
登り切って鐘楼の壁から、視線を下に向ければ、そこには数えるのも難しいほどの多くの人が道を行き交い、それぞれが日々の生活を送っている。
そんな有限だからこそ美しい営みを、どこか羨ましく、愛おしく感じる。
だから、そんな全ての人たちに、祝福あれと祈りながら、記憶の中だけにある鐘の音をそっと心の中で響かせた。