生きた証をその胸に抱いて ⑨
アルバロはベッドに横たわったまま、顔をわずかに私の方に傾けた。
「もう歳ですかね……左手はほとんど感覚もなくなりましたし、目もほとんど見えなくなってしまいました」
アルバロは私の顔を見ようと視線を向けているのだろうが、それがずれていて焦点も合っているのか怪しいと感じてしまう。
「そうみたいね」
私の声に合わせて目を動かし、焦点を合わせようとしているのが見て取れるがそれもどこか辛そうで。
「無理に私と目を合わせて話そうとしなくていいのよ」
「そうですか……それでは失礼に当たるかもしれませんがお言葉に甘えさせてもらいます。もう靄がかかったようにぼやけていているのです。すいませんがもう一つお願いをしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、かまわないわ」
「ありがとうございます。では、指輪を……子供のころからずっと大事にしてきた両親の形見の指輪を取っていただけますか? 近くに置いてあると思うのです」
「分かったわ」
アルバロの言う通り、ベッドの近くのテーブルの上にボロボロになった革紐に通された一組の指輪があった。それを手に取り、アルバロの右手に握らせる。
「ありがとうございます。それにしても、シェリア様の手は温かいですね」
「そうかしら? 私は冷え性の気があるから、手は冷たいと思うけれど?」
私の言葉にアルバロは小さく笑う。
「温かいですよ。きっと優しさや心の温かさが伝わっているのだと思いますよ。私が人間として生きると決心したあの日、シェリア様に“それでいいのよ”と撫でられた感触と温もりが忘れられないのです。そのときに見たあなたの笑顔もそれから幾度も見た美しいお顔も脳裏に焼き付いているのか、今でも思い出すことができます」
「それはあなたの奥さんには聞かせられない話ね」
「いえ、妻は私がシェリア様に惹かれていたのを知っていますので。それに私の中では妻の顔も別れの際の死に顔も全てはっきりと覚えています」
「それならよかったわ」
「それに私が愛した女性は妻だけですから。シェリア様のことは憧れで、恋愛とも友愛とも、親に向ける愛情とも違う……特別な言葉で言い表すには難しい感情を抱いていたのだと思います。私にとっては突然両親を失ってからは、母のように見守ってもらい、姉のように支えていただき、友のように一緒に過ごしてもらい、感謝してもしきれないのです。シェリア様の家で過ごした日々は本当に楽しかった」
アルバロは穏やかな口調でしみじみと口にする。きっと当時のことを思い返しているのだろう。私にとってはつい先日のことなので思い返すことなく思い出すことができる。
「アルバロ、あなたの料理の味はきっと忘れないわ」
アルバロは目から涙がすっと一筋流れた。
「私のような普通の人間でも、シェリア様の中に何か残せたというのなら思い残すことはありません。ミレラア様ならきっと私の料理を再現できると思いますので、よかったらまたお食べください」
「あなたのことを思い出したら、そのときは食べることにしましょうか」
「ありがとうございます。私の存在はあなたの迷惑にはならなかったでしょうか?」
「時々はそう思ったこともあるわ。でも……思い返してみれば悪くはなかったわね」
「そこは嘘でも、そんなことなかったと言うところではございませんか?」
アルバロの反論に思わず笑ってしまう。
「そんなしおらしい言葉を私に期待していたの? あなたの知る魔女シェリアはそんな女だったのかしら?」
「違いますね……私ごときでは本心までは分かりかねますが、いつも真っすぐで下手な嘘やごまかしは言わない方でした。それは初めてお会いしたあの日からずっと……」
アルバロの右手はゆっくり胸元へと向かい握られる。指輪を手にしていても長年の癖は変わらないのだろう。
「シェリア様、よろしければ指輪を受け取ってもらえませんか? 私がいたことを形としてあなたに残したいのです」
アルバロはそう口にしながら指輪を握った右手を私の方に伸ばしてきた。それをゆっくりと押し返し胸へと戻す。
「受け取れないわ、アルバロ。それはあなたが残していく子供か大事な人に渡しなさい」
「私もそうしたかったのですが、この指輪の話を聞かせたら、そんな大事なものを受け取ることはできないと言われてしまったのです」
「そうなのね。ならば、死後の世界まであなたが持って行きなさい。私は形なんてなくてもあなたのことを思い出すことができるもの」
「そうですか……そういうことでしたら、もし死後の世界というのが存在するなら、そこで両親に返すことにしましょう。私も自分の指に嵌めるということはできませんでしたし、これは両親の指にあるのがふさわしいものかもしれません」
「そうかもしれないわね」
私の相槌にアルバロは薄っすら笑みを浮かべ、ゆっくりと目を閉じた。
「シェリア様……申し訳ないのですが少し休ませていただきたいのです」
「ええ、もちろんかまわないわ。起きたらまた話をしましょう」
「はい。ありがとうございます……」
アルバロは大きく息を吸いゆっくりと吐き出した。そして、柔らかな表情のまま眠りについた。しばらく見守っているとその眠りがもう覚めることのないものになったのだと気付いた。
「起きたら話をしようって言ったじゃない。それを嘘にしないためにも何百年かけてでも、生まれ変わるか、化けてでも会いに来なさいよ」
小言を口にしながら、アルバロの両の手を胸の前で組ませた。もちろん指輪も握らせる。それが死後の世界で両親に会うための道しるべになればいいと思ったのだ。
そうやって最後まで人間として生き抜き、幸せな生涯だったと笑顔で先に逝った大事な人に伝え、後から来るであろう大事な人を待てばいいのだ。
そこに私は行くことができない。だから、私の代わりに師匠に会えたら、私が元気にしていたと一言伝えて欲しいとわがままを思ってしまう。
死後の世界でも幸福であって欲しいと、祈りを込めてアルバロの組んだ手に自分の手を重ねた。
遺された側にできることはやはり覚えておくことと、祈ることしかできない。
覚えておくと約束した人間がまた一人、私を置いて先にこの世を去ることになってしまった。私の中にはそうやって短い間でも共に過ごし、言葉を交わし、笑い合った人間が少しずつ増えていく。
覚えきることができなくなる前に、私もヨルンのように本にして彼らの生涯を記録として残すのもいいのかもしれない。
そうなれば、最初の一人目は決まっている。
そして、今のところの最後の一人もまた決まっている。
私の尽きることのない生涯の中であとどれくらい共に過ごした時間は一瞬でも大切だと思える相手と出会い、別れていくのかは分からない。
その一つ一つの出会いをできるだけに大切にしようと、私はアルバロに教えられたのかもしれない――。




